【二十六】雨降る


「いででででっ! ちょい待ちいや! 悪かった、悪かったって!」

「いいや! 反省してないだろ、お前」

「そんなことない、ないってば!」


 キョウコの悲鳴が、五階相当の高さのある吹抜けに響く。その声は天井まで届いて反射していく。吹抜けの南側は全面ガラス張りの窓、北側は各階のオフィスの通路に繋がっている。突然の悲鳴に、通路を歩いていた人々が思わず吹抜けから下を見た。そして「いつものことか」と関心を失って、通路の奥へと戻っていく。


 吹抜けの下には広い待合室になっていた。本革製のソファーがコの字に配置されている。その中央で、ホムラがキョウコの頭を腕で抱え込んでいた。プロレスか。ホムラは怒気と感じさせる息を吐き出しながら、もう片方の拳でキョウコの脳天をぐりぐりと抉っていく。悲鳴と共にキョウコの身体が痛みにのた打ち、そしてやがてだらりと弛緩した。


 南側のガラス壁の外を見ると、雨が降っていた。さきたま市は年間通じて雨の少ない地域であるので珍しい。夏の熱気は蒸したまま残っているが、雨が塵や埃を流していくので少し清涼な感じがする。もっとも建物の中は全館空調だ。フィルターも掃除が行き届いているのだろう。涼しく、そして澄んだ空気が肌を撫でていく。





 ——クリスタルタワー。

 




 その五十階。直通エレベータから出たところの豪華な待合室で、トウマはホムラとキョウコの夫婦喧嘩を見ていた。あれから一週間が経つ。この夫婦喧嘩を見せられるのは何度目だろうか。ホムラは意外と根に持つタイプであった。ちなみに夫婦というのは比喩で、正確には恋人同士らしい。ホムラは認めないが。


「ったく、いくら『幻想』に幻覚かけられてたからといってな、そんな簡単に騙される阿呆がいるか。匂いでわかるだろ、匂いで」

「むちゃ言わんといてな……」


 開放されたキョウコがふらふらとソファーに寝転がる。ひらひらと振るその手に焼け焦げた傷は無い。その隣に大股を広げてホムラが座った。彼の頭にはキョウコの野球帽が載っている。トウマはその様子を反対側のソファーから見ている。


「しかし、幻覚の異能力か」


 トウマが感心しても良いものか、迷って表情をしかめる。目の前のホムラを見つめるが、正直以前の彼・・・・と見分けが全くつかない。


「『幻想』の幻覚は、見ている人間の記憶を使うからな。つまりオレという幻覚情報を一から作るんじゃなくって、見ている相手の『記憶の中のオレ』を幻覚として見せる。だからまあ、騙されやすいっちゃあ騙されやすい」


 そしてその情報を『偽物』本人も含む、見ている者同士で共有すると推測されている。だから、人数が増えれば増えるほど精度が増す仕組みだ。その処理を行っているのは『幻想』本人だろうから、彼女は『偽物』が見知った情報にも触れられるということになる。一石二鳥だ。間諜スパイの仕組みとしては厄介この上ない。


 今、このデキステル日本支部では全部門の総チェックが行われている。一週間経つがまだ終わらない。朱乃条ホムラはこれでも表では取締役、裏でも相当高い地位にいるらしい。そんな人間の偽物が間諜として入り込んでいたのだ。一体どの程度の「深度」まで探られたのか、見当もつかない。上へ下への大騒ぎ中である。トウマがここにいるのも、その調査に協力しているからだ。


「じゃあヒメも、幻覚にかけられていたのか」

「そうだな。『マウア』の記憶は、つまりお前やヒメの中の『マウアの記憶』だ。だからマウア本人しか知らない情報は出てこなかっただろ?」


 そうだな。ヒメと前世について話す時は、大体同じ出来事の話が多かった。それを特に不思議とも思わなかった。寧ろそれは親しい仲の証だろうと、漠然と喜んでいた。どこか弄ばれたような気がして、トウマは拳を握り締める。


「まあよく考えたもんだ。『マウア』の偽物を作って、オレたちの中に放り込む。偽物だから幾ら調べても情報は出てこない。そのままタイムオーバーになれば良し。もし本物が出てきたとしても、その時はオレの偽物で抹殺する、と」


 はははっとホムラが笑う。でもその目は笑っていない。キョウコがじわりと距離を取る。またとばっちりを受けるのを警戒していた。


「そういえば、ホムラさんは今まで何してたんですか?」

「オレか? ちと合衆国にな、殴り込みに行ってた」

「合衆国?」

「そ。シニステルの本拠地だからな。腕の立つ連中と一緒に、親玉退治に行ってたんだわ」


 合衆国ってアメリカ? アメリカにシニステル本拠地があるという話は初耳だった。そういえばその辺りの話は詳しく聞いてなかった。ちょっと心の整理を付けるので手一杯だったのだ。


「残念ながら、親玉とは接触すら出来なかった。ま、それ相応の土産は食らわせてやったけどな」


 思わずトウマは、ソファーの横に置かれたラックに架けられた新聞に視線を走らせる。一面に何かが炎上している写真がでかでかと載っている。いやでも異能力での出来事は、現実的な出来事に置換されるという話だ。まさかそんな……置換された結果が、それなのだろうか。どれだけの騒動を引き起こしてきたのか。あまり聞きたくない類の武勇伝が出てきそうだ。


「やっぱ、小惑星を時空転移させるタイミングを狙うしかなさそうだなー」


 ホムラはソファーの背もたれを使って身体を思いっきり反らし、待合室から伸びる通路の先を見る。この待合室はいわば境界線。ここから先はデキステルの裏、もしくは本当の顔となる転生能力者たちの施設になる。


 多国籍企業デキステルは、転生能力者たちが自らの活動を支援させる為に作った組織である。このクリスタルタワーも、五十階から上は転生能力者のみが入れる区画となっている。


 通路の先には様々な設備がある。研究室やデータセンター、宿泊施設等々。最先端の医療設備もあり、今はジュウロウが検査を受けている。体調面は異常ない。前世の記憶を取り戻す為の、医学的処置を受けているのだ。トウマが聞いたところによれば、メンタル的なカウンセリングや催眠療法を受けているとの話だった。


 ここ一週間、ジュウロウは毎日この時間には訪れている。そこそこ前世の記憶は出てきているらしいが、一番欲しい小惑星落下の情報はまだ出ていない。


「なんか喉渇かへんか。飲み物もろてくるわ」


 キョウコが立ち上がる。ホムラは「コーラで」と答える。キョウコは視線でホムラにも促してきたので、有り難く「じゃあアイスコーヒーを」とお願いした。あいよーと、通路の方へキョウコが歩き去る。そういえば食堂もあったな。何度か利用したが、結構美味しかった。何よりも関係者は無料というのが良い。学生であるトウマにとってはお財布に優しいのは何よりだ。


 そういえば。トウマはおもむろに、壁面に吊されているクラシックな掛け時計を見る。時間は午後一時。ヒメは今どうしているのだろうか? あれから一週間。トウマはヒメとまともに会話出来ていない。


 荒川の現場では、ジュウロウはヒメを近くの茂みに隠していた。気がついた彼女は泣きじゃくるばかりで話らしい話は出来なかった。その後、周辺のクリーニングと護衛が目途がついたというので各自自宅に戻った。翌日以降、何度か会いに行ったが、ヒメの母親が言うには自室に籠もって出てこないと心配していた。


 会って何の話をする? 分からない。ヒメはマウアじゃ無かった。だから好きじゃ無い、そんな訳はない。元からヒメのことは気になっていた。何も無ければ、たぶんヒメにいつかは告白していただろう。でもそれは、無意識の内にマウアの影を感じていたからではないのか? そういう疑念が払拭出来ない。


 自分の心が、トウマとレイリーに別れていれば、もっと簡単に話なのかも知れない。しかしどこかで交じり合っていて、はっきりしない。しかもヒメの前世がにユニファウだというのが、更に心を混乱させる。あの、ユニファウでは無くマウアを選んだ場面が激しく何かを掻き乱していく。トウマは震える拳を、ぎゅっともう一つの手で握り締める。


「お」


 ホムラが声を上げる。下層からの直通エレベータが到着したのを知らせるチャイムが鳴ったのだ。直通エレベータに乗れるということは転生能力者ということだ。ふとトウマもエレベータの方を見る。その扉が開くと、トウマの視線が硬直すた。


 エレベータの中には、佐倉ヒメが乗っていた。その足がフロアの床を叩く。その髪は、腰まであった長い髪は無く、肩の高さで短く切り揃えられていた。


 トウマは微かに、ラベンダーの香りを感じた。



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