第4章 第49話

「どうかされたのですか?大丈夫ですか?ペーター様?」

 いつになく取り乱して、ドルマは回廊の端にしゃがみ込んで嘔吐えずくペーター少尉の傍に膝をつき、背中をさする。

「……ドルマ……さん……」

 相当に消耗した声で、ペーター少尉は返事を返す。返すが、振り向く気力もなければ、今の状態でドルマに顔を向ける・・・・・勇気もない。

「無理にしゃべらなくて結構です、まずは落ち着かれましょう」

 取り乱しつつも、ドルマの手は優しくペーター少尉の背をさすりで続ける。

「……やはり、お口に合わなかったのですね……」

 さすり続けつつ、ドルマは、沈んだ声で呟く。

「もっと強くお止めしておけば良かったです。すみません、私の落ち度です」

「……そんな事は……」

 ドルマに背をさすってもらっているおかげか、やや回復したペーター少尉は、ドルマから見えないように気を付けつつハンカチを取り出し、口元と鼻をぬぐう。

「……なんと言って良いか……ああ、回廊を汚してしまいました、申し訳ありません」

「お気になさらず。すぐに人を呼んで、片付けさせます……立てますか?」

「ええ、大丈夫です」

 言いつつ、ドルマの方を借りるようにして、ペーター少尉は立ち上がる。

「向こうの水場で、お口をすすいでください。少しはスッキリされると思います」

 落ちていたペーター少尉の制帽を拾い上げ、手渡しながら、ドルマはそう言って少し先の手洗い場を指差す。

「そうですね、そうさせていただきます」

 手渡された制帽を被り直しつつ、ペーター少尉は答え、そして、

「……よろしければ、少しお話しをさせていただけますか?ドルマさん」

 憔悴しているから、だけではない冥い目でドルマを見つめつつ、ペーター少尉は言う。その言葉に、抗いがたいものを感じて、ドルマも答える。

「……はい」


「……おや?」

「何?」

 胸元で何事か呟いたニーマントに、いぶかしく思ったユモが聞く。

「いえ、ミスタ・メークヴーディヒリーベとミス・ドルマが戻って来ました」

 ニーマントが周囲の放射閃オドを検知出来る範囲は開放空間でおよそ五十メートル、遮蔽物があるとその材質等により差はあるが、範囲が狭まることには間違いがない。『都』の水場は居住区――ラモチュンは『迎賓館』と呼んだ――から百メートル以上離れているため、水場に向かったとおぼしきペーター少尉とドルマは、一旦ニーマントの検知範囲外に出ていた。

「ここに?」

 ペーター少尉はともかく、ドルマも一緒というのはちょっと意外で、ユモは思わず入り口扉に目をやる。

「いえ、ここではないようです……ああ、ミスタ・メークヴーディヒリーベの部屋に向かわれるようですね」

「んま!」

「……ああ?マジか!」

 二人の少女は、ニーマントの告げたペーター少尉とドルマの行動を、それぞれ自分の知識の範囲内で理由付けし、なにやらよこしまな光を目にたたえて、顔を見合わせる。

「具合が悪いのにかこつけて部屋に連れ込むとは……」

「少尉殿、意外にやるじゃん……」

「いえ、彼に限ってそうではないと思いますが……」

「一体何が意外で、何がそうではないのでしょう?」

 何やらピンク色の妄想にとらわれているらしき少女達に、ペーター少尉の名誉のために一応は否定の言葉をオーガストは投げ、そのオーガストに『人の感情の機微』に疎いニーマントが――もし顔があれば・・・・・――怪訝そうな、かつ、真顔で問いかけた。


「……率直に伺います、ドルマさん。あなたは、ここでの食事が、その……」

 自分にあてがわれた部屋にドルマとともに入り、入り口の引き戸を閉め、失礼、と呟いてから、ベッドを背に――西洋人のペーター少尉のため、この部屋にはベッドが運び込まれている――して、床に座り込み、そして、ドルマを見上げて、意を決して質問を口にする。

 しかし、覚悟して口にしたはずだが、やはり肝心な一言を言葉にするのが躊躇ためらわれ、ペーター少尉は言葉に詰まる。

 詰まって、もう一度、小さく首を振って意を決し直し、改めて声に出す。

「……食事の内容に、人の肉が含まれている事を、知っていたのですね?」

「……」

 目を伏せ、ドルマはしばし逡巡した後に、答える。

「……はい」

 小さく、しかし、しっかりと肯定した後に、ドルマは伏せていた目をペーター少尉に向ける。

「気付いていた、と言うべきでしょうか。見たわけでも、聞いたわけでもないのです。ですが……すみません」

 ドルマは、頭を下げる。

「私がもっと強く言っていれば、もっとはっきり言っておけば……」

「いや、私の方こそ」

 やや俯き気味のペーター少尉は、ドルマの言葉を遮る。

「もっと注意深く聞いておけばよかったのです。ドルマさん、あなたは立場上、はっきり言えないこともありましょう、ですから……」

 そこまで言って言葉を途切り、

「……止めましょう」

 ペーター少尉は、言い切る。

「互いに引け目がある、だから、言い訳しているに過ぎない、少なくとも、私はそうです。これは、決して建設的ではない」

 言い切って、ペーター少尉は、顔を上げる。

「ドルマさんが私に気を使っていただいていることは、承知しました。そして、ドルマさん、あなたは私に嘘をついたわけでも、騙したわけでもない。だから、あなたは何も悪くない」

 力なく、ペーター少尉は微笑む。

「一方私は、折角の食事をもどしてしまった。これは……」

「それこそ、無理はございませんわ」

 今度はドルマが、言葉を遮る。

気付いて・・・・しまわれたのなら。それは、それこそ、無理はないと思います」

「他の方は、平気なのに?」

「皆、御存知ない、お気づきになられていないのでしょう」

「しかし、ドルマさん、あなたは御存知だった」

「私は……」

 問い詰められ、ちょっとだけ、ドルマは口ごもる。

「……私は、他の方とは違うのですから」

 ドルマは、苦笑して答える。寂しげな、微笑み。

「他の方とは。そうです、皆さんと、モーセス師範ロードとも……」

 ドルマの目尻に、涙がたまる。

「……今の私は、誰とも違うのです、きっと……」


 ドルマは、指で目尻を拭うと、床に腰を下ろしてベッドに背をあずけているいる――旧日本家屋同様に、座椅子を含めて『背もたれのある椅子』はこの頃のチベット文化では希有だった――ペーター少尉の隣に廻り、ベッドの上に腰を下ろす。

「失礼しました……それにしても、ペーター様は、どうして気付かれたのですか?」

 ペーター少尉の顔を見下ろしながら、気を取り直したのだろうドルマは聞いた。

「私が気付いたのではありません」

 そのドルマの顔を見上げ、ペーター少尉は答える。

ユモ・タンク嬢フロイライン ユモ・タンクに、教わったのです」

「ユモさんに、ですか?」

「はい」

 ペーター少尉は、頷く。

ユキ・タキ嬢フロイライン ユキ・タキも、当然、御存知のようでした。さすがは『福音の少女』といったところと思いました」

「そうですか……」

 何事か、ドルマは考え込む。

「……何か?」

「いえ、そうですね、やはり『福音の少女』は、只者ではないのだなと、そう思いまして。そうか、だからあの時、お二人はお食事をされずにすぐに席を立たれたのですね」

「あの時?」

「ペーター様が『ユモさんの声が聞こえた』とおっしゃった、その少し前です。ペーター様とモーリー様は背中を向けていたので、お気づきにならなかったようですが……」

 ドルマの言葉を聞きつつ、少しは体調が回復したのか、ペーター少尉はベッドの上に腰掛け直す。ドルマとの間に、半身ほどの隙間を空けたまま。

「……不思議です。何故、お二人は気付かれたのか。何故、ペーター様とモーリー様にだけ、ユモさんの声が聞こえたのか。それに……」

 ドルマは、隣に座ったペーター少尉の目を見る。

「……どうやってモーセス師範ロードに追いつき、そしてケシュカル君を見つけたのか」

「それは……」

 ペーター少尉は、ドルマの問いかけについ答えようとして、そして、その答えを持って居ないことに気付き、言葉を失う。

「……それこそが『福音の少女』たる所以、ペーター様はそう思われているかと存じます。私もそう思います。そして、こうも思うのです」

 ドルマは、視線を、腿の上で組んだ自分の指先に落とす。

「あのお二人も、きっと、違うのだ、と」


「先ほどから気になっていました」

 ドルマが言葉を切り、瞬時、会話が途切れたのをきっかけとして、ペーター少尉は切り出す。

「ドルマさん、あなたは先ほど、自分は皆と違う、そのようなことを口にされた」

 ペーター少尉は、真剣な目で、ドルマの目を見る。

「率直に伺います。それは一体、どういう意味ですか?」

「それは……」

 自分の指に目を落としたまま、ドルマは一瞬逡巡し、一度口を開こうとし、ため息とともに一度閉じてから、大きく息を吸って顔を上げる。

「……きっと、私はもう死んでいる。ここにこうしている私は、きっと、死んだ私の皮を被った別の何か、人では無い、この世のものですらない何かなのだと、そういう事です」

「……」

 ペーター少尉は、かける言葉を探せない。

「私が『井戸』に身投げした事は、お話しいたしましたね?あそこに身投げして、五体満足で居られるとはとても思えません。ですが、私はそのまま、傷一つ無く、元君、『赤の女王』と『御神木』に抱かれていた……いえ、傷一つ無いどころか、私は、今までの私ですらなかったのです」

 ペーターに向けて小首を傾げるドルマの、その表情には微笑が浮かぶが、目は沈んでいる。

「先だっても申しましたが、私はまだ、正式にはこの『都』のメンバーとして認められているわけではありません。いずれ近いうちにそうなるとうかがってはいますが、それはともかく、今の私は、『都』のメンバーではないのに、メンバーでなければ知り得ないことをいくつも知っています。お食事のことも、その一つです。誰から聞いたわけでも、調理のその場を見たわけでもありません。なんなら、私自身、『都』で食事をいただくのは先ほどが初めてです」

 再び自分の手に目を落とし、ドルマは、その手を開き、握る。

「知識、記憶だけでなく、この体も……昨日、ペーター様は、私があまりに早く街から鳥葬の場まで移動したことをいぶかしがってらっしゃいましたね?」

 ペーター少尉は、思い出す。ああ、確かに、あの時、あれは計算が合わない、そう思った、と。

「今の私の体は、ものすごく頑丈で、足も速いのです。多分、今ならペーター様の部隊の誰にも負けないくらい。凄いでしょう?」

 苦笑するドルマは、しかし、言葉とは裏腹に嬉しそうな声色ではない。

「だから。私は、今ここに居る私は、身を投げる前のドルマではないのだと思うのです。人間のドルマの血肉を喰らい、その皮を被った悪霊、そんなようなもの……」

 一瞬、ペーター少尉は言葉を失っていた。自分は悪霊ではないかと言う目の前の女性、そんなものは、西洋の常識から言えば妄言、妄想の類いに過ぎない。しかし……

「……この数日、不思議なことばかり起きています」

 膝の上に肘をつき、組んだ手の指を見つめて、ペーター少尉が呟く。

「はっきり言って、私の理解を超えています。発掘された、どの生物の体系からも離れた化石。時空を越えて現れた『福音の少女』、謎のエネルギー源を駆使する『秘密の地下都市』、そこにおける『食人の風習』……」

 ペーター少尉は、組んだ手に額を乗せる。

「『シャンバラ』を目指すからには、相応の不可思議には出くわすとは思っていましたが、出くわしたならば幸運だと思っていましたが、まさかこれほどとは……しかし」

 顔を上げたペーター少尉は、ドルマに向き直る。

「どんなに不可思議に見えても、その実、必ず理屈は解明出来る、私はそう信じます。そして、その為にも、私は私自身がこの目で見て、感じた事を信じます……ドルマさん、あなたが身を投げたというのは、一体いつの話ですか?」

「え?」

 突然、話の矛先が変わったように思えて、ドルマは瞬きする。

「……二月ふたつきは前の事になるでしょうか?ペーター様方がいらっしゃるより、さらに前の事ですが……それが、何か?」

「で、あるならば」

 ペーター少尉の口元に薄く笑みが乗る。

「ドルマさん、私の知るあなたは、『生まれ変わった』後のあなたです」

「え……?」

 ペーター少尉の言わんとする事を、ドルマは、理解も想像も出来ない。

「あなたは、自分が人ではないのかもしれない、そんなようなことをおっしゃっている。しかし、私の知るドルマさんは、まぎれもなくすばらしい才女であり、一流の淑女である。私は、そう思っています」

「……」

「なにしろ、私はそれ以前のあなたを知らない。ですから、私には比較のしようがない。違いは分からない。以前からあなたの知己であるナルブ閣下やグース師であれば違いが分かるのかも知れませんが、私の見る限り、お二人とも、あなたを恐れたり、避けたりする様子はない。これはつまり……」

 みなまで聞かず、ドルマは立ち上がる。

「……ドルマさん?」

「御存知ないからです」

 立ち上がり、少し先の床の一点を見つめて、ドルマは言う。

「ペーター様は、私の本当の姿を御存知ないから。本当は私が、どれほど醜く、汚らわしい存在かを御存知ないから……」

「……であるならば、いずれ知りたいと思います」

 ペーター少尉も、ドルマから視線を外し、同様に床を見ながら、言う。

「知って、驚かない自信はありませんが、しかし、さげすんだり恐れたりする事はないでしょう。いえ、しないと誓います。それこそは、私の目的、世界人類を等しく次の高みに導く為の行為に反する行いですから」

「……失礼しても、よろしいでしょうか?」

 ドルマは、ペーター少尉に目を合わせないまま、聞いた。

 ペーター少尉は、それに頷いて答え、軽く一礼してドルマは部屋を出た。

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