第4章 第46話
ラモチュンに連れられて地下の回廊を歩くこと100m以上、ユモと雪風は、水音のする場所に連れてこられた。
「……なんだろ、こういうの、見たことある気がする……あれだ、小学校の手洗い場とプールのシャワーを一緒にしたみたいな?」
「そうね」
思った事をそのまま呟いた雪風の言葉に、ユモが相槌を打つ。
「何一つ伝わらないけど、要するに水場の集合体だって言いたいらしいことだけは分かったわ」
「その通りです。ここは、この『神秘の谷』の『都』の、お客様に使っていただける唯一の水場です」
振り向いたラモチュンが、微笑みつつ答える。
「お気づきの通り、水は掛け流しで常に湧いています。この『神秘の谷』を遡った先のナムチャバルワ山の万年雪から溶け出した伏流水です」
「うわ冷た!」
ラモチュンの説明を聞きつつ、壁の複数の吹き出し口――寺社仏閣の手水のそれによく似ている――から吹き出す水を手で汲んだ雪風が、思わず声を上げる。
「これ、飲めるのよね?」
同じように水を手で受け用として思いとどまったユモが、ラモチュンに振り向いて聞く。
「はい。冷たくて大変美味しいですよ」
笑顔のまま、ラモチュンは答える。
「……うん。美味しい」
あまり余計な事を気にせずにその水を口に含んだ雪風が、飲み下して、言った。
「ここは水飲み場です。このもう少し先に
水場の奥を示しながら、ラモチュンが説明する。トイレのことを
「ちょっとやりづらそうだけど、お洗濯もここでしていいのかしら?」
流れ出す水が落ちる床の溝を見下ろしながら、ユモが聞く。
「汚れ物がございましたら、私でも、他の召使いでも結構ですので、お申し付けください」
「ここで洗っちゃダメって事?」
「はい」
ユモの問い返しに、ラモチュンは笑顔を崩さず即答する。
「この『都』における汚れ、穢れは全て下層の『清めの炎』に投入されます。御不浄やお清めの排水は、不純物を濾しとってくべられます。この水飲み場だけは、排水は汚れる事を想定していませんからそのまま『都』の外に排出されますので、逆に言えば汚すようなことは許されないのです。これは、『都』の衛生状態を保つために必要な事です」
笑顔のまま、すらすらとラモチュンはユモと雪風に説明する。その笑顔、細い目を皿に細めた、迷いもゆらぎもないそれに、ユモも雪風もふと、気付く。
これは、何かに心酔し全く疑う事のないもののそれだ、と。
「同じ理由で、お客様におかれましても、この手洗い場以外で用を足す事は禁じられております。飲食についても同様で、これからご案内します食堂以外での飲食はご遠慮戴けますよう、お願いいたします」
慇懃に、ラモチュンはユモと雪風に頭を下げる。
「……まあ、そういうことなら、ねえ」
そう言われてしまっては、ユモと言えど納得せざるを得ず、雪風に同意を求める。
「まあ、ね。仕方ないわね」
雪風も、肩をすくめる。
「では、食堂にご案内します」
目を細めて頷いたラモチェンが、踵を返した。
「こちらが、食堂です」
水場から歩くこと数分、立派な金細工の装飾の施された大扉の前で、ラモチュンが説明する。
「先ほども説明いたしましたが、『都』の衛生状態を維持するため、御飲食は食堂でのみお願いいたしております。食堂の下は調理場になっており、その下に召使いの居住区画がございます。調理で出た廃棄物等も含めまして、先ほどの御不浄とここから太いパイプで『永遠に燃える炎』へと繋がっています。この炎の熱を利用して、暖房はもちろん調理、洗濯、その他雑事が行えるのです」
「燃料は?」
ラモチュンの説明が一段落したところで、雪風が質問する。
「その『永遠に燃える炎』とやらの燃料は、何なんですか?」
「アルコールです」
ラモチュンは、即答する。
「石油と違って、アルコールの炎からは、有害な物質は出ませんから」
「ふうん……わかりました」
分かったと言いつつ、雪風の表情には、今ひとつ腑に落ちていない事が如実に表れている。
「さ、立ち話はそれくらいにして、ごちそうになりましょ?」
雪風とラモチュンを交互に見上げて、ユモが急かす。
「あたし、結構お腹空いているのよ」
「これは失礼しました。今、席にご案内します」
ユモに軽く詫びて、ラモチュンは大扉を押し開けた。
立派な敷物で覆われたその空間は、地上に設けられた明かり取りの天窓とほぼ同じ大きさなのだろう、縦横差し渡しは40メートルはある大空間だった。
あちこちに床面から一段高くなった高座が設けてあり、食事の参加者は9人ずつそこに車座に、質の良いクッションの上に胡坐をかいて座っていた。その総人数は、ざっと百人は居るだろうか。ほぼ全員がチベット人だが、多くはラモチュンが着ているような白い絹の
その参加者の間を、これも大勢の木綿の
「こちらへどうぞ」
既に席が決めれているのか、単に空いている所に案内されたのか。ユモと雪風は、雰囲気に圧倒されたまま、ラモチュンが導いた席に腰を下ろす。ラモチュン自身、ユモの左隣、ユモを挟んで雪風の反対側に遅れて座る。
既に高座に座っていた五人の男達――全員チベット人で、恐らくは三十代から四十代――は、送れて席についたユモと雪風、ラモチュンに軽く会釈し、挨拶と自己紹介を――何人かは英語で――述べた。もちろん『言葉通じせしむ
そうこうしているうちに、さらに遅れて男が一人席につき、召使いが各人の前に食事を配膳し始める。九品の皿は、チベットの伝統食かつ日常食であるツァンパなどとはかけ離れた、一見して正体のわからない肉らしきもの、野菜らしきものを使った料理が載っている。
「どうぞ、ご遠慮なく」
他の客がめいめい食前の祈りを捧げて食事を始めたのを見て、さすがに戸惑っている様子のユモと雪風にラモチュンは声をかけた。
「……じゃあ」
なにやら難しい顔をして料理を見つめて固まってしまっている雪風を横目で見つつ、ユモは木匙を手に取り、チキンブロスのようも見える透明度高めなスープをすくう。
深皿から木匙を持ち上げようとしたユモのその右手を、雪風の手が、止めた。
軽くマナー違反とも言えるその行為を怪訝に思ったユモは、右隣の雪風に顔を向ける。
ユモが見たのは、何事か伝えんと自分の目を見つめる、雪風の厳しい顔だった。
即座に、ユモは理解した。
何故、雪風が止めたのか。
形式上はキリスト教徒として振る舞っているユモも、仏教徒である雪風も、食事に対する禁忌は殆ど持たない。
では、何故?
目の前の料理に毒など含まれていないことは、魔女見習いであるユモには一目瞭然で分かっている。料理の発する
もちろん、ユモの魔女見習いとしての能力を上回る
そして、この旅の間ずっと隣で見ているから、ユモは理解していた。
雪風も自分同様、もしかしたら自分以上に、毒やその他の異常を見抜けていることを。
それは、雪風の生来の特性である『嗅覚』によるものだと最初は思っていたが、旅の途中で、ある仮説をユモは思いついていた。それはつまり、本来の意味の『匂い』だけでなく、
だからこそ、瞬時に、ユモは理解した。
ここにあるのは、食べても大丈夫なものだけど、食べてはいけないものなのだ、と。
ユモは、自分の心の中に思いついたその正体を、目で、雪風に尋ねる。
雪風の目が、頷く。
等分の、
「……ごめんなさい」
ユモと雪風の様子を怪訝そうに覗き込んでいたラモチュンに向けて、しかし他の同席者にも聞こえる程度にはしっかりした声で、ユモは呟く。
「疲れてるのかしら。お腹は空いているんだけど、喉を通りそうにないの。失礼して、お部屋で休ませていただきたいわ」
「まあ……」
細い目を少しだけ見開いて、ラモチュンは言う。
「お気になさらなくて結構ですよ、お部屋まで、自分で行けますか?」
ラモチェンの様子にも、声色にも、本心で心配している様子がうかがえる。
「大丈夫よ」
立ち上がりながら、ユモは答える。
「相棒が居るから、大丈夫。ね?」
「ん」
ユモを支えるように立ち上がった雪風が、短く相槌を打って、頷く。
「では皆様、ご無礼をご容赦くださいませ」
軽く会釈しつつそう言って、雪風を連れ立ったユモは席を立つ。
「あ」
雪風が、小さく呟く。
「オーガストさんとペーター少尉殿だ。ドルマさんも」
「え?あ」
雪風が顎で指す方に、ユモもその三人の姿を見つける。
「……ニーマント、オーガストとペーター少尉にだけ繋いで。一言だけ」
黒いワンピースの胸元に吹き込むようにそう呟いて、ユモは返事を待つ。
「……どうぞ」
微かに、ユモと雪風の耳にだけ、ニーマントの返事が聞こえた。即座に、ユモは小さく、胸元に向けて呟く。
「二人とも、食事が終わったら、あたし達の部屋に来て下さい」
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