第3章 第40話

「俺……本当に、よくわからない……」

 干し肉と乾燥野菜で作った質素なスープを啜りながら、ケシュカルがぽつりと言う。

 小屋の周りと物置、当然ながら小屋の中もざっと家捜しし、呪物危険物その他の安全確認を行い、さらにケシュカルが落ち着くのを待っているうちに、速くも太陽は山の端に隠れようとしていた。

 暗くなってからの行動は無用心に過ぎると全員一致した意見の元、野外で野宿or出来たてほやほやの事故物件での一泊で意見が分かれたが、結局は「見た目はともかく穢れはあたしが全力で祓ったんだから」の一言で押し切ったユモの、万一に備えて雨風のしのげるところで休みたい意見が尊重され、ならばまだ明るさの残るうちにと夕食の用意も始められ、そして今に至っている。

「夕べの事は覚えてる。夕食の後、お坊様がいらして、一緒に寺院に行く事について色々教えていただいたんだけど、俺、途中で眠くなって……それからは、覚えてない」

 この数ヶ月で『世界各地のあらゆる季節の、食える野草ソムリエ』と化しつつある雪風による即席スープは、質素ではあるが味は捨てたものではない。

 軍用飯ごうの蓋によそわれたそのスープをすくうケシュカルの匙が、停まる。

「……いや、思い出した。さっき、急に、怖くなったんだ。周りに居る人が全部、悪霊に憑かれた死人だって気が付いて……そうだ」

 ケシュカルの手が、細かく震える。飯ごうの蓋の中のスープが、さざめき立つ。

「アレは、兄さんだった……俺の隣に居たの、兄さん、でも、死んでるって、俺には分かったんだ……死んでるのに、歩いてるって」

 がちゃん。飯ごうの蓋が、地面に落ちる。

「俺、怖くって、そしたら、何が何だか分からなくなって……気が付いたら、ここに……」

 雪風は、ケシュカルが落とした蓋を拾って雑布ウエスで拭い、まだコッヘルに残っているスープをよそい直す。

 手で顔を覆って俯くケシュカルの背を撫でて、雪風はスープを渡す。涙で潤んだ目でスープを、それから雪風を見たケシュカルは、雪風が小さく頷いたのを見て、スープを掻き込んだ。

「……状況は大体分かりました」

 スープに浸したライ麦パンコミスブロートをほおばりながら、オーガストは言う。

「夕べ、ケシュカル君を地方領主宅から連れ出した男達、今朝、ナチスのキャンプから発掘品を強奪した男達、これらは恐らく同一で、ケシュカル君の兄を含む一団。件の山羊女は、その一団を指揮するか、あるいは監視ないし護衛する役目である、と。しかし……」

「その一団が、じゃあなんで、モーセス・グースが案内した場所に向かっていたのか」

 ユモが、話を引き継ぐ。

「……どう考えても、グルだって事よね」

「そうとしか考えられません」

 オーガストの眉間に、皺が寄る。

「鳥葬の件も、不自然な点が散見されます……私の任務はナチスの監視なのですが、もしかしたら、それどころではない事態が進行しているのかも知れません」

「少なくとも、ペーター少尉はシロだと思うわ」

 やや落ち着き、食事に専念しているケシュカルの傍を離れた雪風が、ユモの隣に腰を下ろす。と言ってもほんの二歩ほどの距離、小屋の中を整理し、台所周辺にそれぞれ適当に車座になっているに過ぎない。

「あたしもそう思う。それに」

 匙をピッと立てて、ユモが言う。

「悪趣味だけど、仮に死体を使役していたとしても、それ自体はこの世界・・・・では罪に問うほどの事じゃないわ……悪趣味だけど」

 大事なことは二度言って、ユモはライ麦パンをかじる。

「そうなのですか?」

「あたしは会ったことないけど、死体や骨を使役する魔法使いは居ることは居るわ。ちゃんと『死体と契約して』だけど。もちろん、無理矢理殺して使ったりするのは御法度だけど」

「道教の赶屍術ガンシーシューもそんな感じだっけ。あれは死人を故郷に送り返すために、自分で歩かせるんだっけか?」

「知っているの?雪風」

「知り合いにこれ・・使える叔母さんが居てさ。歩かすどころかカンカンノウだって踊らせてやるって、悪趣味だから滅多にやらないって言ってたけど」

「カンカンノウ?」

「あー……そのうち説明するわ」

 父母の付き合いの影響で、ついつい古典落語のネタを口にした雪風は、説明にどんだけ苦労するかを瞬時に想像して、話題を逸らした。

「どっちにしても、よ。あそこに行って、モーセスさんに話聞かないことには、何も始まらないって事よね」

「そうね」

 ユモも、頷く。

「山羊女の件もあるし、きっちり納得のいく説明が欲しい所よね」

「……このまま、これ以上何も干渉せずに立ち去る、という選択肢もありますが?」

 ユモの胸元から、ニーマントの声がした。

「むしろ、これ以上関わり合って、我々に何かメリットがあるとは思えません。必要な装備は取り返しましたし、これ以上のトラブルを避けるのも一考に値するかと」

「却下よ」

 ユモは、即座に否定する。

「礼を失するにも程があるわ。立ち去るにしても、挨拶と礼くらいは言わないと、月の魔女ユモ・タンカ・ツマンスカヤの沽券に関わるわ」

「魔女見習いでしょ」

「うさい」

「でもま、礼儀知らずになりたくないってのは同感。それに」

 雪風は、スープを一口啜ってから、言葉を続ける。

「あそこに何があるのか、見てからでも立ち去るのは遅くは無いし、正直、あそこに何があるのか、興味はあるわ」

「それよ」

 ユモが、同意する。

「あそこまで秘密にする何か、死体に死体を運ばせてまでする何かって何なのか、放っといて帰るなんて寝覚めが悪すぎるわ」

「それと、山羊女の正体な」

 雪風が、語気強めに追加する。

「それな。まあ、バレバレだけど、確認はしときたいわよね」

「そうおっしゃると思ってました」

 ユモに答えるニーマントの声には、珍しく、感情が乗っているように聞こえた。それが安堵なのか、諦めなのかは定かではなかったが。

「万が一と思って話を振りましたが、やはりそうなりますか。そうでありましたら、問題が1つ」

「何?」

 ニーマントの提示に、ユモと雪風の声がハモる。

「先ほどから皆さん、正体やら何やら、ケシュカル少年に対して1つも隠す気がないようですが、それでよろしかったのですか?」


「あー……」

 ユモと雪風は、顔を見合わせてから、ケシュカルに視線を流す。

 食べて、少しは落ち着きを取りもどしたケシュカルは、顔を上げて、二人の少女に見つめられていることに気付く。

「……えーっと……」

「それに関して、ひとつ質問が」

 どーやって取り繕おうかしらとか考え始めていたユモに、オーガストが聞く。

「先ほどから聞いていると、お二人とも、それにそのケシュカル少年もそれぞれの母国語でお話しのようですが、会話は成立している御様子。もしかして、これも魔法なのですか?」

 あいたたた。ユモは軽くこめかみを押さえる。先日、ペーター少尉に突っ込まれたのと全く同じ事が今再び起きていた。なんとなれば、オーガストもこの地に潜伏してナチスの監視を行うにあたって現地語を独学でわずかなりとも習得しており、さらには、十年前の経験から、この地に至る以前にオーガストは日本語も少々、囓る程度ではあるが勉強していた事など、二人の少女には気付く所以ゆえんもなかった。

「……どーする?」

「……あー!もう!わかったわよ!」

 真剣にどうするか迷った雪風に聞かれて、ユモはやけくそ気味に覚悟を決める。

「オーガスト!ケシュカル!そこに並びなさい!」

 有無を言わせない口調でそう命じつつ、ユモは腰の銃剣バヨネットを抜き、さらには弾薬盒パトローネンタッシェから聖水の小瓶を取り出す。

 左手に逆手に銃剣バヨネットと小瓶を持ち、右手で瓶の蓋を開けて、薬指の腹を瓶の口に当てて逆さまにして、指の先を聖水で湿らせたユモは、そのままその指を銃剣バヨネットの刃の上に滑らせる。

 もう一度指を湿らせ、なんだか分からないがとにかく言われたとおりに並んで座ったオーガストとケシュカルに近づいたユモは、その湿らせた薬指の腹で、二人の唇にちょんちょんと触れる。

 よし。口に出さずに頷いたユモは、一歩下がって深呼吸し、呪文を振動させる。

「アテー マルクト ヴェ・ゲブラー ヴェ・ゲドラー……」

 既にそこそこ暗くなっている小屋の中に、ユモを中心にすうっと光の輪が広がる。それは、太陽の光でも、蝋燭ろうそくや灯油ランプの光でもない、清らかで優しく、儚い光。

「……父と子と精霊の御名において。大魔術師マーリーンに連なるこのユモは請う。願わくば、神の行いし言の葉の乱れ、そを正し、言葉を通じせさしたまえ……」

 ユモの足下に複雑な紋様が、大天使ガブリエルアイシム・デ・ガブリエル紋章シジルが輝き、ユモの四方に五芒星が、頭上に六星が燃える。その光を纏ったまま、ユモは銃剣バヨネットの切っ先で、淡く光をまとうその刀身の峰で、ぽかんとしてただ見ているだけのオーガストとケシュカル二人の唇にそっと触れる。

「……アテー マルクト ヴェ・ゲブラー ヴェ・ゲドラー レ・オラーム・アーメン……」

 「カバラ十字の祓い」を再度振動させ、銃剣バヨネットを胸の前で立てて、ユモは呪文を締めくくる。

「……さ!これでもう言葉の問題は無いはずよ!オーガスト!ケシュカルに話しかけて御覧なさい!」

「と、言われましても……」

 半信半疑の顔で、オーガストはケシュカルに向き直り、

「……改めまして、米陸軍軍医、オーガスト・モーリー中佐です」

「俺、ケシュカル、です」

 互いに、遅ればせながらの自己紹介をする。

「大丈夫みたいね」

 ユモが、胸を張って言った。

「……では、これが、魔法……?」

「そうよ」

 芝居がかって、長いブロンドの髪を払ってから、ユモは答える。

「これが、魔法。そして、あたしは、月の魔女、ユモ・タンカ・ツマンスカヤ。改めて、見知り置きなさい」

「だから、見習いでしょ?」

 小声で、雪風が突っ込む。

「ケシュカル君、これが、あたし達。驚いたかもしれないけど、ちょっとだけそこらの人と違うけど、れっきとした、君と同じ人間よ。だから、この事はあたし達だけの秘密。いい?」

 雪風は、そう言ってケシュカルの顔を見る。

「……俺……」

 ケシュカルの顔は、半分は驚きで、しかしもう半分は、何故か嬉しそうだ。

「……俺、よく分からないけど、わかった。あんたたちは、チベット人ポパじゃないけど、悪霊でもない。白人ペーリンだけど、小さな女神ラモチュンみたいだ。うん。俺、あんた達を信じる。あんた達は、『良い白人ペーリン』だ」

 ケシュカルは、雪風を見る。

「俺、さっき、あんたの不思議な棒でぶっ叩かれて、目が覚めた。体中痺れたけど、今は頭の中がスッキリしてるんだ。霧が晴れたみたいだ」

「ああ、そう、そりゃ良かった」

 念が、効いたのかな?雪風は、ケシュカルに曖昧に相槌を打ちながら、頭の片隅で思う。

「まだ思い出せないことばかりだけど、少しずつ色々思い出してきた……そうだ、あんた達みたいな『良い白人ペーリン』に会ったことがあったんだ、夕べ、その事を、お坊様に聞かれたんだ……」

 一同を見まわして、ケシュカルが聞く。

「俺、どうしたらいい?お坊様のところに行った方が良いのかな?」

「……ちょうどいいわ、決めましょ」

 ユモも、一同の顔を見まわしてから、切り出す。

「流石に今日はもう動くのは止めとくとして、明日、あたし達はあの遺跡だかなんだかまで戻る。これは決定よ」

 雪風の顔を見て、雪風が頷くのを見て、ユモも頷く。

「オーガスト、あんたはどうしたい?」

「さて……」

 オーガストは、腕を組む。

「……私の任務は、ナチスの監視です。その上で、しかし、もしその遺跡のような何かが、ナチスの探すシャンバラなるものであったとしたら、その正体を知ることは大変に価値がある」

 オーガストは、ユモと雪風の顔を交互に見る。

「であれば、私は、是非ともお二人にご一緒させていただきたいと思います」

「あえて伺いますが、ミスタ・オーガスト」

 ニーマントが、口を挟む。

「あなたご自身の目的は、そんな体・・・・になってまでやりたい事は、軍の任務ではなかったはずでは?」

「もちろん、そうです。しかし、軍人であるという事は私にとってまだ大変に価値があり、軍にとっても私のような者は利用価値がある。有り難い事に、私にはどうやら時間もたくさんある・・・・・・・・・ようですから、軍の任務をこなしつつ、『真理の探究』にいそしむというのが今の私の生き方です」

「結構な事だわ」

 ユモが、評価する。

「なんにつけ、やりがいがあるってのは良い事よ。それがくだらない軍の仕事でもね」

「これは手厳しい」

 オーガストは苦笑する。かつての自分が、そして軍が、生化学兵器の開発を目的として『ウェンディゴ憑き』の調査をしていた事を皮肉っているのだと、オーガストはそう理解していた。

「で。ケシュカル、あんたはどうしたい?」

 ユモは、ケシュカルに向き直る。

「俺は……」

「あたし達と一緒でも良し、ここに残るも良し、他に行くあてがあるならそれも良し。強制はしないわ」

 ユモの目は、鋭い。

「自分で、選びなさい」

「……俺は……」

 もう一度そう言って、ケシュカルはユモを、それから雪風を見る。目の合った雪風は、目をあわせたまま、小さく頷く。

「……俺は、一緒に行く。そうしたい」

 ケシュカルの言葉は、だんだんに力強くなる。

「お坊様はそこに居るんだろ?だったら、お話しがしたい。それに」

 ケシュカルの目には、この数日ユモも雪風も見た事のない、強い光が宿っている。

「行けば、分からない事が、分かる気がする」

「決まりね」

 ユモが、言い切る。

「じゃあ、明日は全員でその『シャンバラ遺跡』?、まで戻りましょ」

「私は、まだ意思表示していませんが?」

「あら」

 不平を漏らすニーマントに、ユモはにまりとして答える。

「あんたはあたしに忠誠を誓ったんじゃなかったの?」

「……まあ、そういう事にしておきましょう」

「あの……」

 平然と答えたニーマントに続けて、ケシュカルがおずおずと聞く。

「さっきから気になってるんだけど、今の声、一体、誰が、どこから……」

「ああ」

 ユモは、『輝かないアンシャイニング・多面体トラペゾヘドロン』を胸元から取り出す。

「紹介しとくわ。エマノン・ニーマント。しゃべる宝石、あたしの所有物よ」

「……え……?」


 深夜。

 新月間近の、月のない夜。

 それでも、高地の澄んだ大気は星明かりを損なう事なく、闇に慣れた目にはそれだけで充分に明るい。

 その、深々と更け入る夜の中。

 かつん。

 蹄が砂利道を蹴る音が、小さく響く。

「因果なものだわ……よりによって、ここに逃げ込むなんて」

 蹄のついた力強い下半身を獣毛に包み、しかしその上に乗るのは人の女の上半身のその怪異は、やれやれといった口調でそう独りごちる。

「まあ、仕方のない事かもですけれど」

 言って、山羊の下半身を持つ女は、歩みを進める。いとも軽々と、まるで散歩するかのように、何の警戒もなく。

――四間……三間……まだまだ……――

 山羊女の目指す先、一部崩れた質素な小屋の戸口の脇で、雪風は息を潜める。

 自分の心臓の音さえ聞こえそうな程の静寂。その中に、かつん、こつん。山羊女の蹄の音だけが、存在を誇示するかのように響く。

――……二間半……二間!――

 あえて大きく音をたて、雪風は戸口の陰から山羊女の正面に跳び出す。

「きゃ!」

 突然跳び出してきた闇より黒い影に、山羊女は間の抜けた悲鳴を上げてたたらを踏む。

「……撃ちたくないの。撃たせないで」

 目の高さの拳銃を両手で、一般的なそれよりはるかに顔の近くで構えるCARシステムのExtendでM1917リボルバーを構えた雪風は、静かにそう言い放つ。

「いやだ、私が来るの、分かってたのね?」

 山羊女は、呼吸を整えてから、そう言い返す。

「来ないわけないと思ってたわ」

 雪風の言葉には、感情が乗っていない。

「聞くまでもないけど聞いとく。何しに来たの?」

「何って。その子を連れ帰りに、よ?」

 山羊女は、雪風の肩越しに、小屋の隅で眠るケシュカルを見やって、言う。

「その子は私達のもの、当然でしょう?」

「そうはいかないわ」

 雪風の後ろから、ユモの厳しい声が飛ぶ。

「はいそうですかと渡すと思って?舐められたものね?」

「はいそうですかと渡してほしいのですけれど」

 山羊女は、困ったような顔をする。

「私も、あなた達を殺したくはないから」

「悪いけど、そう簡単に殺されてあげるつもりもないわ」

 感情を押し殺したまま、雪風が言う。

「それに、どっちにしても、行き先は同じだから」

「どういう事かしら?」

 山羊女は、首を傾げる。

「あたし達は、明日、ケシュカルと一緒にその、シャンバラ遺跡だかなんだかに行くって、そういう事よ」

 苛つきを隠さないユモの声が、言う。

「……だったら、今、私が連れて帰っても同じじゃ……」

「同じじゃないわ」

 山羊女の抗議を、雪風の言葉が遮る。

「無理矢理連れて帰るんじゃなくて、ケシュカルが自分で決めて、自分の足で歩いて帰る。それが大事なの」

 雪風は、大きく息を吸ってから、続ける。

「だから。ここは引いて……お願い」

「自分で決めて、自分で歩いて、帰る」

 ぽつり、ぽつり。山羊女が、噛みしめるように、雪風の言葉を繰り返す。

「それが大事、か……」

 山羊女も、ため息をついてから、言う。

「わかった。そういう事なら、待ってるわ。でも、必ず来て。約束よ?」

「……わかった。約束する」

 拳銃の照星照門越しに山羊女の目を見ながら、雪風が答える。

「……きっとよ?じゃあ」

 山羊女は、小首を傾げてクスリと笑うと、カーンと蹄で地を蹴って跳ねて、そのまま夜の闇に紛れて見えなくなる。

「……ふぅ」

 充分に間を置いて、間違いなく相手が居なくなったと確信してから、雪風は銃を下ろし、大きく息を吐く。

「……御苦労様」

 ユモが、後ろからその雪風の背中を右手の甲でポンと叩いて労う。

「……あー……」

 雪風の、脱力した声がする。

「アレが、その山羊女ですか……」

 小屋の中から、オーガストが尋ねる。

「そうです……くっそ、あんにゃろ、パワーアップしてやがる」

 口惜しそうに、雪風が愚痴る。

「こんな冷や汗かいたの久しぶりだわ。斬りかかった方がよっぽど楽だったわよ」

「でも、おかげで上手くいったわ」

 歯噛みする雪風に、笑顔でユモが返す。

「あんたが壁になってくれたから。恩に着るわよ、使い魔一号フェアトラート・アインス

「そりゃどーも」

 M1917を左のホルスターに戻しながら、雪風も答える。

「……よし。じゃ、明日に備えて寝直しましょ」

「そうね」

 急に軽く言って、雪風とユモは小屋の中に戻る。

「……大丈夫なのですか?」

 心配げなオーガストの声が、小屋の中から聞こえる。騙し討ちの類いを警戒するのは、彼の立ち位置からしてもっともな事だろう。

「大丈夫ですよ」

 あっけらかんと、先ほどまでの緊張が嘘のように雪風が答える。

「あの人、そういう嘘はつかないでしょうから」

 小屋の中から戸口の外を見て、雪風が太鼓判を推す。

 そこには、まだほんのわずか、白檀の残り香が甘く漂っていた。

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