第5章 第79話
一瞬、まばゆく、しかし暖かい光の奔流が地下空間に満ちる。
瞬きより短い時間の後。二人の少女が居たはずの空間は、一人の大柄な女性が立っていた。
その体は、女子中学生としては長身の雪風よりさらに頭一つ高く、肩幅も腰回りも、胸回りも身長に似つかわしく立派であった。
その髪はユモがそうであったように腰まで届き、左側はユモと同じプラチナに近いブロンド、しかし右は雪風と同じカラスの濡れ羽色、もみあげの一房のみ、左右とも逆の色。
その顔は、光の奔流が過ぎ去った瞬間は狼のそれに見えて、一瞬の後には雪風に似た面影の大人びた、左目はユモと同じ碧の、右目は雪風の檜皮色の、東洋人とも西洋人ともつかない不思議な魅力を湛えた
ユモの軍用長靴は膝下のまま、雪風の黒のセーラー服はミニ丈に詰まり、その上に羽織るユモの軍用コートはむしろ膝下のロング丈に。
術の余韻のエーテルの煌めきを纏わせながら、その『
「……よし!」
やや大人びた雪風の声で、一言気合いを入れた。
「なんと……」
「これは……一体……」
モーセス・グースとオーガスト・モーリーは、それぞれそう言ったきり、言葉を失った。
「あれ、オーガストさん、見るの初めてでしたっけ?」
――てっきり、
やや大人びた雪風の肉声が耳に、そのままのユモの声が直接鼓膜に届く。
「あの時、ですか?……ああ、青い光の炸裂とともに私が吹き飛ばされた」
「正確には、その直前ですけどね」
――上から覗いてるもんだとばっかり思ってたけど――
「あの時は、お二人が穴の下に降りられてからしばらく『彼』と話をして、そして『彼』が青い光に乗ってどこかへ飛び去り、下の喧噪が気になって覗き込もうとしたら吹き飛ばされた、そんな感じでした」
「ありゃ」
――残念。ついでにアイツも吹き飛ばせてりゃ、万々歳だったのに――
「……お二人は、ユモさんとユキさんは、そこに、その……」
どう表現したものか、モーセスは現状の二人の状態を聞きたいが、丁度よい言葉が浮かばない。
獣魔女は、ふっと片方の口角を上げ、
「見た目は一人、頭脳は二人。魔女にして聖狼。その名は……」
そこまで言って、言葉に詰まる。
「……決めてなかったわね、そういえば」
――もう!キメなさいよこういう時くらい!かっこ悪いったらありゃしない――
てへっと頭を掻く獣魔女の中から、ぷりぷり怒るユモの声が聞こえた。
「……中身は、変わらないのですね」
オーガストが、やや平坦な声で呟く。
「はい。変わらないようです……」
ニーマントの声には、逆に珍しく感情がこもっているようにも聞こえた。
「……残念ですが」
「ちょっとこら!ニーマント!」
獣魔女が、胸元のペンダントを視線に持ち上げて、言う。
「残念って、どういう意味よ!」
――オーガストさんも、なんか失礼な事考えてませんか?――
先ほどと違い、音声としてはユモの声が聞こえ、鼓膜には雪風の声が直接届く。
よく見れば、獣魔女の面影は、雪風のそれよりユモに近い。
「……一つの体に、お二人の心が同時に、別に存在するのですね?」
その様子を見て、得心がいったのか、モーセスが言った。
「普段はユキが体をコントロールする方が良いからそうしてるんだけどね」
「『等分の契約』ってのが前提なんで、主導権はどっちにもないんです、役割分担だけで」
するりと、元の雪風似の面影に戻って、雪風の声で獣魔女は続けた。
「素晴らしいわ……もっと近くで見ていいかしら、手を触れても良くて?」
とろけそうな視線を向け、近づいて来る『元君』に、獣魔女は小さく頷く。
『元君』の『黒い』白魚のような両手の指が、獣魔女の両の頬に触れる。
「……
自分よりいくらか背の高い獣魔女を見上げる『元君』の目は、歓喜に潤んでいる。
「……決心は、変わらないのね?」
「未知なるものを知り得る好機を逃すのは、月の魔女ユモ・タンカ・ツマンスカヤの矜持が許さないわ……もちろん、不安も怖さもあるけど、そこは、あたしの半身が乗り越える勇気をくれるから」
再びユモの顔で、獣魔女は『元君』の問いに答えた。
――魔女見習いでしょ?――
「うさいわよ」
――でもまあ、チャンスを逃すべきじゃ無いってのは同感。そのためにあたしが出来る事があれば、協力するのはやぶさかじゃないわ――
「ずいぶんと偉そうじゃないの、
――そりゃそうよ、なんたってあたしはあんたの『お姉ちゃん』なんだから――
「頼りにしてるわよ、肉体労働担当」
――おうよ。といったところで……――
三度、獣魔女の顔は雪風のそれになる。
「あたしとしちゃ、むしろこれ食べるっ方が勇気が要るんだけどね」
言って、獣魔女はジト目で、ずっと左手に持っていた果実を見る。
――どうして?ただの
「ただの
苦笑して、獣魔女は左手の果実を見る。
「この世に実在しない神の果実、アンブロシア、月の魔女のあんたが知ってるとしてもそこは驚かないけどさ。あたしにはこれ、別の果物に見えてるわけ……人参果って、知ってる?」
――知らない――
「『西遊記』に出てくる、不老長寿の妙薬。なんか、ものすごい手間のかかる果物で、その形は人の赤子に似る、でしたっけ?」
獣魔女は、恐らくその知識を持つであろうモーセス・グースに話の矛先を振る。モーセスは、軽く頷く。
アンブロシアはギリシャ神話における神の食べ物、神の飲み物ネクタルと対をなすものであり、アキレスやデモポンの不死性に関連している。人参果は万寿山は五荘観寺の産物で、一つ食べれば四万七千年寿命が延びるという。
どちらも神話上の果物だが、同じ名前の果実なり料理なりは実在する、もちろん全くの別物であるが。
「そう見えてるだけ、別物だってのは頭じゃ理解してるつもりだけど、このビジュアルが、ねぇ……ま、腹くくるか……何か願うんだったわよね?」
モーセスを、続いて『元君』を獣魔女は見る。モーセスは小さく頷き、『元君』は頬に当てた左手の小指を噛むようにし、微笑んで獣魔女を見返す。
ふーっと息を吐き、むんと胸を張ってから、意を決した獣魔女はがぶりとその果実にかじりつく。
「……」
しゃりしゃりと咀嚼して、呑み込んで、獣魔女は呟く。
「思ってたんと違う……」
――なんかこう、豆っぽい感じね、
「要するに、美味しくない」
「良薬口に苦し、です」
くすくすと笑いながら、モーセスが言う。
「拙僧も、まあ、同じ事を思いましたが……」
「……んじゃまあ、行ってみますか!」
獣魔女は、食べ残しの果実の芯を御神木の根元に置くと、右手を挙げた。上げている途中で、獣魔女の表層がユモに切り替わる。
「一応、おまじないしとくわ。アテー・マルクト……」
流れるような動作で、腰に付けた
「……よし、じゃあ……」
「……いくわよぉ」
表層を雪風に切り替えて、大きく息を吸うと、発勁を撃ちそうな勢いでその右の掌を御神木に当てた。
衝撃が、ユモの意識を貫く。感覚を伴わない、情報としてだけの、衝撃。ユモは、意識の片隅で、体性感覚の殆ど全てを雪風が遮断してくれているのを理解する。
その上で、ユモは、その衝撃が通過した後の、情報の奔流に目を向ける。本能的に避けてしまう、明らかに
ユモは、その情報の奔流を、自分の中に引き込んだ。
「……っあ!」
手を置いた瞬間、獣魔女の、大人びた雪風の顔が苦痛に歪んだ。
反射的に左手で右の前腕を押さえ、食いしばった犬歯の間から苦痛の嗚咽を漏らした雪風は、右腕を押さえた左手でセーラー服のスカーフを抜き取る。
すぐさま、雪風はスカーフの一端を咥えて押さえ、スカーフを右の二の腕にきつく巻き、左手だけで器用に縛り上げる。
「く……」
本能的に、経験からも、雪風は悟っていた。この痛みは、只者じゃない、と。毒か呪いかは分からないけれど、これは、接触面からじわじわと体を侵食するタイプの何かだ、と。
縛ったスカーフの上から左手で右腕を押さえ込みながら、雪風は、骨の髄が凍るような、血管を根こそぎ引き抜かれるような苦痛に、耐えた。
その雪風の体に、さらに猛烈な脳由来の不快感、吐き気と目眩が重ねて襲ってきた。
ユモは、その瞬間、気を失いかけた。情報の奔流。脳が処理出来ない、圧倒的な情報量。今まで感じたことのない感覚、見たことのない映像、聞いたことのない音声。
五感の全てが未知の刺激に溢れ、脳が飽和し、沸騰するような、頭の中が焼き切れるような感覚。
消し飛んでしまいそうな意識の片隅で、ユモは、雪風の姿を見る。幾重にも重なった雪風の姿、しかし、明確に、ユモは一つの異変に気付いた。
片腕を、右腕を失い、血を流し、苦痛に顔を歪める雪風の姿。同時に存在するいくつもの雪風の、笑顔だったりおどけていたりする姿の中で、明らかに異質なその姿。
ユモは、その瞬間に理解する。
この情報量は、『今』だけじゃない、『過去』と『未来』の時間軸が
どれほどの時間軸上の距離が重畳されているのかは分からない。多分、ほんのちょっとの『近過去』『近未来』に過ぎないのだろうけれど、そうであってもこの情報量。まともな神経、まともな頭では、とうてい受け入れられるものじゃない。
――つまりこれが、『
ユモは、情報の奔流に消し飛ばされそうな意識を針のように集中させて、その一点を貫こうとする。
――見下ろせるなら、その『居場所』ってのが、時空間的に安定した『座標』があるはず……――
奔流の一点。渦の中心核。そのような何かが無いか、ユモは必死に探し、気配を感じ、振り向いた、その時……
――ゴメン、ユモ、もうそろあたし、限界……――
雪風の声が、意識の違う方向から降ってきた。
まるで、落雷のごとくに。
「……『れえばていん』!」
雪風は、左手を振りおろす。音もなく、
軽く放り上げるようにして、雪風は順手に握っていた
「……ぁあああ!」
一瞬の間の後、一声吠えた雪風は、
張りつめたロープが断ち切られるような音と共に、雪風の前腕が体から離れる。
血しぶきが、吹き出す。血にまみれた右の
「な……」
「何を」
モーセス・グースが刮目し、オーガストは一、二歩、雪風に駆け寄った。
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