【二十】幻想の
ゆらゆらと。視界が揺らいでいる。周囲は炎に包まれていた。キッチンやリビングの壁、ベランダへと通じる窓枠は爆風で吹き飛んでいた。それらの残骸と、剝き出しになった鉄筋に光の粒子を含んだ炎が伝っていく。
その真ん中で、ホムラはぼんやりとしていた。熱気が肌を伝う。普通であれば瀕死の重傷を負うような炎の中でも、小春日和の様に感じられる。異能力が、足元から巻き上がる藍色の光が、ホムラを防護していた。
あれ? オレは一体何をしているんだろうか? 異能力を使っている……そうだ、三人揃ったから殺さなければならなかった。だから吹き飛ばした。……なぜだ? どうしてオレがそんなことを……。
ぼんやりとしたホムラの瞳が、急速に輝きを取り戻していく。ああ、そうだった。そういうことか。
「ふは、ふはははは」
任務の為とはいえ、酔狂なことを引き受けたものだ。まあ今思い返せば、なかなか新鮮な体験だった。前世の夢を見るのに似ているが、こちらは明晰な記憶として残っている。意外と癖になりそうだ、他人に成りすますというのは。
遠くから消防車のサイレン音が聞こえてくる。パトカーのサイレンもそれに混じっている。マンションの前は、逃げ出す人と集まる人が入り交じって騒然としていた。
ホムラだった男の身体は、つむじ風の様な炎の風に包まれた。そしてその炎が消えると、その場には誰もいなくなっていた。
—— ※ —— ※ ——
「ぐへっ!」
トウマはカエルが潰れた様な声を出した。気がつけば、草むらの上を転がっている。斜面だった。トウマの身体はそのまま斜面を転がっていき、何回か跳ねてから平坦な地面の上で止まった。
「いてて……一体何だっていうんだ?」
腰を打った。トウマが全身にまとわりついた土と草を払いながら立ち上がる。ここは外か? だが街灯は見当たらない。月明かりだけがやんわりと視界を確保してくれる。
目の前には今転がってきた斜面、土手が
土手の高さと河川敷の幅からして、ここは関東平野の往く大河、荒川だと思われた。マンションからはさほど離れていない。遠くからサイレンの音が聞こえてくる。
「いたたっ」
ヒメの声がする。周囲を見回すと、ヒメとジュウロウが立ち上がるところだった。二人とも草まみれだ。二人とも土手を転がり落ちたのだろう。
「おい! 大丈夫か!」
トウマはその二人の向こう側に転がる人影を見て、思わず駆け寄った。キョウコだった。一人だけ立ち上がれない。その両腕は真っ黒に焦げていて、未だ白い煙を上げていたからだ。
「かーッ、マジ痛てえ!」
キョウコが歯を食いしばって痛みに耐えている。その目尻から涙がこぼれる。トウマはキョウコの上体を起こすが、それ以上は何も出来ない。焼け爛れた黒い皺の隙間から血が滴り落ちる。肌は完全に炭化していた。
「どうなってるんだ?!」
「分からん! あのホムラはおかしかった!」
キョウコが痛みを弾き返そうと声を荒げる。トウマは大体の事情を察した。ホムラが異能力でリビングを吹き飛ばそうとした瞬間、キョウコがホムラを突き飛ばしてその発動を一瞬遅らせたのだ。キョウコは入室した時からおかしいと思っていたのだろう。トウマたちをここまで跳ばしたのはキョウコの異能力だろう。
「意外としぶといですのね」
頭上から声がした。女性の声。キョウコが見上げると、土手の上に人影があった。裾の広がった黒いドレスを着た女性。そして、左右には金髪の男と大正袴の女性が従っている。見覚えがある。以前高校で襲ってきた『虎』と『氷狼』だ。ヒメはトウマの背に寄り添い、ジュウロウが三人の前に立つ。
キョウコの視線は黒ドレスの女性に注がれていた。
「なるほどな。ホムラは偽物やったってワケか」
「あら。私の能力をご存じなのかしら?」
「そらな。アンタ有名人やからな、『幻想』のマリアはん」
「うふふ、光栄だわ」
二人のやり取りを聞いていたトウマは、キョウコにそっと耳打ちをする。
「どういうことだよ?」
「あの女はな『幻』を見せるんや。つまりホムラだと思っていた男は、全くの別人だったということや」
土手の上には、更にもう一人姿を現していた。それは、藍色の光を纏ったホムラだった。しかしその姿が何故か見えづらくなり、それが解消された時には全くの別人になっていた。男ではあったが、ホムラより背が高く、痩身で、蛇の様に鋭い視線がトウマとキョウコを射貫き、震えを生じさせた。
キョウコの口元が引き釣る。痛みか、それとも恐怖か。
「あはは、あかんな。『炎蛇』のユジェリが偽物の正体とはな。気づかんはずや」
「あんまり良い話じゃなさそうだな?」
「そやな。強さでいえば上から数えた方が早いっていう転生能力者や」
「そりゃ、参ったな」
トウマの顔が引き釣る。あの『虎』や『氷狼』でも大概な強さだと思っていたのに、それより強いとか正直実感が湧かない。この状況、どう見ても逃げの一手なのだが、方法が思いつかない。
「あ!」
突然、ヒメが声を上げた。トウマの背に触れていた手が細かく震え始める。ヒメの瞳は、ずっと土手の上のマリアに注がれている。
「あ……ああ……嫌、イヤ……」
「どうした、ヒメ?!」
ヒメは
『——貴方にはしばらく、マウア役を演じて貰うわ——』
正確には幻聴では無い。それは数日前、ヒメが確かに聞いた台詞だった。
「おい、大丈夫か!」
トウマはヒメの両肩を掴んで揺らす。細い肩にトウマの指が食い込む。その指先にヒメの震えが伝わってくる。
「あら? 『幻想』が解けたのかしら」
その様子を見ていたマリアがぼそりと呟くが、それはトウマの耳には届かない。トウマの手が、ヒメの上体を起こす。滲んだ瞳から涙がこぼれる。ゆっくりとヒメの両手が、トウマの頭を優しく掴む。
「好きだよ、トウマ」
ヒメの薄桜色の唇がトウマに重なる。瞬間、何もかもが静まり返ったかの様に世界が静止した様に感じられた。そしてトウマの胸に飛び込む様に、ヒメは気を失った。
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