【四十二】鳳仙花の様な



 ——地球標準時二千六百年。


      

 減速を始めた双胴型の宇宙船が、赤い惑星へと近づいていく。火星だ。火星と宇宙船、そしてその背後には遠く太陽が煌めく。出発地の地球は小さく、もう星空に交じってしまっている。だがその輝きは強いので、今でも直ぐに見つけることが出来る。今も昔も蒼い星だった。


 宇宙船は、細かく推進剤を噴出し遷移しながら火星の周回軌道へと入っていく。急速に火星が大きくなっていく。昔は地球から火星まで移動するのに一年かかった。今は二日でこれる。東京から北海道の山奥へ行くよりも近い場所になっている。


 だが今、火星に行く者は殆どいない。百年前の謎の大爆発によって、当時あった人類の生存圏だった火星圏は壊滅。観測員や科学者の短期的な滞在を除いて、無人となった。大爆発によって火星の地殻の一部が軌道上に吹き上げられ、火星の周辺は細かい岩石が多数漂う暗礁宙域となっている。宇宙船の外殻を守る電磁障壁が時折反応して、岩石を弾き返している。観光で来るには厄介な場所であり、実際人気も無かった。


 金髪の少年ヨハネは、舷側の窓からじっと火星を眺めていた。宇宙船はかなり火星に接近して、星空の半分を占める様になっていた。火星が自転する様子も見え、地平線の向こうから大きなクレーターが出現して、ヨハネはおおっと歓声を上げた。教科書にも載っている、火星の大目玉。大爆発で出来た大クレーターだ。


 双胴の宇宙船は旅客船だった。舷側に沿って廊下が伸び、個室へと通じるドアが幾つもある。旅客人員三百名。惑星間航行用としては中型である。だが乗客は、ヨハネ一人だけだ。ネイとノアが同行を強く主張したが却下した。貸切とはいえ、人数が増えればその分燃料代や食費が嵩む。今のデキステルに往年の力は無く、零細企業程度の力しかない。節制は美徳だった。


 ここまで宇宙船は火星に接近していたが、ガクンと船体を揺らして軌道を変更した。少し加速している。目的地は火星ではない。それは窓の外に、すぐに見えてきた。


 火星の地平線の向こうから、小天体が現れる。じゃがいもの様な形をした、一見すると小惑星である。しかしこれで立派な衛星なのだ。火星の第一衛星、フォボスだ。


 宇宙船はゆっくりと軌道を上げ、地平線の向こうからやってくるフォボスへと近づいていく。そして何度か加減速を繰り返したのち、フォボスの近傍に静止した。正確にはフォボスとの相対速度がゼロになったのだ。


 ヨハネは乗組員に声を掛けられ、外へ出る準備を始めた。用意された宇宙服に袖を通す。最近はピッチリしたデザインが流行だが、ヨハネはあまり好みで無い。古典映画に出てくるような、でぶっちょの宇宙服が好みだった。何だか守られている感があっていい。強度は勿論今のタイプの方が良いが、なんだか身体のラインが出るのがイヤだった。もうちょっと筋肉が欲しい。


 乗組員が外部からセンサーで宇宙服に問題が無いのをチェックした後、ヨハネは一人で宇宙へと出た。床を蹴った反動だけで宇宙船を離れ、まるで近くにある様なフォボスへと近づいていく。距離感が地上とは異なる。しかし宇宙遊泳は手慣れたものだった。手首に埋め込まれたパネルでガスの噴出を調整し、フォボスとの相対速度を適格に合わせる。


 ヨハネがわざわざここまで来た理由は、一通の手紙が始まりだった。デキステルの本部に保管されていた、約六百年前の手紙。六百年前! もはや歴史である。デキステル総帥宛の手紙ということで当時は厳重に保管されていたらしいが、六百年後の扱いは粗雑で、経理部の大掃除の時に発見されて、ヨハネのところに回ってきた。一ヶ月前のことである。


 手紙の内容は簡単。古典的な日本語で書かれていたので翻訳に若干手間がかかった。そこには「失われた衛星フォボスを転送せよ」とだけ記されていた。


 ああ、なるほど。ヨハネはその一文だけで、全てを理解した。正確には今まで彼の中にあった不明なパーツが、その一文が設計図となってぴたりと組み上がった感じだった。そうとなれば、やることは決まっていた。火星へと向かう宇宙船の手配。心配されたのはシニステルの妨害だったが、それは杞憂に終わった。一度も妨害も無く、全てはスムーズに行われた。まあそうだろう。ヨハネはシニステルの連中を見たことが無かった。


 ヨハネは集中し始めた。宇宙服を透過して、紫色の光が溢れ始める。それは火星とフォボスの間に、一際強く輝く星が生まれたかの様だった。紫色の光はやがて、フォボスをも包み込んでいく。宇宙船の乗組員たちは、ただそれを見守っている。


 ヨハネは転生者だった。過去ではなく、未来への。そして彼の前世は「レイリー」だった。だから、ヨハネには全てが分かっていた。前世の記憶が、彼にやるべきことを教えてくれる。





 一時間後。フォボスは紫色の光と共に消失した。





  —— ※ —— ※ ——





 たぶん、それを視覚出来る者はいないのだろう。時間軸に沿って過去から転送されるフォボス。そしてもう一つ、未来から転送されるフォボス。それらは空間座標には出現しないまま、地球標準時二千五百年の時間軸上で、衝突した。


 もし「見えた」のだとすれば、それの衝突痕は鳳仙花のような軌跡を描いて、消えていった。





  —— ※ —— ※ ——





 ふと、レイリーは夜空を見上げた。何か、大きな物が衝突したような、そんな気がしたのだ。中央都市、オリュンポス山の夜空は美しい。環境対策が厳しいので大気が清浄なのだ。地球よりも重力が小さいので、大気の保持には相当な手間が掛かっている。だから大気汚染に対する視線は厳しい。レイリーが人目を忍んで煙草を吸う理由でもある。


 星空には小さな星まで輝いて見えた。天の川銀河を交差する様に、火星の月であるフォボスとダイモスが往来する。


 そんな夜空に重なる様に、鳳仙花の様な火花が見えた。様な気がした。レイリーは目を擦る。いや、そんな火花は見えない。どうやら気のせいだった様だ。そんな火花が散ったら、皆夜空を見上げていることだろう。しかし、今空を見上げているのはレイリーだけだ。


「ほらー! いくぞーレイリー!」


 ユニファウが車の傍で両手を挙げて催促してくる。マウアは欠伸をしながら、もう車に乗り込むところだ。これからデキステルの本部へと向かうところだった。ようやくマウアの研究、計算結果が出たのだ。


 この計算結果が本当なら、ここ中央都市は大変なことになる。いや大変というよりは、今、この瞬間にもフォボスが降ってくるというのだ。だがレイリーの目には、フォボスはいつも通り星空を巡っている。あれが落ちてくる様には見えない。


「まだかよー!」

「ああ、今行く」


 レイリーはもう一度だけ夜空を見上げて、そして車の方へときびすを返した。



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