第5章 第80話

――あっ!……――

 突然、情報の奔流が切断され、重ねて衝撃的な『痛み』の情報に襲われ、ユモは一瞬、放心した。

――……何?何が、どうし……ちょっとユキ!どうしたの!――

 二人の同意の元、意図的に切り離していた幾つかの体性感覚、視覚その他の五感を――痛みを含む不快感は切り離したまま――戻したユモは、雪風がコントロールしている獣魔女の体が、片腕を失い、それだけではない苦痛に耐えかねて片膝をつき、木刀れえばていんを地に突いて体を支えていることに気付く。

「ゴメン……ちょっと、限界だった……」

 獣人化し、食いしばった犬歯の間からそれだけの言葉を押し出すと、獣魔女は木刀れえばていんを地面から抜き、懐刀ほどの長さに縮める。縮めた木刀れえばていんを右の二の腕と巻いたスカーフの間に差し込み、二度ほどひねってさらにきつくスカーフを締め上げ、無理矢理に止血する。

「悪い……右手、焼いて……今すぐ、大急ぎで、跡形も残さないで……」

 喘ぎながら、獣魔女が呟く。

「……斬ったけど、切れてない……」

 その一言で、ユモは状況をある程度理解する。

 理由ははっきりしないが、右腕に重大な問題があって、再生不可能な状態で、物理的には切り離したけど、霊的に切り離せていないのだ、と。

「急いだ方が良さそうです」

 ニーマントの声が、ユモを急かす。

 と、なると。ユモは考える。普通に炎の精霊を呼ぶのではダメ。一気に、一瞬で、焼き尽くさないと……と、なると。

――わかった、一旦合体を解くわ、その方が多分早いから!――

 合体したままでも、目的の呪文を唱えることは出来ない事は無いが、苦しむ雪風の肉体コントロールの隙を縫って『自前の腕』で印を切るのは、ちょっと難しそうだ。加えて、痛みを含む不快感を切り離しているとは言え、情報として伝わってくる雪風の苦しみは、不協和音的なノイズとなって集中の妨げになる。

 そう考えたユモの提案に、雪風は即答する。

「頼むわ」

――……精霊よ、く現れ出でて、精霊の導きによりあざなわれた友情の糾いバローム・クロースを解きたまえ!――

 ユモの声が、エーテルを振動させる。一瞬の放射閃オドきらめきの後、獣魔女の背中から軍用コートを纏ったユモがはじき出されるように分離する。

「……う?、ぐ……ぐぇ……」

 分離した途端、ユモは強烈な目眩と吐き気に襲われ、後ろ向きにたたらを踏んで尻餅をつきそうになる。

「……毒だか呪いだか分かんないけど……繋がりが断ち切れないのよ……」

 元の中学生相当の声で、合体を解かれた雪風が現状を手短に説明する。合体を解かれたことをきっかけに、復元のまじないをかけられていたセーラー服の、切り離された袖先が糸を解かれるように消えてゆき、雪風本体のセーラー服の袖がそれに合わせて元に戻る。その袖が、戻る端から滲み出す鮮血に濡れる。

「毒だか呪いだかが這い上がってくる方が、あたしの再生より早いし……」

 セーラー服の袖が無くなったことで丸見えになった、切り離された右腕に視線を流しながら、雪風が吐き捨てるように言う。

 その腕は、掌から手首にかけては黒く、枯れ木のように痩せ細って乾燥し、その変異はめきめきみしみしと音が聞こえるような錯覚を覚えるほどの明確さで、じわじわと肘に向かって進んでいた。

「……早く、切り口に達する前に……ユモ、大丈夫?」

 脂汗を流しながら説明しつつ雪風は後ろのユモに振り向いて、ユモがふらついているのに気付く。

「大丈夫……ゴメン、すぐやる」

――こんな、こんなにキツい吐き気を……頭痛と目眩を、ユキは……――

 ユモは、自分の体に戻ったことで、雪風が受け持っていた自分ユモの脳由来の不快感の強さにショックを受けると共に、申し訳ない気持ち、だけではない感情で胸がいっぱいになる。

「……偉大なる始祖しそマーリーン、先祖せんそエイボンに連なる我、ユモ・タンカ・ツマンスカヤが精霊に命ずる!『生ける炎』用いて我が指し示すものを焼き尽くせ!ふんぐるい むぐるうなふ……」

 割れそうに痛む頭と、その影響だろう吐き気と目眩を気合いで押し殺して、ユモは『決して人には正しく発音出来ない呪文』を唱える。

「……ふぁむ・ある・ふーと……」

 その呪文を聞いた『元君』が、目を見開いた。

「……なふるたぐん いあ! くとぅぐあ!」

 閃光と熱、爆発的なエナジーが瞬時、雪風の右のかいなのある場所で弾けた。


 もし、そのエナジーが無制限に開放されたのだったとしたら、ここに居る全員が消し飛ぶか、良くて消し炭になっていたであろうけれど、ユモの呪文に含まれ自動展開する『精霊の護り』によって、そのエナジーの奔流はユモの指定する空間内に封じ込められていた。

 それであってなお、直視すれば網膜を焼きかねない閃光と熱量を感じて、オーガストとモーセスは思わず腕で目と顔をかばう。

 その熱と光を前に仁王立ちしたユモは、延ばした右手の先の開いた掌を、ぎゅっと、握る。

 そのユモの動きに合わせ、切り離された雪風の腕を覆っていた光球がぎゅっと縮み、縮ませられることに一瞬抵抗を見せてから、破裂音と共に消滅する。

 破裂音は、それなりの熱波と衝撃波を伴って各人を襲うが、もはやそれは充分に人の耐えられるレベルのそれであった。


「……終わったわよ」

 ユモは、自分の半歩前にいて、この期に及んでなお衝撃波からユモをかばっていた雪風に声をかける。

「……ふぅ~……ぅう、ううう、うううりゃああっ!」

 左手で右腕を押さえて俯いていた雪風が、一息、深く息を吸ってから、突如、吠える。

 吠えて、突き出した右腕は、一瞬で元の姿に戻っていた。

「お二人とも、お見事でした」

 ニーマントが、ユモと雪風を労う。

「……っぁああ~……痛かったぁ~……」

 雪風は、尻餅をつくような勢いで御神木の手前の地面に座り込む、スカートの裾を押さえながら。

「やー、久しぶりに酷い目に合ったわよ……ちょっと休憩!」

 後ろに手をついて、雪風は大きく息を吐く。

 その雪風の膝の間に、どすんとユモが腰を下ろす。

「うおっ」

「あたしも、ちょっと限界……」

 ユモは、そのまま雪風にもたれかかる。

「頭ガンガンするし、目は回るし気持ち悪いし……」

 言いながら、ユモは銃剣バヨネットを抜き、弾薬盒パトローネンタッシェの聖水瓶にその切っ先を漬ける。

「……オムニポテンス アエテルネ デウス……」

 よく通るユモのソプラノが、場のエーテルを振動させる。ユモと雪風が腰を下ろす地面に、天使の印章シジルが柔らかく暖かい光の連なりとなって浮かび上がる。

「……オロ ウト スピリトゥム アイシム デ ガブリエル オルディネ ミッタス……」

 エーテルの振動はゆるい渦を巻き、ユモと雪風の回りで放射閃オドの煌めきとなって舞い踊る。

「……ジュセム クリスタム フィリウム ウニゲニトゥム。アーメン!」

 歌うように唱え上げた呪文を、ユモは銃剣バヨネットの最後の一振りと共に締めくくる。銃剣バヨネットの軌跡は、ユモと雪風、二人の頭上で五芒星として輝き、振り上げた銃剣バヨネットをユモがゆっくり振り下ろすのに合わせて、その五芒星も降りてくる。

 光の五芒星は、地上のガブリエルの印章シジルに触れ、互いに混ざり合い、無数の輝く粒子と化してゆるく渦巻き、広がり、消えてゆく。

「……よし!」

 言って、大天使ガブリエルの召喚呪によって自分と雪風の体調不良を消滅させたユモは、銃剣バヨネットシースに収めて、頭を振ってから長い髪を手でさばき、立ち上がる。

「もう、人の目の前でやるんじゃないわよ」

 遠慮の「え」の字も無く目の前で長い髪をさばいたユモに苦笑して苦言を呈しつつ、雪風も一挙動で立ち上がり、ぱたぱたとセーラー服の尻をはたく。

「今のは……」

 拡散する光の粒子の余波を浴びたオーガストが、誰にともなく聞く。

「ラテン語でした……知識として知ってはいましたが、こういうものだったとは……」

 やや呆然とした口調で、モーセス・グースが呟く。

「……これが、魔法。これが……」

「……教会の権威が忌み嫌い、遠ざけ、焼き尽くそうとした、これがその魔法……」

 モーセスの後に、オーガストのやや唖然とした呟きが続いた。

「……その祝福を得た身とはいえ、目の当たりにするのはこれが初めてです」

「素晴らしいわ」

 男達を差し置いて、『元君』はユモと雪風の前に進み出て、二人を両の腕で抱きしめる。

「素晴らしい、なんと素晴らしい……こんなにたかぶり、興奮したのはどれくらいぶりかしら……」

 二人に頬を寄せるようにして、『元君』は感極まった声で言う。

「……そして、私が貴女達にしてあげられるのは、何もしないこと、ただそれだけだというのがもどかしいわ……私は、私の中の黒山羊は、我が嬰児みどりごに祝福を与えたくて仕方ないけれど、我が力を授けたくて辛抱たまらないのだけれど、それは貴女達の望むところではない……貴女達は『シュブ』の直接の子として生まれたのではないし、貴女達のあるべき所に帰りたいのですものね」

 『元君』は、少しだけ、ユモとユキから体を離す。

「だから、私は我慢するの。人の肉を持って生まれた私は、我慢することを知っているから」

 名残惜しそうに、『元君』はユモと雪風の頬を撫でる。

「でも覚えていて、愛しい嬰児達。私は、貴女達をいつまでも、どれだけ離れていても愛するわ。これほどまでに奇跡を成せる貴女達を愛さないでいる事など、到底我慢出来る事ではないのですから……」

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