第4章 第58話
『西王母の谷』を見下ろす崖の上で、倒木に腰を下ろしたペーター・メークヴーディヒリーベ少尉は、平たい岩の上に乗せたコーヒー豆を入れた綿の小袋を石で叩き、挽いていた。
――我らが主は唯一絶対のはず。仏はともかく、聞いた事もない異教の神など……――
「……こんなものかな……」
軽く息の上がった声で、ペーター少尉は呟く。頭の中のもやもやを叩きつけたかのように、袋の中のコーヒー豆は、ちょっと挽きすぎのようだ。
「……火をおこさないと……」
顔を上げて、ペーター少尉は辺りを見まわす。
「火なら、ありますよ?」
「うわ!」
突然背後から声をかけられ、ペーター少尉は驚いて腰を浮かす。
「あ、ごめんなさい」
見れば、崖の反対側、茂みの奥側から、セーラー服の襟や袖を直しながら、雪風が現れたところだった。
「いや……こっちこそすまない。無様なところを見せてしまった……
「いえ、あたしは……」
曖昧な笑顔で、胸の前に両手のひらを立てて広げて、雪風はペーターの質問に答える。
「……夕飯の仕込み中、かな?」
「夕飯?」
「はい。あっちの方で。火も熾したところだったんで、そしたら、物音が聞こえたんで来てみたんです」
雪風は、少し離れた林の中の方を示しつつ答える。
「コーヒー、
「え?ああ……」
「じゃあ、お湯沸かしてるから、どうぞ?」
今度は普通に笑顔で、雪風はペーター少尉を誘う。
「ついでに、あたしも一杯、戴いていいですか?」
「『千の子孕みし母』?」
『知識の書』のページをめくりつつ、ユモはオーガストに聞き返した。
「そう聞きました」
座布団の上で胡坐をかいたオーガストが、答える。
「またずいぶんと子だくさんな女神様も居たものだわね……」
言いながら、ひとしきりページをめくったユモだったが、
「……ダメ。見つからない」
ため息とともに、知識の書をばたんと閉じる。
「封印とか、その手のものですか?」
ユモの胸元から、ニーマントが尋ねる。
「違うと思う。解除出来る封印とか圧縮は全部解除したはずだもの……意図的に、ものすごい量の空白領域があるのよ、この
言いながら、ユモは胸元のペンダント――ニーマントの
「最初はあたしも、容量ギッチギチに知識が詰まってるんだと思ってたわよ?けど、多分
「……その意図は?」
「わからない……」
流れでオーガストに聞かれて、ユモはかぶりを振る。
「
「つまり、少なくとも今現在は意図不明、という事ですね」
「この都市のいろんなものと同様に、ね」
ニーマントの相槌に答えながら、ユモはペンダントを胸元に戻す。
「……で?その女神様の別名が『赤の女王』?」
「さて、どうなのでしょう?」
ユモに聞き返されたオーガストは、首をひねる。
「我々もお会いしたあの『赤の女王』なる女性、彼女がどうやら人智を超えた存在であることは間違いないでしょう。しかし、『千の子孕みし母』と同一かというと……」
「確証が持てない?」
「と言うより、そもそも、あの女性自体が我々の知る『赤の女王』のそれと微妙に一致しないのです」
顎に手をあてて、オーガストが答える。
「知っているの?オーガスト?」
「『赤の女王』の全てを知るわけではありませんが……私が『彼』と共にあった間、何度か『彼』の口からその名前が出たのです、そうでしたね?ミスタ・ニーマント?」
「ええ、『彼』は、『赤の女王』を『彼』自身と同様の存在だと言っていました。同様で、しかし全く別の独立した個体である、と」
「……『赤の女王』が、『奴』とおんなじ、ですって?」
ユモの声のトーンが下がり、険しさが三倍増しになる。
「詳しい事は『彼』も知らないという事でした。何しろ、どちらも勝手気ままに動くので、接点がほとんどないのだとか」
オーガストの補足に、ユモは即座に言い返す。
「だとしてもよ!勘弁して欲しいわよね、あんなのがまだ居るなんて……って事はよ?もしかしたら……」
「そうです」
ニーマントが、珍しくやや低い、慎重さを感じさせる声色で、答えた。
「二人だけ、という事でもない、という事です」
「……わかった。この『旅』がいつまで続くのかわからないけど、この先に『奴』かその兄弟に出っくわす可能性は、あたし達が思うよりはるかに大きいって事ね?」
「我々が会いたくないと期待するよりは、と言い換えた方がよろしいかと」
いつも通りの口調で、ニーマントが訂正する。
「どちらにしても、『彼』は我々、少なくとも私などでは足下にも及ばぬ存在ではあります。『彼』が何かをしようとした時、言うならば、我々にちょっかいを出そうと思ったとしたら、それを避ける方法は、我々には無いに等しいでしょう」
オーガストも、諦めたような口調で、ため息交じりに自説を披露する。
「それ、認めたくはないけど。認めざるを得ないわね」
ユモも、鼻息荒くしつつ、不承不承という感じでオーガストの意見を認める。
「とはいえ、我々の知る限り、『彼』はそこまで無軌道でも破壊的でもありませんから……」
「だから怖いのよ」
希望的観測を述べようとしたニーマントの機先を制して、ユモがぴしゃりと言う。
「自分は何もしないくせに、良いように他人を振り回して。腹の中で何考えてるかわからないし……」
「まあ、今ここに居ない『彼』の事は置いておきましょう」
オーガストが、明らかに話の流れを変えようと話題を振る。
「それよりも考えるべきは『赤の女王』、ここでは『元君』と呼ばれることを好んでいる様子もありますが……仮に『彼』を女性に置き換えたとしても、相当に違いがあるように思えます」
「それは、うん、そうね」
「そうなのですか?」
仮にも人間の属性を持つが故に、何とはなしに言外にその違いを認識出来ているユモとオーガストに対し、そこのところが今ひとつ良くわからないらしいニーマントが聞いた。
「私は、その男女の差というのがよくわからないのですが」
「今のあんたはともかく、そうなる前があったって事よね?感じ方からすると男性というかおじさんだったような気がするんだけど?」
「恐らくはそうなのだとは思いますが……何らかの理由で私はここに封じ込められた。記憶と肉体を切り離されて。恐らく、これを行った者に、それほどまでの不興を買ったのでしょう。それはともかく、私は、男女差、それ以前に性別というものがよくわかりません」
「それはつまり、ミスタ・ニーマント、あなたは以前は性別を持たない存在だった、ということでしょうか?」
「さて……そういえば、『彼』が以前言っていましたね……私は、『彼』と関係があるか、あるいは……」
ニーマントの声は、いつにも増して、抑揚が消えていた。
「……『彼』そのものである、と」
「そして」
ぞっとするほど抑揚のないユモの声が、その後を引き継いだ。
「恐らくはそのペンダントを作ったのも、あんたをそこに閉じ込めたのも、あたしの
「『彼』が言うには、そうです」
以前にオーガストが残したメモの内容を記憶から引っ張り出したユモの言葉を、ニーマントが肯定する。
「……では、ミスタ・ニーマント、貴方が不興を買った相手というのも……」
「推定ではありますが、ええ、その可能性が高いと思います」
もしその頭が首の上に乗っていたなら、ニーマントは、オーガストの質問に答えてからユモに向き直っただろう。
「この
「つまり」
ユモは、一度大きく息を吸って、吐いてから、言い切る。
「その得体の知れない『彼』と同様な、もしかしたら『彼』そのものかも知れない存在をこの石に封じ込めるだけの力をもった魔女こそが、あたしの
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