【四十一】そして。フォボスは落着した。
例えば。アパートの隣室に住む若い夫婦。地方から上京してきて、まだ半年。嫁は身籠もっている。夫はサラリーマン。朝早くから愛妻弁当片手に満員電車に乗り、東京のオフィスにまで出掛けている。上司はまだ四十代の課長。野心家だ。今受注した案件を成功させて、部長職へと昇進したい。だから朝一番から檄を飛ばしている。夫とその同僚は「なら残業代増やしてくれよ」と愚痴を言うが、その表情は明るい。夫も生まれてくる娘のために頑張りたい。係長になれば一戸建てへ引っ越せるだろうか。そんなことを考えながら仕事に励む。
東京駅は煉瓦造りで、多くの人が行き交う。皇居へと向かう道ではデモが行われている。「米軍新基地建設反対」のプラカードが掲げられている。多くの人は無関心だ。皇居ランナーはプラカードでは無く、腕に巻かれた活動量計を確認しながらデモ隊の傍を通過していく。
—— ※ —— ※ ——
世界群が衝突すると、衝突した世界同士は融合する。「負けた」世界は以下の様になる。
皇居は存在しない。皇居跡は原爆爆心地として幾つかの施設が併設された記念公園となっている。皇居ランナーは公園を周回するランナーとなる。デモ隊のプラカードは「欧州戦争反対」。駅の看板は「TOKYO st.」である。
会社は今も忙しく動いている。今の上司は先週来たばかりだ。たぶんまた直ぐに変わるだろう。夫は黙々と働きつつ、スマホに来るスカウトのメールに目を通す。あまり良い案件はないが、それでも落胆はしていない。なんとかなるだろう。話す同僚はいない。
昼になればファストフードの店にハンバーガーを食べに出掛け、定時で家路につく。アパートメントには嫁が待ってる。三年前に出産した。夫を出迎えたのは、息子だった。
かくして世界は上書きされる。
「シニステル」の世界に、ヒメはいないがヒメに近い何かはいる。ジュウロウに近い何かはいる。そしてトウマに近い何かは、今目の前にいる。
「シニステル」が勝てば、その近い何かだけが残る。トウマは何か寒いものを感じた。ヒメに近いものが、ヒメに近い笑顔で微笑み、そしてそれはヒメとは違う。それはとてつもない悪夢に思えた。それは多分、似ていれば似ているほど嫌悪感と恐怖を引き起こすのだろう。
—— ※ —— ※ ——
トウマは手を掲げた。紫色の光が再び輝き始める。その様子を見て総帥は首を傾げた。
『どうする気だい? フォボスはあと数分で落着する。それを止める術はもう無いよ』
下の方で交わされていた四天八部衆と十二神将の戦闘も、今は見えない。フォボスが転送された以上、これ以上交戦する必要が無くなってしまったのだ。まるで勝者の様に四天八部衆が宙を舞い、敗者のように十二神将が地に膝を突く。もう勝敗は決したのだ。
『いいや、あるさ』
トウマはにやりと口角を上げる。そのこめかみには冷や汗が垂れた。一つだけ、思いついた手があった。
—— ※ —— ※ ——
そして。フォボスは落着した。
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地球標準時二千五百年九月十一日。火星、オリュンポス山は謎の爆発によって消失した。原因は不明。爆発規模から小惑星の衝突と推論されたが、当時の観測データを何度確認しても火星へ接近する小天体は確認されていなかった。
この爆発で、火星の人類生存圏は事実上消失した。爆発の威力は地殻まで達し、大規模な溶岩流が火星の半分を覆った。巻き起こった粉塵が大気を覆うことにより寒冷化が引き起こされ、また多くの空気が星外へと流出した。もはや人の住める環境では無くなった。
数年後。火星の衛星軌道上に設置されたコロニーも含めて、火星圏からの撤退が決定された。地球では火星を失ったことによる経済的大混乱に見舞われていた。火星主産のレアメタルを喪失したことにより、科学的には後退期へと入る。超光速航法の実現の目途が立たなくなり、準光速弾投射砲は放置され、他恒星への進出計画は無人機を一基放出しただけで頓挫した。拡大を続けていた人類の行動圏は、この時を境に縮小に転じたのだ。
そしてこれより更に百年後。「デキステル」世界は「シニステル」世界との衝突により、消滅することになる。歴史に記されることはないが、それはゆっくりと世界が変貌していく、もっとも静かな大虐殺であった。
—— ※ —— ※ ——
トウマたちは火星から地球へと戻ってきた。シニステルの連中は姿を消したまま、二度と現れることは無かった。突然消失した火星の衛星フォボスのことは、世界的な大ニュースになった。しかしその原因も行く先も現代の人類には知る術は無い。やがて人々の記憶から忘れ去られていき、火星の衛星は一つだけだと記憶されるようになった。
新宮トウマと佐倉ヒメは六年後結婚した。しかしその数年後に離婚する。佐倉ヒメは後年再婚し、何人かの子を成した。新宮トウマはその後再婚はせず、八十一歳でこの世を去った。香狩ジュウロウは大学卒業後、合衆国へと渡りエンジニアとなった。現地で結婚したが、子は無かった。そして生涯日本に帰ることはなかった。
デキステルはフォボス落下の回避の為の活動を続けたが、それが実ることは無かった。既に時空転移したフォボスを止める方法は見つからず、当日を迎えることになる。地球に移転していた為、組織の壊滅は避けられた。が、それだけだった。文明の後退は防ぐことが出来ず、デキステルも緩やかに解体されていった。
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