第5章 第72話

「ユモさんのご指摘通り、ケシュカル君とチェディ、いやテオドール・イリオンは関係がありました。それを知ったのは、『都』に運び込まれたケシュカル君の遺体の記憶を調べた時の事です。ケシュカル君の遺体は損傷が激しく、記憶の読み出しに成功するかも怪しい状態でした。その時点ではまだケシュカル君がチェディ、いえイリオンと接点があったと誰も知らなかったのですが、とにかく、若干の危険は承知で、特に脳の損壊を補佐する目的で、『奉仕種族』の細胞を多めに、長めに遺体に侵食させました。その結果として、苦労はありましたが彼の名前と生家や家族などを知り得ました。が、同時に、彼の死因が崖からの転落死である事もわかりました。そして、転落する直接の原因が、実の兄による追跡と、その追跡から逃れるための無茶な夜間の逃避行である事も。そしてさらに、その逃避行の原因こそが、チェディ、テオドール・イリオンを野盗、山賊から護る為、彼のための囮となる事であった事も」

 一呼吸、自らを落ち着かせるように深呼吸して、モーセスは続ける。

「イリオンはケシュカル君が転落死する数日前に、山賊に襲われています。この山賊というのがつまり、ケシュカル君の兄を首謀者とする近親者の一団であり、当然ケシュカル君もその一員なのですが、誤解の無いように申し上げておきますと、大変残念な事に、このチベットの辺境地域においては、山賊は珍しくありません。御存知の通り、チベットは農業には厳しい土地です。貧農は、簡単に不作になり、食うに困ります。それを補うため、若者はごく簡単に山賊になり、裕福な旅行者から幾許かの金目のものや食料などを奪う。命まで取ったり、生き延びられないほど洗いざらい巻き上げるのはまれですが、それほど簡単に、辺境の住民は山賊になる、そう思っていただいて結構です。ケシュカル君も、そのような山賊の一員であったという事ですが、彼の属する、彼の兄を頂点とするその山賊の小集団が偶然イリオンと出会い、紆余曲折あったようですが一度は平和裏に分かれ、しかし、イリオンの立ち居振る舞いに興味を持ったケシュカル君がイリオンを追って山賊を離れてしまった、ここが悲劇の始まりだったようです。イリオンが平和裏に山賊と別れたというのも、最初の邂逅かいこうの際にイリオンを追って沼にはまり死にかけた山賊の一人をイリオンが救った為で、そのような『敵対者を助ける』騎士道精神的なものにケシュカル君が強く感銘を受けた、という事のようですが、山賊からすればケシュカル君は造反者であり、場合によっては、ケシュカル君が治安機構などに申し開き、自首などされれば自分達の存亡に関わります。必死で追う山賊からイリオンとケシュカル君も全力で逃れようとしたようですが、まだ少年で体力に劣るケシュカル君は力尽き、怪我を負い、敬愛するようになっていたイリオンを逃がすために単身囮となり、わざと目立つように夜間に明かりを点けて山道を一人で逃走、兄の一味に追いつかれ、口論となった末に足を踏み外して崖から転落、全身の骨折と多臓器不全によりほぼ即死状態で絶命しました。実に悲惨かつ壮絶なこれが、ケシュカル君の記憶から読み出した情報のあらましなのですが、重要なのは、ケシュカル君の遺体が『都』に収容され、この情報が読み出される以前に、イリオンが『都』に現れ、数日逗留した後、『王子』と決別し離脱を図っていた、という事実です」

 モーセスは、一度、椅子の上で居住まいを正す。

「拙僧はその時は『都』にはおりませんでしたので伝聞なのですが、イリオンはその際、我らが『王子』、貴き宝珠マニ・リンポチェを『悪魔』と罵ったそうです。我々の見解では、イリオンは何かを誤解し、妄想に取り憑かれていたのではないか、そう思っています。いずれにしても、イリオンがそのような状態で『都』を出奔され、誤解を元にあらぬ事を国内はおろか西欧で吹聴されるのは『都』にとっても同胞団にとって大変に不都合ですから、彼が何を思っていたかを確かめるためにもペーター少尉殿の書簡を手に入れる事が必要だったわけですが、それと同時に、たまたま発見された遺体に過ぎないケシュカル君が、そのイリオンと関係があったという事が、同胞団としては大変な驚きでした。そこで、危険を承知で、より詳細な情報を得るべく、『奉仕種族』の細胞をより長く、より深く侵食させる決定がなされました。遺体の損壊が激しかったので成果は望み薄でしたし、時間もかかる事が予想されましたが、結果としてケシュカル君はあの通り復活を遂げ、記憶も日に日に明瞭に、より確かに思い出せるようになっています。とはいえ、復活した最初の頃は言葉も話せず、ただのたうち回るだけの状態でしたが……最近は驚くほど安定していますが、つい最近までそのような状態で、会話し、曲がりなりにも人として行動出来るようになったのはごく最近の話、それですら時折自制が効かなくなるようで、あの日・・・も突然暴れ出し、『都』から飛び出してしまっていたのです……そう、ユモさん、ユキさん、『福音の少女』たるあなた方がこの地に現れる、その直前の事です」

「……え?」

 唐突な一言に、思わずユモと雪風は絶句し、互いに見つめ合う。

「……あたし達が、関係してるっていう事?」

「いやちょっと、いくら何でもそれはないですよ……ないですよ、ね?」

「偶然と考えるには、物事が関連しすぎています。何故、ペーター少尉殿の目と鼻の先に、正気に戻った状態のケシュカル君の目の前に、あのタイミングで、お二人が現れたのか。早すぎても、遅すぎても、あそこ以外の場所でも、物事は何も起きなかったでしょう。あの瞬間、あの場所でこそ、物事が動き出すきっかけとなった。ペーター少尉殿がそのような事をおっしゃってましたが、考えれば考えるほど、拙僧にもそのように思えてなりません」

「……って言われても……」

「あたし達が時と場所指定しているわけじゃないし、ねぇ……」

――私も、繰り返しになりますが選ばされているに過ぎず、自主的に選んでいるわけではありません――

「あんたは黙ってなさい!」

「……いかがされました?」

「あ、いえ、ちょっとその、混乱しちゃって」

 おほほほほ~、と、笑ってごまかそうとするユモと、怪訝な顔でそれを見ているモーセスを交互に見て、ニーマントの一言が聞こえていた雪風とオーガストはちらりと視線を合わせ、苦笑した。


「ちょっと整理させてもらっていいですか?」

 イイ感じに緊張感が崩れたと感じた雪風が、自身の理解の整理もかねて、タイミングを見計らって提案した。

「ケシュカル君の事もあるし、『奉仕種族』て結局何?ってのもあるけど、まず、時系列を整理したいんです」

 モーセスが笑顔で頷いたのを確認して、雪風が続ける。

「まず、イリオンとかいう西洋人がケシュカル君と出会って、いろいろあってケシュカル君が崖から落ちて、その後でイリオンがここに来て、ケンカ別れして、ドイツに帰って、ナチスに書簡を渡して、その頃にケシュカル君の遺体が発見されて、記憶が読み出されて、全部の後でペーター少尉殿が調査隊を率いてここに来た、これで、合ってます?」

「おおよそは。補足いたしますと、ケシュカル君と別れた後、チェディ、いえイリオンはまずドルマに出会い、その後、ナルブ閣下の元を訪ね、ナルブ閣下の手引きで『都』に至りました」

「ああ……」

 ドルマが以前に語ったあれこれを思い出して、雪風は脳内で時系列を修正する。

「ケシュカルにしろドルマにしろ、その出会い自体が、こうなってみると何らかの『見えざる神の手のお導き』って気もしてくるわね」

 ユモが、背もたれに体を預けながら、腕を組んで感想を述べる。

「アダム・スミスとは関係なさそうですが……『偶然の連鎖による必然』という奴ですかな?」

 オーガストも、思うところがあるらしい一言を呟く。

「ニーチェですね。拙僧も、一連の出来事には運命的な、必然論的な何かを感じない事もありません。これこそが、仏縁なのかも知れません」

 言って、モーセス・グースは手を合わせる。

「その仏縁で、崖から落ちたり井戸に身を投げたりしてるんじゃ、たまったもんじゃないと思うけど」

 ユモが、辛辣に切り返す。

「それこそ御仏の、あるいは神の与えたる試練かと」

 モーセスは、生意気なユモをたしなめるでもなく、むしろ優しい目で見て、言う。

「あなた方お二人と出会う事も含め、ケシュカル君とドルマにはそれが必要だったように、拙僧には思えます。何故なら……」

 姿勢を直して、モーセスは続ける。

「お二人と出会って以降、ケシュカル君もドルマも、大変に落ち着いているからです……それこそ、憑き物が落ちたかのように」


「……どういう事?」

 モーセスの言葉を怪訝けげんに思ったユモが、聞き返した。

「先ほど、ケシュカル君には、長く、多めに『奉仕種族』を侵食させたとお話しいたしました。『奉仕種族』そのものとなった御遺体は、もはや人とは言えない事も。覚えていらっしゃいますね?」

 ユモと雪風、オーガストは、頷く。

「ケシュカル君が、お二人が現れる直前に『都』を飛び出した事もお話しました。そして、つい一昨日、オーガストさんが目撃された、異常な行動。それら一連の行動こそが」

 モーセスは、わずかに眉根を寄せた。

「『奉仕種族』そのものの行動なのです」

「……凶暴で、強力な、危険極まりない存在、という事ですか?」

 オーガストの指摘に、モーセスは頷く。

「残念ながら……過去にも同様の事があり、それもあって長期間ないし広範囲に及び『奉仕種族』の侵食は控えるように決めておりました。そもそも、『奉仕種族』の本性そのものも、強力でこそあれ凶暴ではないはずなので、急な体と環境の変化から引き起こされる本能的な防衛反応ではないかと思われるのですが……ですが、いずれにしろ、お二人に出会って以降、少なくとも『都』に戻って以降、大変に状態は落ち着いているのです」

 モーセス・グースは、雪風を見る。

「ケシュカル君は、ユキさんに打擲ちょうちゃくされて目が覚めた、そのように言っていました。何か、心当たりはありませんでしょうか?」

「え?ええ?」

 急に話を振られて、雪風は戸惑う。戸惑って、あれこれ思い出そうとする。

 特に何か特別な事をした覚えは、ない。ないが、あるとしたら、あれだ。雪風は、思い出す。

――あばら屋に突入した時、念を載せた『白木の木刀れえばていん』で叩いて、抑え込んだっけ……――

「心当たり、無くはないですけど……ケシュカル君が暴れてたから、棒っきれでぶん殴っておとなしくさせただけで……」

 嘘は言ってない。だが、まだ、本当の事を全部言うわけにもいかない。かなり深い事まで明らかにしているであろうモーセスに対し、少々心苦しい気持ちを感じつつも、雪風はそう答えた。

「何と、あの状態のケシュカル君を、その細腕で抑え込んだのですか?」

 モーセス・グースは、驚きに目を剥く。

「いえ、大したことは……ちょっとだけ、仕方なしに殴っちゃったって言うか」

――あれは、なかなかに大立ち回りだとは思いましたが、ユキカゼさんには『ちょっと』なのですね――

 ニーマントの呟きは、ユモと雪風、オーガストにのみ聞こえる。

――その『ちょっと』の規格が、そもそもあたし達とは違うのよ、この娘は――

 それに対しユモは、口の中だけでそう答えた。

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