第5章 第76話
「『元君』、イグとは、一体……」
モーセス・グースの控えめな質問に、ゆっくりと、『赤の女王』は視線をそちらに流す。
「イグってのは、有名どころではネイティブアメリカンの中に崇拝が残ってる、いわゆる
『赤の女王』が口を開くより早く、ユモが言う。言って、『赤の女王』に視線を合わせ、尋ねる。
『赤の女王』は、そのユモに向け、満足げに微笑みつつゆっくり頷く。
ユモは、頷き返して、今度は雪風に目を合わせる。
「……はっきり言って、ユキの中の力は複雑で、あたしにもまだよくわかんないんだけど……」
改めて、ユモは、ちょっと困ったような顔の雪風から『赤の女王』に向き直る。
「この娘は、ユキは、あたしの
「……どうして?」
気を悪くした風ではなく、純粋に興味である事を強く匂わせつつ、『赤の女王』は聞き返す。
「秘密だって事なら、私は誰にも言わないし、モーセスだって口の固いことでは引けはとらないけれど?」
「あたし達は、さっきも言ったとおり、多分明日にはここから居なくなるわ」
ユモは、言葉を選びつつ、答える。
「そもそも、あたし達は本来、ここには居なかったはずだし、何なら居てはいけない存在なんだと思うの。だから、あたし達は、なるべくあたし達がここに居た証拠を残したくない。それは、物だけじゃなくて、あたし達がここに居たという事実、あたし達がどういうものかという情報も含めて。可能な限り、物証も情報も、残すべきではない、そう思うの」
「……道理ですな」
顎に手を置いたオーガストが、ユモの肩越しに同意する。
「失敬、オーガスト・モーリー、米陸軍軍医中佐です。『元君』、お目にかかり光栄です」
オーガストは、制帽を胸に当てて『赤の女王』に敬意を表す。
「……あなたは……」
オーガストに目を移した『赤の女王』は、口元に手を当て、何事か考えるようなそぶりを見せる。
その『赤の女王』に、制帽を被り直したオーガストは言葉を続ける。
「任務の都合上、私は、この地で
オーガストは、『赤の女王』からユモと雪風に視線を流す。
「『記録』も『記憶』も残っていないならば、それは存在しなかった、そういう事です」
「口裏を合わせよ、と、おっしゃる?」
オーガストの言わんとするところをくみ取ったモーセスが、それを言葉にした。
「私の口からは、何とも申し上げられません」
オーガストは、白々しい微笑みでそれに答えた。
「……いい、いいわ、素晴らしい、最高だわ」
くすくすと笑いながら、『赤の女王』が呟き、そしてその呟き声は次第に大きくなる。
「ミスタ・モーリー。イタクァに、あるいはハストゥルに魅入られし者、そのあなたが、人の
感極まったかのように、『赤の女王』は自らの体を抱きしめる。
「なんといういたわりと友愛かしら……小さな魔女と、人ならざるいくつもの力を秘めた乙女、その二人の互いの友愛だけでも奇跡だというのに。イタクァの眷属に、あろうことかこの私の眷属たる『奉仕種族』までもがその乙女達をこれ程までも気にかけ、いたわるなんて……素晴らしい、全くもって、素晴らしいわ」
「お気に召して戴けたようで、恐悦至極だわ」
感極まる『赤の女王』を見ながら、慎重に言葉を選びつつ、ユモが言う、背中に緊張の汗を滲ませながら。
「恐悦ついでに、教えて下さらないかしら?」
思い切って、意を決して、ユモは聞く。
「『元君』、あなたは、そしてその御神木とは、
「……私は、私自身にして、それなる御神木の一部であり、また『そのもの』でもあるもの」
恍惚とした表情のまま、目をつぶったままそう言った『赤の女王』は、目を開き、ひたとユモと雪風を見据える。
「そして、御神木とは、『
ユモと雪風は、『赤の女王』の紅い瞳から目が離せなくなっていることに気付く。その紅く燃える瞳が、嗤う。
「我こそは、『千の仔孕みし黒山羊』と『闇に
『赤の女王』は、右手でユモの左頬を、左手で雪風の右頬を撫でる。
「ただそれだけ。たったそれだけの、取るに足らない、詰まらない存在。それが、私」
頬を撫でられたユモも雪風も、互いの掌がじっとりと汗ばんでいることに気付いている。それはつまり、自分の掌もそのようである、そういう事だった。
「だから、私を『赤の女王』と呼ぶのは半分正解で半分間違い。『闇に
「『元君』、そこまであからさまにされずとも、よろしかったのでは……」
「誠意には誠意を、礼には礼を。小さな魔女さんにそう問われては、答えてあげるのが『王母』の情けではなくて?そもそも」
嬉しそうに、『元君』は意見したモーセスに言う。
「魔女の求めに答えるのは、『
「それは……そうですが」
「それにね」
モーセスからユモと雪風に、そしてオーガストに視線を移し、『元君』は続ける。
「『福音の少女』、気高き乙女達は『ここには居なかった』。立派な軍人さんも『何も見ず、何も聞かなかった』。そうであれば、これは私の独り言に過ぎない。違うかしら?」
「……御意に」
モーセスは、軽く頭を下げた。
「ああ……とても気分が良い、気持ちが良いわ」
『元君』の声は、悦びが満ちている。
「貴方達も、ドルマも、どうして人はこうまでも
「……え?」
「……うそ?」
ぎゅっと、強く自分を抱きしめた『元君』の背後で、枯れ木と思っていた『御神木』の枝に変化が現れたのを、ユモも雪風も見逃さなかった。
「……花が……」
オーガストも、その異変に気付いていた。
枯れているとしか見えなかったその枝に、ほんのいくつかの蕾が生まれ、急速に膨らみ、花びらがほころぶ。それは……
「……ベラドンナ?」
「うそ、彼岸花が、木に……?」
「え?」
オーガストは、ユモと雪風の呟きを聞いて、小さく驚きの声を上げた。
「ウィッチヘーゼルです、あれは、ウィッチヘーゼルですよ?」
ベラドンナはナス科の多年草、別名をハシリドコロ。彼岸花は別名を
「え?」
「だって……あれ?」
口々にそう言い合って、改めて花を見直した三人の前で、花は花びらを落とし、実をむすび、その実はぐんぐん膨らむ。
「そんな……アンブロシアー……?」
「あれって……
「これは……
やはり三人三様の果実の名を口にして、三人は顔を見合わせる。
「それこそが、『御神木』がこの世ならざるものである証」
三人の様子を微笑んで見つつ、『元君』が言う。
「花も実も、貴方達の見たいと思う姿、そうあれかしと思う姿で見えていたはず……貴方達が思う、神秘的な花、計り知れない価値を持つ果実……モーセス、あなたには、何に見えたのだったかしら?」
「……蓮の花に、桃の実でありました」
モーセスの答えに、一斉にモーセスを見た三人は、改めて『御神木』に
「それでは……」
何をか言わんとしたオーガストに頷いて、『元君』は右手を肩越しに持ち上げる。
その手の上に、何ということか、果実の生る枯れ枝が曲がり、伸び、降りてきて、その果実をぽとりと掌の上に落とした。
『元君』は、するりとオーガストに近づくと、その果実をオーガストの目の前に差し出す。
その果実を反射的に受け取ろうとして、しかしオーガストは、すんでの所で手を止めた。
「大丈夫です、これは触れても大丈夫」
『元君』は、微笑みを崩さない。その後ろで、伸びてきていた枝が元に戻ってゆく。
「これは、私の気持ち、私のお礼。これほどまでも私の心を動かし、暖め、昂ぶらせた事への、お礼」
直前で止まっていたオーガストの手に、『元君』は果実を載せる。
「一度だけ。たった一度だけ、この果実はあなたに奇跡を、あなたの望む何かをもたらすでしょう。もしかしたら、それは、本当にあなたが望むものではないかもしれない。でもそれは、その望みが如何にしても叶わない類いのものなのかもしれないし、あるいは、あなたの思いと、あなたの真の願いが違っていたのかもしれない。いずれにしても、完璧ではなくとも、あなたの力にはなる、手助けにはなる、その程度の働きはしてくれるでしょう。受け取ってくださいな」
オーガストの手の上にその果実――オーガストには、黒に近い紫色の、チベットの高地特産の品種の林檎の実、ある意味での
「貴方達も、受け取って頂戴」
『元君』は、最前と同じように枝から受け取った果実を両手に1つずつ持ち、ユモと雪風に差し出した。
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