第3章 第39話
「ミルゴン、って……」
ケシュカルの視線を追ってオーガストと目が合った雪風が、呟く。
「私のこと、ですか?」
オーガストが、彼にしては珍しいやや間の抜けた声で言って、自分を指差す。
「……オーガスト、ちょっとこっち来て」
ユモが、オーガストの袖――白熊の着ぐるみの腕――を引いて、物陰に行こうとする。
「いや、しかし……」
「いいから!来なさい!」
若干12歳のユモは、しかし明らかに三十過ぎ四十そこそこのオーガストに反論を許さない。
「えーっと……」
連れて行かれた先、ケシュカルから見えない位置で何某か呪文を唱え始めたユモからケシュカルに視線を戻した雪風が、聞く。
「……ミルゴンって、何?」
「……ミルゴン……ミルゴンは……」
きょとんとした、焦点の定まりきらない目のまま、ケシュカルはぽつりぽつりと話し出す。
「ミルゴンは、怖ろしい生き物。イエティとミルゴンと
ほんの少しだけ、ケシュカルの目に生気が戻る。
「……俺、チェディのテントから逃げ出したんだ、兄さん達が近くまで追ってきてたのが分かったから。チェディから、兄さん達を遠ざけるために。そしたら、ばったり出っくわしたんだった、ミルゴンに。初めて見たけど、アレがミルゴンだって、すぐ分かった。熊みたいな毛皮を着て、二本足で歩いて、かぎ爪みたいな長い手で……」
暗闇の中で、ケシュカルは自分を抱えて、震える。
「……俺、覚えてない。俺……何があったのか、あれから……ミルゴンに捕まって、それから……」
ケシュカルは、頭をかかえる。
「……思い出せない……アレは、なんだったんだろう?黒くてドロドロの……桃色の、ぐるぐるの、とげとげの、かぎ爪の……」
雪風は、『れえばていん』を納め、ケシュカルに近づく。
「……分からない……分からないけど、すごく、ものすごく、怖い……俺……」
ケシュカルの呟きは、嗚咽に紛れてそれっきり言葉にならない。雪風は、そのケシュカルの背中を、優しく撫でる。
「大丈夫、今は、ここは大丈夫。もう、大丈夫」
いつの間にか、『穢れ』は祓われていた。それは、その濃さ故に外からの『清め』を弾きかねない『穢れ』を、ユモの
「痛くしてごめんね。もう大丈夫だから、落ち着いて。落ち着くまで、泣いて良いから」
雪風の声に、ケシュカルは初めてその視線を上げ、雪風の顔を見る。
「何があったか知らないけど、全部吐き出して、泣いて、楽になって良いのよ?誰も、君を責めたりしないから」
「……」
何かが溢れそうなケシュカルの目は、真っ直ぐに雪風の目を見つめている。
「我慢しなくて良いよ。誰も君を、恥ずかしいなんて言わない。あたしが、言わせないから」
食いしばった歯の間から呻きを漏らしたケシュカルは、雪風のその言葉を聞いて、堰を切ったように泣き声を上げた。
「……大丈夫?」
ひょいと、ユモが再び玄関から顔を出した。
「ん」
床にうずくまって泣きじゃくるケシュカルの背中を撫でながら、雪風はユモに振り向いて、小さく頷く。
「……カーテン、開けるね」
言って、ユモは、それでも用心しながら小屋の中に入り、玄関側以外の窓のカーテンを開ける。
「これは……」
「うわ」
ユモに遅れて部屋を覗き込んだオーガストと、カーテンを開けてから振り向いて小屋の中を見まわしたユモが、一言驚嘆して言葉を失う。
一言で言って、惨状。恐らくは質素で粗末な暮らしをしていたのであろうこの小屋の持ち主一家の、その生活の痕跡は、そのほとんどが砕け、ひしゃげ、破壊された状態で部屋の隅に片付けられ、ここで何があったかを示すように、それでも一応は掃除されたらしい床には、ありありとまだ生々しく、悲惨な事件の痕跡が残っていた。
「何があったかは知りませんが」
ニーマントの声が、雪風とユモの耳に囁く。恐らくは、オーガストにも。
「『穢れ』の
「そうね、見た目は酷いけど、見た目ほど酷くはない、って事ね。あたしも、そう思うわ」
ユモは、腰に手を当て、フンスと大きく鼻息をついてから答える。
「そもそもこれ、
「だと思う、三日くらい、かしらね」
明るくなった室内を見まわして、すんすんと臭いを嗅いで、雪風も言う。
「その少年が、お探しのケシュカル少年ですか?」
オーガストが、遠慮気味にユモと雪風に尋ねる。
「そうです、け、ど?オーガストさん、その格好は?」
「あたしが
雪風の疑問に、ユモが何でもないことのように答える。
「機能性能はともかく、あの見た目じゃ色々問題じゃない?」
「そりゃそうだけど。へぇ~……」
まじまじと、雪風はオーガストの
「……そういう事か……」
「流石ね、あんたは見破れるか」
「知ってて、その気になれば、ね」
――視覚と認識、両方をごまかす術か――
雪風は、軽く舌を巻く。
「どうも、自分ではどう見えているのか今ひとつよく分からないのですが」
「カッコイイですよ、オーガストさん。初めて会った時も、そんな格好でしたっけ」
北米の五大湖周辺で共に数日を過ごした際、毛皮の防寒着の下は、今のようなきちんとした軍装を常にオーガストは着込んできたことを、雪風は思い出した。
「オーガストの意思を反映して、外見をごまかす
――でしょうね、これ、臭いまでごまかしてるもの――
元の状態を知っているから、その気になれば『着ぐるみ状態』のオーガストとして認識出来るが、相当強く意識しない限り、自慢の鼻を含めた五感の全てをごまかしに来るユモの魔法に、改めて雪風は感心する。
魔法であろうが妖術であろうが、この手の『化かす』術は、五感のレベルでごまかす術と、脳の認識段階でごまかす術の二系統に大きく分かれるのだと、雪風は知り合いの大妖怪連中から聞いていた。若い連中は未熟な上に手を抜くから、視覚だけごまかして手に取った瞬間にばれるとか、そんなのばかりだ、とも。
それに対し、ユモの魔法は、五感の全てを擬装し――要するに末端のセンサーを騙している――た上に、ご丁寧に脳の認識も――センサーから上がってきた信号の中枢処理段階でも――擬装をかけている。まさに、百戦錬磨の大妖怪がするレベルの事を、
「それに、オーガストのイメージ次第で外見を変えられるし。我ながら傑作、上々の出来だわ」
「とはいえ、どうしたものだか……」
「姿見でも見ながら、練習して頂戴」
今ひとつ戸惑っているオーガストに、ユモは言い切る。
「鏡に映った自分自身を誤魔化せる位まで行けば、本当の意味で使いこなせたって言えるわ。せいぜいセルフファッションショーでもして練習して頂戴」
言い方はキツいが、微笑み混じりのユモの言葉は自分の術に対する自信と、オーガストなら使いこなせるだろうという信頼に満ちている。
「精進しましょう」
ユモの言外の意図を読み取ったのだろうオーガストは、頷いて答え、そして、
「それで、ケシュカル少年は、大丈夫なのですか?」
「多分。でも、もうちょっと、待ってあげましょ?」
嗚咽を漏らすケシュカルを見下ろしつつ言ったオーガストに、雪風は優しくケシュカルの背を撫でつつ、答えた。
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