第5章 第77話

 片手に1つずつ、両手に持った果実をユモと雪風に手渡すと、『元君』はもう一度右手を肩越しに持ち上げる。

 再び伸びてきた枯れ枝の先の果実が、その右の手のひらの上にぽとりと落ちる。

 その第三の果実を、『元君』は改めてユモに差し出した。

「……え、えっと……」

 差し出された果実に手をのばし、受け取りつつも、ユモとしては二つ目のそれを受け取って良いのか、ユモは困惑を隠せない。

「それは、ミスタ・ニーマント、あなたの分です」

 『元君』は、そんなユモに軽く微笑んでから、視線をユモの胸元に落して、言う。

「あなたほどの存在が、どんな経緯いきさつがあってそのような姿で居るのか、とても興味があります。そのあなたに、私からのささやかなプレゼントです」

「これは……しかし、私は果物を戴いても、残念ながら食べる口を持ちませんが。それに、申し訳ありませんが、私は、私自身がどうしてこのような状態であるのか、お話ししようにも全く覚えていないのです」

「まあ……それは残念」

 『元君』は、しかし、言葉とは裏腹にさほど残念と思っていなさそうな表情で、声色で、答える。

「ですが、ともかくもそれはお納め下さいまし。きっと、悪いようにはなりませんことよ?」

「……では、お言葉に甘えましょう。ユモさん、お手数ですが私の代わりにそれを保管していただけますか?」

「なら、あたしが持っといた方がよさそうね」

 フンスとため息ついてから、雪風が話に混ざる。

「はいはい。どんどん仕舞っちゃうからね~」

「あ」

 有無を言わさずユモの手から果実をつまみ上げて、雪風は自分の果実を持った左手の人差し指と中指で首のチョーカーに触れ、小さく、誰にも聞こえないくらい小さく、コマンドワードを呟く。

 ほんの一瞬。控えめに、ほのかに薄桃色のチョーカーはきらめき、かき消すように三つの果実は消え失せる。

「……使いこなし、もう完璧じゃない」

「ま、ね。れんしゅーしたもの」

 腰に手を当てて、ニヒルっぽい顔で雪風に言ったユモに、雪風も同じような笑顔で返す。

「この『副作用』、凄く便利だもの。もっと早く作ってもらえば良かった」

「作るのに結構苦労したんだから。時間もかかったし」

 場違いにキャピキャピし始めたユモと雪風を見つつ、『元君』とモーセス・グースは目を丸くしていた

「まあ……」

「……今、一体……」

「『空間』を、ごく狭い範囲ですが、歪めたのです」

 うっとりとした表情でユモと雪風を見つつ、『元君』が言う。

「素晴らしいわ、小さな魔女さん。この宇宙、この時空の存在が、別次元の宇宙に干渉する技を持ち、それを見られるとは、思ってもいませんでした」

「……そんなたいそうな魔法なの?これ」

「あんたねぇ……」

 雪風の茶々にユモは小さく嘆息して、続ける。

「あたし達の居るこの三次元世界は、同時に他の次元の世界と重畳ちょうじょうして存在しているの。と言っても、普通は見えたり触ったり出来ないし、存在そのものを認知出来る人間は、あたし達魔女、魔法使いを除けば居ないと言って良いはずだし、あたし達だってそれなりに意識して、やっと気配を感じる程度よ。あんたのチョーカーに焼き込んだ魔法は、その重畳する他次元との狭間のこっち側・・・・に、ほんのちょっとだけ、巾着袋みたいな余剰空間を割り込ませてる。言ったでしょ?そのチョーカーは、常にあんたの源始力マナをごくわずか消費してるって」

「……その空間の維持費、って事か……で、呪文が発動すると一瞬だけその巾着の口が開く、ってわけか」

「その分の源始力マナと引き換えに、ね。源始力マナの変換効率の問題で光が出ちゃうのは、まあ、もうちょっと改良の余地があるんだけど……」

 ユモは、『元君』に向き直る。

「本来は互いに干渉しない多重空間を、唯一エーテルだけは普遍的に、ごく当たり前に貫通して存在している。あたし達の魔法は、そのエーテルを振動させ、多重次元の向こうから必要なエナジーや物質を『精霊』というイメージを介して呼び寄せる。あたしは、あたしの師匠マイスターであるママムティからそう教わったわ……この理解で、合ってます?」

 ユモに問われ、『元君』は、小さく微笑みながら話し始める。

「かつて、この星がまだ生命はおろか大気すらまともに持っていなかった頃、ここは、『多重次元を徘徊する存在』の支配下にあったそうです……支配下、という言い方は少し大仰おおぎょうだけれど、要はそういった『存在』の、お気に入りの遊び場の一つ、そう理解した方が感覚的に近いでしょう。それら『存在』にとって、言うなればここら辺一体、この星、この太陽系、この銀河周辺部は遊技場のようなもの。それら『存在』は、まるでお砂場で山や川、城を作り、陣取り合戦をする子供のように、この三次元宇宙で児戯じぎふけっていた……人間の体を受肉した私が、人間の言葉で表現しようとすると、恐らくはそう言うのが一番分かりやすく、一番近しいのだと思います」

 『元君』は、体をひねって視線を後に、枯れ木、御神木に向け、その枝を辿って天井を見上げながら、続ける。

「遊びに飽いた『存在』は、また別の遊び場へと移動し、遊びに夢中な『存在』はここに残って遊び続けた。そのうち、星々は姿を変え、この星には自発的な生命の兆しが見え始めた。その頃に、既に他の星、この三次元宇宙の別の場所で発生していた生物が渡り住んできた。『古のものElder Thingなどと呼ばれるそれを、『存在』の一柱である『偉大なる母Magna Mater』は等しくいつくしんだ。まるで……」

 『元君』は、視野の中に、自分以外の全員を納める。

「……あなた方が、取るに足らない蟻の巣に興味を持つように」

 その言い方に、ユモと雪風は、オーガストも、異質な何かを感じた。

「何から何まで違う、生物という定義の範疇で語る事すら出来ないほどに異質な『多重次元の存在』と、『この次元の生命体』。思考や行動原理は元より、物質としてすら、そういった『個の性質を示す概念』すらこの世界と相容れない『偉大なる母Magna Mater』にとって、それはしかし、興味を持ち、慈しむに足るものだったの。だって、そうでしょう?あなた方だって、何を考えているか分からなくても、自分達と全く違う形態と構造であっても、自分の目の前で生を営み、自分が与えたものを滋養とし、時には自分にそれをねだる仕草を見せたとしたら、それが虫ケラであろうがなんだろうが情が生まれる、そういうものではなくて?」

 はっと、小さな雷に打たれたように、ユモは理解した。

 『元君』は、人の姿をして、人の概念、思考にそって話し、行動しているが、その根底にあるものは、本来、人とは相容れない、人の概念や思考とは全く異なる何かなのだ、と。

 人にとって、この『都』にとって、あたし達にとって本当に幸いだったのは、この『元君』と、その母体とも言えるだろう『偉大なる母Magna Mater』、『千の仔孕みし黒山羊』とか言う『存在』が、人やその他の生命体にとって敵対的ではなかったことだ、と。

 それが、人が虫に対して思う程度かそれ以下の好意、あるいは興味でしかなかったとしても。

 蟻の巣に興味を持ち、同時にその足で幾匹もの蟻を踏んでいることに気付かない、幼児のようなそれであったとしても。


「だから、『偉大なる母Magna Mater』は『古のものElder Thing』を慈しみ、その繁栄を悦び、衰退を哀しみ、後から来た『ユゴスよりのものFungi from Yuggoth』による蹂躙じゅうりんを哀れんだ。でも、『偉大なる母』はだからといって『古のもの』にも、もちろん『ユゴスよりのもの』にも自ら干渉することはなかったの。だって、『偉大なる母』は『古のもの』も『ユゴスよりのもの』も等しく『愛して』いたし、繁栄と衰退、衝突と殺戮、何よりも生と死こそ、その種族の生きた証であり、生命としての本質であり、侵すベからざる貴いものだと考えているから。だから、『偉大なる母』は観察者に徹し、彼らが祈る時にのみ、その祈りに答え、その証として、自らの末端を、末端のほんの一部をこの次元に現した」

 『元君』は、枯れ木のようなその御神木の肌を撫でながら言う。

「それが、この御神木。その頃はもう少し違った形だったそうだけど、私はその頃はまだ生まれていないからよく知らないの。そして、この次元の物質として具現化するのと引き換えに、『偉大なる母』の末端はその多くの気質を失ったけど、それでもまだ充分に彼らにとって未知で不可侵の存在であって、彼らの信仰の対象となり、それが故にこの御神木の周囲は彼らにとっても聖域となり、この『縦坑シャフト』では『古のもの』と『ユゴスよりのもの』の抗争は、少なくとも表面上は禁忌となった。何故なら、彼らもまた、この次元にのみ根ざす自分達とは根本的に違う『多重次元の存在』を出来る範囲で理解しようと努め、あるいは畏怖し、敬い、敬愛したっとぶ、それが出来る程度には高度に発達した生命体だったから。それはまた、よりいっそうに『偉大なる母』に愛される理由にもなったわ」

 御神木の幹を撫でながら、枯れた梢を見上げながら語っていた『元君』が、視線をユモと雪風、オーガストに向けた。

「それからずいぶん経ってから、やっと、この星に自発的に知的生命体が発生したそうよ」

 小首を傾げて、『元君』は微笑む。

「……それって……」

 探るように、ユモは尋ねる。

「そう、あなた方地球人類の、その先触れとなる生物の発生。その生物は、瞬く間に発達し、独自の文化を備えるに至った。その特徴的な、不合理極まりない繁殖方法とともに」

「……不合理、ですか?」

 今度は雪風が、ちょっと不服そうに『元君』に問う。

「そりゃ、突然変異に依存した進化なら偶然性に依存しすぎでしょうけど、個体差レベルの形質の差異の積み重ねによる環境適合なんかは、充分に合理的だって思えますけど」

「進化については、その通りでしょうね。不合理なのは、あくまで繁殖方法です。繁殖にはオスとメスが必要で、単性では種を維持出来ない。進化には都合が良くても、種の維持繁栄には問題が多いわ。現に、『古のもの』も『ユゴスよりのもの』も、繁殖に関しては全く別のアプローチ、単性生殖あるいは自家受粉に近い形態をとっているわ」

 単性生殖したり、成長過程で性転換する生物も結構居るけどな、雪風は内心そう思うが、言葉には出さない。

「とはいえ、人類はその不合理性をものともしない勢いで大繁殖し、また急速に進化を遂げ、文化と呼べるものを構築し、それは『偉大なる母』の興味を大きく刺激したようです。その人類をよりよく観察する為、『大いなる母』は、自らと同様に人類に興味を持ち、また『古のもの』にも『ユゴスよりのもの』にもそれなりに崇拝されている『闇を彷徨さまようもの』を巻き込んで、人類の気質を多分に持つ『落とし子』を生み出した……それが、私」

 ユモは、自分のつばを飲み込む音が、ひどく大きく聞こえた気がした。

「この星の歴史や『存在』達の歴史、それどころか『古のもの』や『ユゴスよりのもの』の歴史に比べても、人類をかたどって受肉した私はあまりにも若輩、そして、この三次元宇宙の物質として具現化している私は、『多重次元存在』の持つ様々な気質のほとんどを持ち合わせていません。『多重次元存在』は、『多重次元存在』であるが故に特定の一つの次元に完全体として具現化することは出来ず、具現化した『存在』はその次元の法則にのっとった機能しか発揮出来ない……『多重次元存在』であっても、それは互いに重畳する多重次元そのものがあってこそ、逆に言うなら、多重次元そのもののことわりの制約下での存在であって、単独の次元には完全体として存在し得ない、と言う事ね」

「次元の制約、ですか?」

 オーガストが、聞く。

「一体、どのような制約があるのですか?」

「それを説明するのは、難しいですね。同じ話は、モーセスも含めて私の眷属、私の『お友達』に話して聞かせたのですけれど、完全な理解は……」

 『元君』は、モーセス・グースにちらりと視線を流す。その視線を受けたモーセスは、軽く肩をすくめて首を横に振る。

「あたし達は、この三次元宇宙しか知らないから、それ以上の高次の次元軸の存在を感知も認識も出来ないし、だから理解する事も出来ない。そういう事かしら?」

「その理解、その認識で、実用上は間違いないでしょう」

 真剣な眼差しを『元君』に向けつつ言ったユモに、嬉しそうに微笑み返して『元君』は答えた。

「でも、だとしたら」

 ユモは、『元君』の目を見ながら、言葉を重ねる。

「三次元人のあたし達でも、知覚は出来なくても認識は出来ているより高次の『軸』が、一つだけ、あるわね」

 小首を傾げて、『元君』はユモに先を促す。『元君』の耳飾りが、囁くような透明な音をたてる。

「……時間軸。第四次元軸と目される、三次元世界では不可逆で干渉不可能な、でも存在は誰もが認識している、不思議な軸……」

 ユモは、小さく息を吐き、大きく息を吸ってから、『元君』に問い直す。

「……『元君』、あなたは、あなたには、『時間軸それ』が見えているのではありませんか?」

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