第4章 第57話

「寺院の岩窟の書簡にその一文を見つけた時、拙僧はまるで体に電気が走ったように思いました。矢も楯もたまらず、拙僧はその一文にある『西王母の谷』の場所を探し求めました。意外なことにそれは、秘密ではあっても誰も知らないというたちのものではなく、若い者はともかく古老であれば十人に一人くらいは知っているが、口にすることを禁じられている、そういうものだったのです……もうお分かりと思います、『西王母の谷』とはつまりこの『神秘の谷』の事、比較的最近になって尊き宝珠マニ・リンポチェが治めるようになって以降は『神秘の谷』と呼ばれていますが、それ以前は『西王母の谷』と呼ばれていた、まさにここの事でした」

「……この地域の住人は、ここの事を知っていたのですか?」

 衝撃的とも言えるそのモーセスの言葉の意味に、オーガストが聞き返す。

「無論、全員というわけではありません。谷の近隣では知っている比率は高く、しかし、特に子供に『谷の事を口外すると悪霊に呪われる』と教えているため、滅多な事では話しに出てきません」

 オーガストの質問に、モーセスは頷いて答える。

「拙僧は仮にも僧院の者ですし、その頃には一帯に顔が知れ渡っていましたから、拙僧になら、という事で教えてくれた村人は何人か居ました。実際に、軽々しく谷の事を口外して呪われた事例もいくつか聞き及んでおります」

「呪い……ですか?」

「はい。死ぬようなものではありませんが、しばらく口がきけなくなり、手足にしびれが残ったとか。もちろん、皆、半年も待たずに回復したそうですが。谷の近くの集落ではそのような感じでしたが、町では殆ど知るものは居ませんでした。今でも、居ないと思います」

「なるほど……」

 オーガストは、顎に手を当てて考え込む。一体、いかなる類いの呪いなのか、と。

 ペーター少尉も、幾許いくばくか顔つきが険しい。自分や、自分の発掘小隊にもその『呪い』がかかる事を懸念しているのだと、ペーター少尉の容姿を横目で伺ったオーガストは察した。

「いずれにせよ、谷の場所に目処を付けた拙僧、モーセス・グースは、意を決してある日、そこに向かいました。ある確信を持って谷に向かったモーセス・グースは、『神秘の谷』、『西王母の谷』の境界である白い大岩を超え、『井戸』が近づいたところで、その確信が正しい事を知りました。その井戸の傍らに、『元君』がいらしたのです」

 『元君』の事を語るモーセスの表情は、恍惚に満ちていた。

「そうです。『元君』には、拙僧、モーセス・グースの成す事はわかっていらしたのです。もったいなくも、縁の深まったこの身であれば、『元君』におかれましては範囲こそあれ過去も未来も知るのはたやすい事、なのだそうです。『元君』に導かれ、招かれるままにモーセス・グースは御神体である『千の子孕みし母』にかしずき、神秘の一部を授かりました。『元君』がおっしゃられるには、このモーセス・グースのように広い視野と深い探究心をもって訪れるものは、西洋人としては初めての事だそうで、もったいなくもこのモーセス・グースは『元君』の寵愛を受ける光栄に預かりました。以来、拙僧は、この『同胞団』においては最高位に近い権限を戴いております。本当に、もったいないことです」

 そう言って、モーセス・グースは座ったまま、軽く頭を垂れる。そのモーセスに、ペーター少尉が尋ねる。

「グース師、一つ、お尋ねしてもよろしいでしょうか?」

「何なりと」

「先ほど、あなたは『御神体にかしずいた』とおっしゃった。その以前に、貴方は仏門に入り、さらにはそれより以前にはキリスト教徒であり、今もそうであるとおっしゃる。一体、それではあなたは、貴方の信仰は、どの神の元にあるのですか?」

 慈悲深い微笑みをたたえて、モーセス・グースはペーター少尉の問いに答える。

「その疑問はもっともな事です。お答えするならば、まず第一に、このモーセス・グースの中で、唯一神と御仏みほとけは矛盾なく同時に存在します。何故なら、神と仏は全く別のものであり、どちらが上位であるとか、正しいとか、そういうものではないからです」

「……よく、わかりません」

 ペーター少尉は、困惑した顔でモーセスに告白する。

「その、仏の教えが尊いものであるというのは理解出来ます。しかし、神は唯一にして絶対のもの、そうでなければ……」

 ペーター少尉の言葉を手で制し、モーセス。グースは言う。

「『ヤハヴェ』は唯一絶対である、これは揺るぎません。しかし、唯一絶対と言う概念、これ自体が矛盾をはらんでいるのです。何故なら、唯一という価値観は、同格の複数の存在があってこそなり立つ概念だからです。最初から一つしか無いなら、唯一と言う概念自体が存在しない、そうではないでしょうか?」

「それは……」

 ペーター少尉は、答えに詰まる。

「つまるところ、同格の存在があり、それらはそれぞれの価値観においては唯一絶対であって、互いに干渉しない、だから同時に存在しうる、そういう事ですかな?」

 オーガストが、ペーター少尉に替わって自説を述べた。モーセスは、そのオーガストに笑顔で頷く。

「信仰の対象として、唯一絶対であることは何の問題もありません。そして、他者が信ずるそれが、自分が信ずるそれと寸分狂いなく同一であると、誰が証明できるのでしょうか?ペーター少尉殿、あなたが信じ、理解する主と、拙僧が理解し信じる主は、完璧に同一でしょうか?拙僧はそうは思いません。何故なら、ペーター少尉、貴方と拙僧は別の存在、別の意識体であって、同じものを見ても違う感想を持つ、持たなければならない。一卵性双生児であっても、細部においては違いがある、ましてや、別の遺伝子を持つのであれば……」

「……おっしゃる事はわかります。しかし……」

「神とは、我々がその全てを理解し得るほど、矮小な存在ではないのです」

 笑顔のまま、モーセスは、ペーター少尉に向かって断言する。

「そして、神、あるいは神に匹敵する力を持つものは、一つではない。モーセス・グースはその事を知り、深く理解したが故に、今の境地に至りました。ペーター少尉殿、お若い貴方に今すぐ理解しろとは言いません。しかし、神と呼ぶに相応しい存在は、一つならずこの世界、この宇宙に存在するのです。『千の子孕みし母』もその一つ、よろしければ、いずれ改めてご案内いたしましょう、ペーター少尉殿。貴方にも、世界の神秘を共有していただくために」

 ペーター・メークヴーディヒリーベ少尉は、何と答えるべきか、わからなかった。


「……少し、外の空気を吸ってきます」

 そう言って、ペーター少尉は席を立つ。

「何というか、その……貴重なお話しをありがとうございました、グース師。ただ、少し、いえ、その、かなり混乱している、と言うのが正直なところで……」

「無理はありません」

 モーセス・グースは頷いて、ペーター少尉に答える。

「存分に考え、悩まれるとよいでしょう。その結果どのような結論に到達されたとしても、『元君』は決してそれをとがめないでしょう。何故なら、『元君』は慈愛そのものなのですから」

 そう言って片手を上げたモーセスに一礼して、ペーター少尉は『図書館』を出た。

「では、私もおいとまします」

 ペーター少尉を見送ったオーガストも、腰を上げる。

「モーリーさん、貴方も、混乱していらっしゃいますか?」

「そうですね……驚くべき事ばかりで、確かに混乱はしております。それに……」

 悪戯っぽくウィンクして、オーガスト・モーリーは付け足す。

「……煙草を一服、したくなりました」

 モーセスは、それを聞いて、相好を崩した。


 『図書室』を出がけに、オーガストは、先ほどモーセス・グースが示した本棚の一角を見る。

「……なるほど」

 その本の背表紙を一瞥して、オーガストは呟く。

「『彼』に聞いた事がありますね、『屍龍経典』に『妙法蟲聲經』ですか……読んでいる時間があると良いのですが」

 そのまま、オーガストは『図書館』を離れた。


「どれ、ずいぶんと長く話し込んでしまいました。勉強は進みましたか?」

 モーセス・グースは、すっかり手のとまってしまっていたケシュカルに向き直り、聞いた。

「……お坊様は、やっぱり、凄い人だったんですね」

 尊敬の目で、ケシュカルはモーセスを見上げている。

「俺、むつかしくてお坊様のお話、ほとんど分からなかったけど……『赤の女王Queen in Red』の事、もっと聞きたいです」

「いえ、拙僧はそれほどの事では……今、何と?」

 モーセス・グースは、ケシュカルが言った事の意味に気付いて、少しうろたえ気味に、聞き返した。

「拙僧は、英語で話していたはず……ケシュカル君、あなたは、何を話していたのか、聴き取れていたのですか?」

「お坊様のお言葉は、うん、わかりました。難しくて意味がわからないことばっかりだったけど」

「そうですか……」

 ケシュカルがユモの『言葉通じせしむ呪い』の影響下にある事など知らないモーセスは、考え込んでしまう。

「……『元君』に相談申し上げる事柄が、一つ増えましたね……」

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