第1章 第8話
調査任務に就いていた隊員が帰還し、ペーター・メークヴーディヒリーベ先遣調査小隊のキャンプはにわかに活気づく。一日の業務を終えた隊員はリラックスしながら夕食の配膳を待つ。補給に難のあるキャンプのこと、量はともかく品数とバリエーションはどうしても限られるが、それでも日暮れと共に急速に低下する気温の中、隊員は暖かい食事が配られるのを心待ちにする。
その隊員達の話題は、『ペーター少尉が保護した』少女二人でもちきり。娯楽の乏しい調査遠征において、こんなホットなニュースが部隊内を駆け巡るのには、さほどの時間は要しない。
もちろん、一般親衛隊隊員の大半は非常勤の公務員とはいえ、それで崩れるような規律ではない。ではないが、やはり何かそわそわした雰囲気がキャンプ内に漂うのは致し方のないところだろう。
そうなることは容易に想像出来たので、ペーター少尉は自分のテントに近接する物資保管用テントの一角をユモと雪風に供出し、可能な限り他の隊員との接触を避けるように配慮していた。夕食も、二人を自分のテントに呼んで一緒に摂り、他愛もない世間話に花を咲かせた。
他愛もない世間話、ペーター少尉にとってはそうであっても、ユモと雪風にとっては自分達の情報を極力出さないよう慎重に言葉を選ぶ必要があり、さらにはペーター少尉が知る由もない『今後』の国内国外情勢についてもまた同様だった。
その二人の態度と話の内容がまた、ペーター少尉に感銘を与えてしまったのは皮肉であり、おかげでペーター少尉は自論の『二人の少女は神の福音』説の確信を深める結果となった。
そんなこんなで、話が佳境に入る前にユモと雪風は疲労を理由に自分達のテントに戻り、今に至る。
「どう思う?」
与えられたテントの中で呪具を作成していたユモは、
「って、何が?」
視線はユモに向けず前を向いたまま、
「ペーター少尉のことよ」
体ごとふりむいて、ユモは言葉を重ねる。
「ああ……」
体を起こして提刀していた
「……ホント不思議よね、それ」
「え?ああ、これね……」
ユモの視線が自分の左手に注がれていることに気付いて、雪風が何とはなしに語る。
「正直、あたしもよくわかんないんだけどね。生まれたときから一緒だから……ママの
「
「あたしもまだ会ったことないんだけどさ。お婆ちゃんの上役なんだって。で、ママはそのお
「……あのさ、日本の木剣って、勝手に
生きてるの?それ。もしかして、畑に植えたらいっぱい生えたりする?ユモは、少し考えて、考えて、怖い考えになってしまった。
「だから、よくわかんない。『折れず曲がらず良く斬れる』、ただの木刀じゃないことだけは分かるけど」
言いながら、雪風は改めて
「『斬れる』って。木剣でしょうに」
ユモは、苦笑する。
『
どちらも、もっと時間をかければ色々分かるだろうし、正直、魔女としての研究意欲をそそる課題。でも、今はそれどころじゃない。
「それ、例のヤツ?」
ユモの手元を覗き込んだ雪風が、聞き返す。
「そうよ。やっとここまで出来たわ」
雪風に微笑み返しながら、ユモが答える。雪風に頼まれて作っている、ある魔法具。細長く切り出した、自分のワンピースの裏地の一部と、魔法の触媒として持ち歩いている水晶の粉を寄せ集めて再結晶させた、小指の爪ほどの薄ピンクの宝珠。足りない道具と不安定な環境の中、これを作るだけで、結構な時間と労力を要した逸品。
「あとは、これを縫い付けて、呪文を焼き込めば終わり。まあ、もう一晩はかかるでしょうけど」
「ご苦労様。悪いわね、結構大変だった?」
「道具が足りなかったからね。でも、いい修行になったわ……で、少尉さんなんだけど」
ユモは、話を戻す。雪風も、
「う~ん……悪い人じゃないわよね。つかむしろいい人っぽいけど。ちょっと理想主義に走りすぎって気はするわね」
「そうよね……いい錬金術師になれそうな感じなんだけど。思い込みが激しいあたり」
「虚仮の一念岩をも通す、ってか?」
「何それ?」
「虚仮、つまり愚かに思える事でもやり遂げれば大事を成す、って慣用句」
「ホント、あんたバカなんだか学があるんだか分かんないわよね」
「
「大して良くないじゃない」
雪風の小ボケに、ユモも笑って返す。
「……でも、あんまり干渉されてもやっかいよね」
「嘘ついてるつもりはないけど、毎度のことだけど、良くしてもらっておいて、本当のこと言えないのはちょっと、ね」
ユモの言わんとする事を汲み取って、雪風が相槌を打つ。
「……でもさ。あたしとあんたが神の福音、ねぇ」
「ずいぶんと、神様も異教徒に寛容になったものね」
ユモの呟きに、家系的には仏教徒である雪風が乗っかる。もちろん、ここで言う神様とは、ペーター少尉が信奉しているであろうキリスト教の神の意味だ。
「神様、宗教、政治、国際問題……やんなっちゃう。大人って、大変よね」
「あたしたちだって、あと五年十年で立派に大人の年齢よ?」
「そうだけど……なんか実感わかないわ」
「同感」
ユモの
「基本的には、ほとんどみんな、悪い人じゃなかったのよね」
「根っからの悪党なんて、滅多に居ないわよね。環境と教育、何を優先し、何を犠牲にするか、その取捨選択が他者と相容れるかどうか、それだけの事よね」
「……いやはや、お二人とも、実に考察が大人びていらっしゃる」
「何よニーマント、ずっと黙ってると思ったら急に何?褒め殺し?」
「いえいえ、お二人の邪魔をしないよう黙っていただけですが。聞いているだけでも非常に興味深かったので」
「そういやニーマントさんの『人格』って、何歳設定なんです?」
「さて……そもそも私はあなた方のような『年齢』で自分を推し量れるものなのかどうか。いずれにしろ、無鉄砲な子供でも、何事にも無感動な老人でもないことはうけあいます」
「ですよねー……福音かどうかはともかく、少尉殿に見せたら一番有り難がりそうなのはニーマントさんよね」
「人と同様に、あるいはそれ以上に思考し考察する、ペンダントに封じられた人格、か。ニーマント、あんたが記憶を取りもどしたら、一体、何をどうしようと思うのかしらね?」
「さあ、それは私も知りたいところです。ただ、これだけははっきりしています。私は、ユモさん、あなたに箱から解放していただいたことに強く感銘を受けています。恩義を感じている、と言っても良いと思います。ですから、ユモさん、あなたと、あなたの分身とも言える雪風さん、お二人に害成す事だけは、金輪際しないと思えます」
「ずいぶんと殊勝な心がけじゃない?その割には、オーガストにしれっと着いて行ったくせに」
以前の出来事を、恨めしげにユモが指摘する。
「ええ。ですから、お二人に害成さない範囲で自由にさせていただきたく」
「あんたがいないと帰れるものも帰れないのよ」
「それがわかりましたから、今後は離れることはないでしょう」
「調子いいんだから……」
「良くも悪くも、ニーマントさんは裏表ないから、それでいいんじゃない?」
ちょっとだけ不満げに、胸元から取り出したペンダント――一つは水晶球、一つは
その少し前。
男は、ほうほうの体で、集合場所に仮決めしていた野営地にたどり着いた。
高地の夕暮れは、足が速い。山の端に遮られた夕陽は一瞬で地上を闇の世界に変え、乾燥し澄みきった大気は夕暮れの余韻を許さない。
「おい……誰か居るか?」
男は、かろうじてそれとわかる大岩の陰に向かって声をかける。はぐれたら、ここで集合して夜明かしする。その約束のはず。周囲は、目が暗順応するより早く夜のとばりに閉ざされてしまっている。
「おお……来たか、待ってろ、今、火をつける」
岩陰から、問いかけに答える声が聞こえる。続けて、火打ち石を打つ音。
「他の二人は?」
「まだだ、じき来るだろう」
何度か火打ち石を打って、その男は聞き返す。
「……ケシュカルはどうした?」
その声が、やや遠慮がちに聞く。
「あいつは……ダメだった」
「……そうか……」
悪霊が現れた。あんなに、はっきりと。
「……ケシュカルは、きっと取り殺されたに違いない。俺たちも、逃げるのが遅れれば危ないところだった」
「……そうだな」
男の言葉に、火打ち石を打っていた別の男も頷き、
やがて、小さな火が、細い枯れ枝の束に燃え移り、暖を取るにも心細いような焚火が、やっと出来上がる。
「とにかく、明日、寺院へ行ってラマに相談しよう」
「そうだな、それしかない」
その小さな焚火に、手元に残った小枝を投げ入れ、男達はそれきり言葉を失う。
「そのお話し、聞かせていただいてもよろしくて?」
突然、男達の頭上から声がする。女の声。ひどくなまめかしい、濡れた声。
「ひ!」
「だ、誰だ!」
予期せぬ出来事に、怯え、すくみ、男達は腰を浮かせる。
その男達の前に、どさり、どさり。重たく、適度に堅くて適度に柔らかい何かが二つ、落ちてきた。
「ひい!」
「な、なん……」
「そのお二人は、あなた方のお連れさんかしら?」
再び頭上から、女の声。言われて、男達は目をこらす。頼りない焚火の明かりに照らされた、それは少し前まで一緒に居た、野党一味だった男達の連れ。
「ごめんなさいね?ちょっとお話しを聞きたかっただけなのだけれど、私が触れたら、事切れてしまったの」
かつん。言葉が終わると同時に、頭上で、大岩のてっぺんあたりで堅い音がした。続けて、かつん。目の前で、同じ堅い音。男達は、それが
「どうしていいかわからなくて、ここまで持って来たのだけれど。あなた方、その人達のお知り合い?ならよかった、私、その人達に謝らないと。私、まだこの体が意のままにならなくて。でも、だいぶ慣れてきたから、ね、お話して下さる?」
焚火に照らされた、仲間だったものの成れ果ては、見れば、体はどこかあらぬ方に曲がり、何かの獣の噛み傷もある。それは決して、今、大岩の上から落ちて出来たものではない。
そして。かつり。蹄が岩を踏みしめる音が、かつり、かつり、ゆっくり近づく。ゆらゆらとか細くたなびく炎に照らされたそれは、一見すれば、一糸まとわぬ女の姿。しかし、その下半身は豊かな獣毛に包まれ、膝下は大きく後ろに反れ、つま先は、かつん、二股の蹄が大地を踏みしめている。
男達は、固唾を飲むことすら忘れて、その女を見る。闇に溶け込む黒い肌の、豊かな腰も、胸も、隠すでもなく、豊かな髪をなびかせる女を。
豊かな、髪?男達は、気付いた。目と鼻の先まで近づいてみれば、髪と見えたそれは、二つの巨大な巻き角であったことに。
「さ、お話して下さる?あなた方が、何を見たのか、何から逃げてきたのか。ね?」
立派な角を生やし、山羊の下半身をもつその漆黒の女は、えもいわれぬ蠱惑的な微笑みで、未知なるものへの恐怖に身動きできない男達に話を乞うた。
男達の頬をなでる女の手は酷く冷たく、それが、男達の感じた最後の感覚になった。
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