第4章 第48話

 みるみるうちに、ペーター少尉の顔色が青くなり、土気色になる。

 咄嗟に口を手で押さえたペーター少尉は、何事かもごもごと唸ると部屋を飛び出す。

「……水場というかお手洗いまで、間に合うかしら?」

「感覚的に百メートルちょい、二百はない感じだけど」

 ユモの呟きに、雪風が答えた。

「……おっと、ミスタ・メークヴーディヒリーベ、立ち止まって……しゃがみ込まれましたか?」

 壁の向こうの放射閃オドを感じて、ユモの胸元からニーマントがペーター少尉の様子を中継する。

「……凹んでるところに、追い打ちかけちゃったかな……」

 雪風が、その後ろ姿を壁越しに目で追いながら、呟く。

「光学異性体とチキンブロス、どっちがキツいんだろ?」

「何それ?」

 父親の本棚にあった傑作SF小説の一節を脳裏に浮かべた雪風の呟きに、そんな事を知る由もないユモが疑問符を浮かべる。

「なんでもない」

「間違いないのですか?」

 若干険しい顔色をしてはいるが、あげる・・・ような様子は見えないオーガストが、聞き直す。

「肉そのまんま、ってわけじゃなかったですけど。ペーストか何かに加工されてましたし、他の食材も混ざってましたけど、間違いないです」

 雪風は、オーガストに向かって自分の鼻を人差し指で示しながら、答えた。

「……なるほど」

 ペーター少尉がいないからこそ出来るそのジェスチャーの意味に気付かないわけもなく、オーガストは納得する。

「……追いかけた方がいい、かな?」

 壁の向こうの様子を気にして、そちらに目を向けて、雪風が呟き、腰を浮かせようとする。

「吐くのって、単純に肉体的に辛いもんね」

 ユモも、雪風の視線の先を見ながら、同意し、足を崩す。そのユモを制するように、ニーマントの声がする。

「いえ、心配には及ばないようです……ああ、やはり、これはミス・ドルマだ」

「あん?」

 片膝を立てた姿勢で、ユモは胸元に聞き返す。

「今、私の関知範囲外から、凄い勢いでミス・ドルマがミスタ・メークヴーディヒリーベの方向に向かって行きました……会話も、聞けますが?」

「止めときましょ」

 クッションに腰を下ろし直して、ユモは言う。

「野暮だし、武士の情けよ」


「……で。人肉食カニバリズムは禁忌と言えば禁忌だけど。だからって絶対に認められないもの、許せないものって事でもないのよね……異文化に対する干渉、倫理観の押しつけって側面を考えるならば、ね」

 苦々しげではあるが、ユモはくだんの事実をそう評価する。その言葉を継いで、雪風もオーガストに向かって自論を述べる。

「そもそも、この地下都市は言わば秘密基地みたいなものですし、百人からの住人の胃を常に満たす食料を運び込もうと思ったらそりゃ秘密を守れるわけないなって。それに、こういう一種の閉鎖系の環境なら、資源の再生再利用はある意味当たり前でしょうし。その意味で、それらしい理由を付けて比較的新鮮な遺体を運び込んで利用するってのは、理にかなってるとは言えます、言いたくないけど。遺体だけじゃなくて、もしかしたら、排出される全ての有機物が再生再利用の対象かもですけど」

 ふう。大きくため息をついてから、雪風は言葉を続ける。

「そういうのって、宇宙とか海底とか、そういう極地環境の話だと思ってたけど。ここに完全閉鎖系でないとしてもそれに近い設備があるとしたら、少なくともそれだけでこの時代から見たらオーパーツですよね」

「宇宙とか海底とかよくわかんないけど、その、何?『全ての廃棄物を再利用』って、ぞっとしない話よね」

 『全ての廃棄物』の意味を正しく理解したのだろうユモが、じっとりした眼差しで雪風に聞きただす。

「SFじゃお約束の設定だけどね。死んだら転換炉で元素単位まで分解されて再利用とか」

「SFってよくわかんない」

「帰ったら、そうね、あんたの時代ならジュール・ベルヌとH・G・ウェルズあたり読むといいわよ。アシモフ先生はもういたっけかな?」

 アイザック・アシモフの最初の原稿持ち込みは、1938年の事である。

「とにかくですね」

 話が横道にズレだしたのを察して、オーガストが本筋に引き戻す。

「先ほどの料理には、過程はどうあれ御遺体が材料として使われていた、これは間違い無い、と」

 オーガストの問いに、雪風は嫌々ながら頷く。

「そこは間違いないです」

「……あんた、思ったより平気そうね?」

 顔色こそ良くはないが、ペーター少尉よりは余裕があるオーガストに、ユモが尋ねる。

「それは……まあ、私は、もっと色々なものを見聞きしていますので」

「どんな?」

 多少ごまかし気味に答えたオーガストに、ユモが聞き直す。

「それは……私が、『彼』に導かれてイタクァに連れ去られたことは覚えてらっしゃいますか?」

「忘れもしないわ」

 ユモは、即答する。

「……イタクァに連れ回された時間は、この世の時間にすれば一日に満たない時間だったはずなのですが、私の体感上・・・は、およそ一月ひとつきに等しく感じました。その間、私は、色々なものを見ましたし、聞き、感じました。その過程で私の体はこうなった・・・・・わけですが、正直、人肉食カニバリズムなどまだまし、という光景もいくつか見てきました」

 オーガストは、一つため息をつく。

「もう少し長く連れ回されていれば、恐らく私は気が触れていたでしょう。私にとって運が良かったのは、『彼』に命じられたイタクァが、あの洞窟に戻る刻限が決まっていたことでしょう。そのおかげで、私は『たった一日』で地上に戻って来れたのですから」

 言葉を切ったオーガストは、ユモの目が自分の目を射貫いている事に気付き、わずかに視線を逸らす。

「そこら辺は、ニーマントから聞いたことあるわ。ざっくりとだけど」

 ユモの声は硬く、視線はひたすらにオーガストの目を追う。

「私の感覚は、皆さんとは相当に違いますから、色彩や形状、その他五感に属する情報を正しくお伝えできた確証は持てません。あしからず、という所ですか」

 ニーマントが、冷静に言葉を足す。

「その分を差し引いたとしても、そりゃ大変な経験したんだってことは分かったわ。けど……」

 その先の言葉を呑んで、ユモはオーガストの目を見つめ続ける。

 逸らした目を戻し、もう一度息を吐いて、オーガストは言い直す。

「……やはり、ユモさんにごまかしは通じませんね。『福音の少女』とは、良く言ったものですね」

 寂しげな微笑みとともに、オーガストは告白する。

「イタクァに連れられて色々と酷いものを見たのは事実ですが、そうです、それ自体は驚きの連続ではありましたが、私の人間性にそこまでの影響を与える程のものではありませんでした。そして、それ以上に酷いものを、私は人間であった頃に見ています……あのような人体実験を、していたのですから」


「御存知の通り、『ウェンディゴ憑き』の調査の目的はそれを利用した『最強の兵士』を作る事。ですが、あのスペリオール湖畔での一件以前にも、似たような調査はずっと前から随時行われていました。それこそ、欧州大戦の前から。例えば、どこかのギャング団の用心棒が人並み外れて強いとか、どこかのカルト教団で人が魔物に変わる儀式が行われたとか、そういう情報がある度に、地元警察の協力の下、その頃は下っ端も下っ端だった私や私の同僚はその地に調査に派遣されたものです。たいがいは、何らかの薬で酩酊状態であったり、あるいは極端に強い忠誠心や信仰心であったり、時にはそもそも痛覚や情動に異常のある障害者であったり、いずれも人の範疇を大きく超えるものではなく、軍としての利用価値もなかったのですが。ですが、ある宗教団体の調査に向かった際、私達は不手際をして彼らに取り押さえられ、あわや彼らの神の生け贄とされる寸前の状態までいきました。辛くも警官隊の突入によって難を逃れましたが、生け贄の儀式の際、薬で酩酊状態の私達は『パンとワイン』を与えられていました」

「待って。『パンとワイン』って、もしかして……」

 その隠喩に気付いたユモが、話を割って質問する。

 オーガストは、小さく頷いて、続ける。

「神の子、イエス・キリストは、最後の晩餐において『このパンは私の肉であり、このワインは私の血である』として、これを飲食する行為を後に伝えさせました……後で知ったことです。そのパンとワインとはつまり、別の生け贄、ヘラジカの面をかぶった女性の血肉でした」


「その儀式にどんな意味があったのか、そもそも彼らが崇めていた神が何者なのかは、結局よく分かりませんでした。その事件に関する捜査は我々陸軍でも、もちろん地元警察でもなく、事件後、連邦警察の情報部が取り仕切り、全ての情報を持ち去り、軍の情報部ですら詳細は明かされませんでした。要するに、軍としては骨折り損だったわけです。そして、この一件の後に、精神を病んで軍を離れた同僚もいました。私も一時はかなり精神的に不安定でしたが、欧州大戦が始まるとそれどころではなくなり、後はお二人が御存知の経緯です……今思えば、そのような精神状態であったからこそ逆に、欧州大戦での地獄のような任務に耐えられたのかも知れません。アレよりはマシだ、ああならないためだ、と、自分を鼓舞していたのかも知れません」

「その行き着く先が、今のあんたなんだから。その過去に関してはなんと言ったらいいのかわからないけど」

 ユモが、情けなげな顔で告白したオーガストに向けて、苦笑する。

「結果として、今のあんたは全てひっくるめて未来に向けて前向きに生きている、そういう事でいいんじゃない?」

「そう言っていただけると、気が楽になります」

 オーガストは、ほっとしたような顔で、ユモに返事を返した。

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