【二十九】シニステル総帥
ニューメキシコ州では、ここ二週間ばかり雨は降っていないということだった。強い日射しが降り注いでいる。砂漠とまでは行かないが、乾燥した平たい荒野が地平線まで続いている。その所々に、垂直な岸壁で構成された巨大な岩山が聳えているのが見えた。大陸を実感させる、雄大な風景である。
マリアはオープンカーの後部座席で日傘を差しながら、茹だっていた。日射しが強すぎて、日傘が全く意味をなしていない。過酷な自然を前に、日傘などと言う文明の利器は非力すぎた。汗だくになると同時に、乾燥した空気が肌の水分を奪っていく。
ああ、全く酷い環境だ。助手席に座る『氷狼』がエアコン代わりに冷気を生み出していたが、朝からの連続稼働で先程ダウンしてしまった。なのでもはや耐えるしかない。運転席のユジェリはサングラスをかけ、ラジオから何やら音楽を流しながら平然と運転している。聞こえてくる鼻歌がマリアには幻聴の様に聞こえた。
太陽は直上にある。日が沈むまであと数時間は、この自然の猛威に耐えなければならない。マリアの眉間に寄った皺に汗が流れ込む。世界を滅亡させる前に、自分が滅亡してしまいそうだった。
ルート66。かの有名な大陸横断国道。東海岸のシカゴから大陸中央のニューメキシコ州へと走ってきた。そこから更に北部へと入り込む。目的地まではあと少しだった。大いなる田舎、アメリカ合衆国の辺境のまた辺境である。道路はもはや未舗装とあまり変わらない。道路と荒野の境目は限りなく薄い。
何故オープンカーにしたのか。マリアには全く理解出来ない。車を調達してきたのはユジェリだった。今思えばなぜその時に反対しなかったのか。マリアは車には疎く、ユジェリは詳しいという。この車は七十年代の某でどうたらこうたらと嬉々と説明していた。なるほど、専門家では無くマニアだったのかと、ようやく気がつく。今度からはマニアの意見は取り入れないと固く誓った。
誰とも擦れ違わない道をずっと北上し続ける。日が少し傾いてきた頃になって、ようやく目的地が見えてきた。進行方向の先に、帆船のようにそそり立つ岩山が見える。シップロックと呼ばれる岩山だ。ユジェリに命じて、オープンカーに乗ったままぐるりと周囲を一周する。一部では有名な岩山だが、今は人の気配は感じられない。予定通りだった。
日陰に停車する。マリアは手首に視線を落とした。腕時計の時刻は三時。あとは時間を待つだけだった。
—— ※ —— ※ ——
日が落ちると、今度は急速に気温が下がっていく。日中の熱気は太陽と共に去り、冬かと思う冷え込みが襲ってきた。マリアは用意していた黒いコートに身を包んだ。回復した『氷狼』もいそいそとダウンコートに袖を通す。ユジェリだけが一人、半袖のままだった。
周囲に人工的な光は何も無い。青黒い夜空に満天の星が輝いている。その星空を切り抜くように、シップロックが黒い影として浮かび上がっている。三人は淡い光を放ち、ゆっくりと宙を舞った。シップロックの頂上まで約二百メートル。そのまま一番高い頂上部分に降り立つ。
「あとどれぐらいだ?」
ユジェリが周囲を見回しながらマリアに問う。昼間の気楽な表情とは一転、注意深く周りに気を配っている。『氷狼』もユジェリと背合わせして周囲を注意深く観察している。
「もうじきよ」
マリアは腕時計を見る。七時。丁度秒針と長針が重なる。すると三人の間に、直径二メートルはある光の球体が出現した。薄い紫色のその光球は、まるで桜の花弁の様な粒子をゆっくりと舞い降らせつつ、その密度を増していく。マリアたちがお互いの姿を光球越しに見えなくなる程濃くなると、今度は急速に光度を落としていき、消えた。
そして。光球の消えた後には、一人の人間が現れていた。その顔立ちは薄い目鼻立ちで、中性的に見える。いや正確には性別的なものを感じないといった方が正しい。柔らかい肩付きで、背もそれほど高くない。どこか儚い雰囲気で、妙に記憶に残らない。ただその紫色の瞳だけは、見た者の印象に鋭く残った。
「お待ちしておりました、我らが総帥」
マリアは日傘を畳み、膝を付いて恭しく頭を垂れた。『氷狼』もユジェリも続く。総帥と呼ばれたその人間は、それらを見回して柔らかく微笑んだ。
『マリア、ユジェリ、サクラ。お前たちも任務ご苦労だったね』
その声は二重に震えて聞こえた。総帥は少し意外な表情を浮かべ、『あーあー』と発声練習をする。やはり声は重なったままだった。
『すまない。どうも調律が上手くいってない様だ。聞こえているか?』
「は。お声、聞こえております」
『それは良かった』
「申し訳ありません、『マウア』の抹殺には失敗しました。デキステルは、日時等の情報を既に入手したかと思われます」
マリアの頭が一段深く沈む。その表情は暗い。
『そうか。一番短い経路は閉ざされたか』
「ご期待に添えず、申し訳ありません」
『いいよ。お前たちが無事戻ってきたのだから、それで充分だよ』
総帥の声が優しく囁く。マリアは安堵の表情を一瞬だけ浮かべ、しかし口元をぎゅっと引き締めた。総帥の期待に応えられなかった。その失望の念はマリアの方が強かった。
総帥は星空を見上げた。満天に輝く星々の中に、赤く輝く星が一際目立っている。総帥の紫色の瞳はその赤い星を写し込んでいた。
『ならば、デキステルとの衝突は避けられないな。四天八部衆のみんなは?』
「はい、準備整えております。約束の日には御身の元へと集結いたしましょう」
『うん、待ってるよ』
満面の笑顔を浮かべる。総帥のその姿が、ゆっくりと光へと転じていく。少しずつ消えていっているのだ。
『九月十一日。火星で会おう』
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