【三十】前世の記憶 其の五
歪な形の月が星空に浮かんでいる。火星の月であるフォボスは、地球の月の様に真円を描いてはいない。さながら空飛ぶジャガイモといった風体だ。火星生まれのレイリーにとって月は歪であるのが普通なので、地球発のドラマを見ると少し違和感を憶える。でも月が太陽を隠す日食という現象は神秘的だと思う。特に皆既日食。あれは美しい。地球人が自身を特別視する傾向があるのも、何となく理解出来る。
今夜は風が弱い。クリスタルタワーの屋上には、垂直離着陸機の発着場や各種電波装置そして各種タンク類がひしめき合っている。今レイリーの居る露天の展望台は非常用だ。通常の展望室は一階下の屋内にある。
レイリーはデキステル構成員の特権をささやかに利用して、休憩の時はいつも露天展望台へと足を運んでいる。理由は簡単。ここなら煙草が吸えるからだ。火を付ける古典的な煙草、その紫煙が緩やかな風に乗って流れていく。マウアには煙草臭いと不評だが、止められずにいる。少し心安らぐ気がするのだ。定期的に肺を洗浄しなければならないのが玉に瑕だ。
吸い込んだ煙を一際強く吐き出して、夜空を見上げる。歪な月のすぐ傍に、明るく輝く星が目立って見える。レイリーの視線はそのゆっくり動いていく星を見つめている。恒星では無い。衛星軌道上にある人工物の光だ。その人工物にもう一つ、別の小さな星が近づいていき、やがて一つに重なった。
「また煙草?」
横から声を掛けられた。振り向くとユニファウがいる。伸ばし始めた銀髪を後ろでぐるりと纏め、眼鏡を掛けている。結構似合っていると思う。ハイヒールで床を叩くその出で立ちは、お偉いさんの秘書の様だ。もっとも彼女の場合は、自身がお偉いさんなのだが。
ユニファウの両親は財閥の現当主。これでも良いところのお嬢様なのだ。なんでそんな上流階級のお隣さんがいたのか、レイリーはこれを人生の七不思議の一つと数えている。
彼女は両親を説得し、財閥の一部門をデキステルの協力企業に加えた。条件はその企業のトップを務めること。書類にサインしてれば良いと楽観的に考えていた彼女は、今や昔の自分に呪詛を吐く生き物と化している。社長という職業はそんな簡単なものではない。彼女の両親の方が一枚上手だったということだ。ユニファウの折角の綺麗な肌、主に眉間に険しい谷間が刻まれている。
レイリーは短くなった煙草を携帯灰皿へと消し込んで仕舞った。かしゃんと、フェンスに寄り掛かる。
「ちょっと見てた」
「ああ。ちょうど今頃到着した頃かしらね。」
空に視線を戻すと、ユニファウもレイリーが見ていた物に気がついた。レイリーの隣でフェンスに寄り掛かり、手にした情報端末を操作する。何やら複雑な表や図形が表示される。その一角に映像が表示される。映されているのは宇宙空間に浮かぶ細長い「筒」だった。レイリーも何度か見たことがある。これが先程見ていた星の正体である。その筒に、大型貨物船が入っていくのが確認出来た。
「筒」の大きさは全長三十キロ。長さだけであれば衛星フォボスほどもある。その正体は準光速弾投射砲と呼ばれるシステムだ。遠くから見るとただの細長い筒だが、近くによると外壁にはソーラーパネルや姿勢制御用の推進システムがごてごてと付随している。「筒」の本体はスペースコロニーの躯体を流用している。
準光速弾投射砲とは、その長い躯体を利用して準光速まで加速した弾を投射する装置である。弾といっても投射するのは、ほぼ光。つまりビームだ。もっとも武器では無い。数光年以上離れた他恒星系との通信手段を確立する為の、スケールの大きな光通信システムなのだ。
デキステルがこのプロジェクトに介入している目的は、シニステルが準備中と推定される質量兵器を破壊する為である。準光速弾投射砲は通信機だが、超長距離に光信号を伝送する為に膨大なエネルギーを投射する。小惑星の惑星落下を防止する技術は幾つかあるが、その最終手段。膨大な熱量を持って小惑星を破砕・蒸散させる計画だ。
「今回搬入分で、八割まで完成ってところか」
「現時点でも性能は充分に出せるわ。試射だって成功したし。あとは化粧させる感じよ」
「化粧か」
「そう。出資者や財閥のお偉方を納得させる為にね。いっそ管制室に赤絨毯引いてやろうかしら」
上を見上げて大きく溜息をつくユニファウ。首を左右に曲げるが、鳴る音は聞こえなかった。随分お疲れの様だった。そういえば昔から肩凝り性だったか。レイリーは胸を見て、それからユニファウの身体をフェンスから引き起こすと、両手で肩を揉んでやる。肩の付け根辺りを親指でぐいぐいと押してやると、ユニファウが気持ちよさそうに「あー」と声を出す。
「あー、いいわー。最近忙しくて、全然マッサージ行けてないのよね」
「その若さで?」
「若さは関係ない。レイリーも凝るようになれば分かるわ……あー、いい。折角だから全身お願いしたい。今夜ダメ?」
「ダメ。昼間ならな」
「なによケチ」
ユニファウは不満げに舌を出し、レイリーは苦笑する。そこへ、下の階へと続く階段から人影が現れる。レイリーとユニファウは素早く、そしてスムーズに一歩距離を取る。
「ふわあああ」
現れた人影はマウアだった。ぼさぼさの黒髪が風に揺れる。右手には紙コップを持っている。その頭が左右にふらふらと揺れる度に、カップの中身が溢れる。コーヒーだった。結婚指輪の塡められた細い指を濡らすが、気にも留めない。熱くはない様だ。
「あれ、何してるの?」
「投射砲をさ、見てたんだ。今日も搬入だっていうから」
「搬入? もう完成したんじゃないの?」
「いろいろと小綺麗にする作業が残っているんだと」
「あー、そういう。なら赤絨毯でも引いてやればいいんだわ」
欠伸を噛み締めながらマウアがそう言うと、レイリーとユニファウは互いの顔を見合わせて苦笑した。
「作業の方は順調?」
「んー、そうねえ。微妙なトコ」
ユニファウが話掛けると、マウアは渋い表情を浮かべる。紙コップのコーヒーを啜るが、指を濡らした滴が垂れて白衣に染みを作る。あーあーとばかりに、ユニファウがハンカチでその指を拭ってやる。こちらも相当疲れが溜まっている様だ。
マウアはここ二週間ばかり研究室に缶詰になっている。クリスタルタワー深部に設置された大型量子コンピュータは勿論、参画企業の所有するサーバー群の余剰計算能力も借り受けて、大規模な計算をしていた。例の小惑星投下についての計算だ。シニステルの小惑星投下計画が、なぜ計算で分かるのか。因果律がどうとか、量子効果の選択性であるとか。一度説明を受けたが、レイリーもユニファウもさっぱり理解出来なかった。
デキステルの上層部でも、マウアの警告は半信半疑で受け取られている様だった。それでも小惑星投下に対する備えを進めているのは、小惑星落下による大規模破壊自体はオーソドックスな手法であるからだ。
「計算結果は大体出たんだけどね。自分でも正しいのか正直自信がない」
「だから頭冷やしに来たってところか」
「そういうこと」
マウアはコーヒーを飲み終えると、周囲を見回した。多分ゴミ箱を探したのだろう。だがこの展望台は緊急用なのでゴミ箱は設置されていない。あ、とレイリーが止める間もなく、マウアは紙コップを丸めると、白衣のポケットにしまった。
「それじゃ、明日はどこか出掛けるか。たまには気晴らしにでも」
そう提案したのはレイリーだった。ユニファウとマウアに視線がレイリーに集まる。
「誰と?」
「勿論三人で」
「却下。いやよ、あんたら夫婦だけで行ってきなさいよ」
ユニファウがげっそりとした顔で言う。「そういうなよ、あくまでみんなの気晴らしなんだからさ」とレイリーが困った顔をする。
「どこへ?」
そう聞いたのはマウアだった。
「そうだな、アケロン人工海とかは? 今ならまだ泳げるはずだぜ」
「泳ぐの? 水着なんて持ってない」
「なら買いに行こうぜ。現地でも売ってるだろ?」
「えー」
「そんなイヤそうな顔するなよ」
レイリーは二人をなだめすかし、何とか了承を取り付ける。「これって、楽しいのレイリーだけなんじゃないの?」というユニファウの言葉は聞こえなかったことにした。
そういえば、三人でどこかへ出掛けるのって初めてか? 少なくともレイリーとマウアが結婚してからは初めてだった。ちょっと懐かしい感じがして、レイリーはくすりと笑った。
—— ※ —— ※ ——
そうして。世界は白に包まれた。今なら分かる。この瞬間、シニステルの小惑星が降下し、オリュンポス山を吹き飛ばしたのだと。
レイリー、マウア、ユニファウ。三人の人生は、この時終わったのだ。
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