【二十二】荒川戦線 其の二
荒川の河川敷は広い。ここからやや下流に架かっている武蔵野線の荒川橋梁の長さは約千三百メートルで、河川に掛かる在来線鉄道橋としては最長である。
河川敷には街灯は無い。土手の近くであれば外の街明かりが入ってくるが、遠ざかるに連れて月明かりだけが頼りになる。だが暗さに躊躇している暇は無い。ジュウロウはヒメを抱えて走っていく。公園を抜け、背丈ほどに伸びた草むらの中を時折躓きながらも漕いでいく。やがて川岸へと出る。足元が土からコンクリートへと変わった。
「ここは……岸壁?」
川岸の一部がコンクリートで護岸されている。そういえば、荒川を下って東京まで行く水上バスがあったはずだ。これは発着場の様だった。川面に向けて船が接岸できるように、一段低くなっている。だが水上バスは見当たらない。薄暗い中に看板やベンチの様な物が辛うじて見える。夜間は使われないのだろう。やはり照明の類は一切無い。
背後からは爆発音が響いてくる。振り向けば、土手の中腹に爆発の光が弾けるのが見えた。ジュウロウが異能力を使う。その「遠見」の能力は、遠く暗くてもトウマの姿が良く見えた。ブレードを振るい、少し遅れて発生する爆風に煽られながらも、なお前進する。だが優勢なのは『虎』の方だ。プレードを躱し、二度三度と光の杭を撃ち出せば、トウマはあっという間に土手の下へと転がり落ちていく。
ジュウロウの、ヒメを抱える手に力が籠もる。無力な自分が憎かった。前世でもそうだった。傷つくのはいつもレイリーだった。今すぐにでも駆け付けて、あの金髪の横顔に一発食らわせたい。しかし、それが愚行であることも理解している。今一番に狙われているのは「マウア」、つまり自分自身なのだ。
ふと。ジュウロウは、発着場に再び視線を落とす。通常の視界では影に隠れて見えなかったが、「遠見」の視野に、発着場の端の様に小さなボートが係留されているのが見えた。小型だがエンジンも付いている。ここから距離を稼いで逃げるにはうってつけだ。
「……!」
ジュウロウは一計を思いつくと、急いで発着場へと駆け下りていった。
—— ※ —— ※ ——
一人、土手の上に残っていたマリアは、視線を上げた。
『虎』の派手な爆発音に混じって、別の音が聞こえる。エンジン音だ。それは一際高い音を響かせて右の方、下流へと遠ざかっていく。
「あら、困ったわね」
マリアは細い眉をひそめる。エンジン音は、方角的に逃げ出した少年と少女のものだ。恐らく川岸でボートか何かを見つけたのだろう。いつものことながら、全く運が悪い。マリアは深くため息をつく。もし運が良いか、せめて普通だったら、マンションでこの一件は終わっていて良かったのに。つくづく運に恵まれない。
勿論逃がすつもりは無い。特に少年の方は「マウア」の生まれ変わりなのだから、その抹殺は最優先事項だ。本当は『氷狼』が追い掛けているはずだったが、『炎蛇』共々土手の下で足止めされている。無数のかまいたちが地面ごと切り裂き、『氷狼』の全身を血塗れにしていく。キョウコと言ったか? デキステルの輜重官は裏方役だと思っていたが、中々どうして。
「荒事は苦手なんですけどね」
こうなると、手が空いているのはマリアだけだ。彼女はドレスのスカートの中から短機関銃を取り出すと、淡い光を発してふわりと宙に浮かんだ。「浮遊」の異能力。正確には「空間制御」だが、そう難しい能力ではない。マリアは苦手な方だが、ボートを追うぐらいの速度は出せる自信はあった。
「ほっ、よっ、はっ」
まるでジャンプしていくかの様に、マリアは空を駆けていく。
河川敷同様、川面は暗い。進む先に、辛うじてボートの船体とその航跡が見える。時速二十キロぐらいだろうか。随分と爆発音は遠のいた。荒川を渡る、四車線のコンクリート製の橋が迫ってくる。ボートが先に橋の下へと入り、マリアは「ほっ」と飛び上がって橋の上を越えていく。橋の上には車やトラックが行き交っている。マリアは一旦高く舞い上がり、ボートが橋下から出てくるのに合わせて、一気に降下した。
どすんと、マリアはボートの後部に降りた。その反動でボートの船首が浮き上がる。進行方向がぶれ、ボートは急旋回して川岸に乗り上げた。
「やられた」
マリアは短機関銃を構えたまま、淡い星空を見上げた。スクリューが空回りして泥を巻き上げている。ボートには誰も乗っていなかった。運転席のハンドルは棒で固定され、ペダルには重しが乗せてある。ボートは無人で進んでいたのだった。
—— ※ —— ※ ——
『虎』は違和感を感じていた。頭上から撃ち出した光の杭がまた落とされた。トウマのブレードに弾き落とされ、土手の斜面を削る。トウマはその爆風に体勢を崩しはするが、明確なダメージを負っている様子は無い。
異能力に覚醒して間もないというが、その使い方を無意識の内に習得しつつあると思われた。爆風でのダメージがほぼ見当たらないのは、明らかに「空間制御」だ。空間を制御することによって
そして『虎』の本能が危険と知らせてくるのは、光の杭を叩き落とす行為だ。飛来する物体を斬り落とす。一発は、まあまぐれと思おう。しかしそれが十回も続けば、それは人間業では無い。光の杭の飛来速度は秒速約三百メートル、ライフル弾には及ばないがピストルの弾ほどの速度は出ている。明らかに異能力を使っている。それも無意識に。
『虎』は光の杭を再び撃ち出す。その杭はトウマの額目掛けて飛来するが、トウマは反応しない。命中する直前、光の杭は軌道を微かに左へと変えてトウマの耳元を通り過ぎていった。トウマの背後遠くで爆発する。
「未来予測か……!」
『虎』は舌打ちをする。今ので分かった。トウマは未来予測をしている。それも非常に高精度な、光の杭の軌道とそれを斬り落とす自分自身ごとまとめて予測するという離れ業をやっている。
「だがこれならどうだ!」
「やべっ!」
トウマの表情が焦りに変わる。『虎』は戦術を変えた。光の杭が数十の細かい光の礫へと分裂し、散弾の様に一斉に撃ち出された。トウマはブレードを振るいつつ横へと跳んだが、間に合わない。躱し損ねた幾つかの礫がトウマの足を貫く。血が飛び散り、転倒する。
「痛ってえなあ、ちくしょう!」
トウマはブレードを杖に立ち上がろうとする。左足は無事だが、右足は太股から足背にかけて何カ所も穴が穿たれている。『虎』がゆっくりと近づいてくる。
「幾ら予測出来ても、数か多ければ対処できまい?」
「なんだよ予測って」
「無意識か。才能あるよ、君。だがそれ以上は来世でやってくれ」
再び『虎の』頭上に光の礫の群れが現れる。トウマはブレードを構えることも出来ない。『虎』は目を細め、光の礫を撃ち出した。
——その直前。
『虎』の頭蓋を、真横から振りおろされた金属バットが打ち抜いた。悲鳴の代わりに骨の折れる音が響き、『虎』の身体が地面に倒れ転がる。撃ち出された光の礫は僅かに軌跡がずれ、トウマの横の地面を蜂の巣にしていた。
「は? お前、なんで!」
トウマが驚いて叫ぶ。息を切らせたジュウロウが、振り抜いた金属バット地に下ろして立っている。『虎』を殴ったのはジュウロウだった。
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