【十三】歴史を変える為に



 ——それは光の束だった。



 混濁した意識の中、トウマは無意識に手を引いた。ヒメの両手に握られた手が離れると、二人の掌の間を血糊が橋を作る。その橋に重なる様に、光の束が生まれていた。気がつけば二人の身体から光の粒子が放たれている。トウマからは青、ヒメからは緑。二つの光の群れは混ざり合うように螺旋を描く。その中心で、光の束は白く輝いていた。


 急速に意識が戻り、目に力が戻る。トウマは手を引きつつ、ぎゅっと握り締めた。光の束は収束していき、まるで刀の柄の様になってトウマの手中に収まった。柄から真っ直ぐに白い刃が伸びる。見覚えがある。混濁した夢の中で見た、高周波ブレードだ。


 『氷狼フェンリル』は身を引いた。その鼻面を、高周波ブレードの刃先が掠める。見ればトウマが立ち上がりつつ、上へ向けてプレードを振り抜いていた。飛び退く『氷狼フェンリル』。立ち上がったトウマとの間に、ぼとりと何かが落ちる。『氷狼フェンリル』は自らの左腕を見るが、袖ごと肘から下が無かった。落ちたのは、それだった。


 遅れてやってきた激痛を無表情で堪え、傷口に意識を集中する。光の粒子と共に斬られた断面が凍り、止血された。滴り落ちる血が途中で凍り、小さな赤い球が足元に転がる。


 気がつけば。トウマの姿が無かった。いやヒメもいない。『氷狼フェンリル』は一息ついてから、視線を塔屋の近くへと走らせる。そこにはひっくり返ったキョウコがいて、こちらに向けて中指を立てている。そしてその姿もフッと消えた。後には光の粒子だけが残る。キョウコの空間転移の異能力だった。


 屋上には『氷狼フェンリル』と、凍りついた床と塔屋だけが残された。下の方からは相変わらず爆発音が響いてくる。『氷狼フェンリル』はフェンスの外を見る。学校を取り囲む住宅地の方から音が響いてくる。パトカーのサイレンだ。姿はまだ見えないが、サイレンの音は急速に近づいてきている。


 『氷狼フェンリル』は残った右手を、耳に添える。よく見れば、耳には小さなマイク付きイヤフォンが掛かっていた。その中心をとんとんと叩くと、ピッという音が応答する。


「『ティーガー』、目標は逃げた。帰るぞ」

了解フェアシュタンデン


 イヤフォンからは爆発音に混じって男の声が聞こえた。すると一際大きな爆発音が下から響き、その炎が屋上より高くに立ち上る。炎の照り返しが『氷狼フェンリル』の血に汚れた頬を照らす。


 爆発はそれが最後だった。『ティーガー』は撤収したのだろう。爆発音の代わりに、今度は塔屋の扉がどんどんと叩かれ始めた。


「おい! 誰か居るのか!?」


 内側から男性の声がする。大人の声、多分教師か。屋上の異変に気がついて上がってきたらしい。ガチャガチャと取っ手を回す音もする。


 塔屋を固めていた氷が砕け、扉が勢い良く開く。最初に入ってきたのは中年の男性教師だった。屋上へと飛び出したが、彼を出迎えたのは真夏の日射しだった。ぶわりと一瞬で汗が噴き出る。男性教師は手を目の上に翳して周囲を見渡す。


 そこには何も無かった。凍り付いた床も、血糊も、落とされた腕も無い。床はじりじりと焼かれ、熱気が照り返してくる。男性教師はぐるりと屋上を見回し、ちょっとだけ眉をひそめた。はて、私は何しに屋上へ来たのか。額の汗を手で拭い、結局思い出せないまま、すごすごと塔屋へと戻っていく。


 もう一人。屋上へ来た人物がいた。その人物はじっと、床の一点を見つめていた。それは『氷狼フェンリル』の腕が落ちていたはずの場所だった。今は何も無い。まるで何かが見えるかの様にじっと見つめていたが、その人物もやがて屋内へと戻っていった。


 その人物は、香狩かがりジュウロウであった。



 


  —— ※ —— ※ ——





 気がつけば。トウマは室内にいた。キッチンとリビングが一体になった広い部屋だ。大理石の白さに近い壁紙にそこはかとなく高級感を感じる。しかし生活感は無い。ソファーと冷蔵庫はあるが、他の家具や食器などは見当たらない。窓の外を見ると、住宅地が続いた先に駅舎とクリスタルタワーが見える。随分高さがある。高層マンションの一室だと、トウマは判断した。


「トウマーっ!」


 泣き声と共に、トウマは側面からタックルを受けた。反応出来ずに無防備に受ける。丁度腰の位置に重心がくる、素晴らしいタックルだった。トウマは為す術も無くソファーの上に押し倒された。


「ヒメ?!」


 襲いかかってきたのはヒメだった。見上げれば、ヒメの泣き顔がすぐ目の前にある。ぽたりと涙が滴り、トウマの額に落ちる。まるでカーテンの様にヒメの長い髪がトウマの頭の周りを囲う。いつもは微かなラベンダーの香りが強く充満し、思わずトウマの唇が震える。


「ななな、なんだよ?」

「怪我! 大丈夫なの?!」


 ヒメはトウマの腰の上に跨がると、そのシャツに手を伸ばした。とっさに押さえようとするが、ヒメの方が早かった。ヒメはトウマのシャツを掴み、引っ張って腹を露出させた。


「あれ?! 傷は、どうしたの?!」


 ヒメに困惑の表情が浮かぶ。確かに氷柱で二カ所貫かれたのをヒメは見ていた。それが、無い。日に焼けていないせいか、少々白い肌の腹が見えている。うっすらと凹凸のある、よく鍛えられた腹だった。ヒメはぐにぐにと腹を抓ったり撫でたりする。


「ちょ、何してんだよ! やめろ!」

「だって!」


 ヒメは納得いかないのか、両手で腹を練り始める。目を近づけて見るが、綺麗な肌だ。トウマは顔を真っ赤にしていた。ヒメが上に跨がり、その指が直接腹に触れている。あまつさえ捏ねくり回している。健全な青少年を自称するトウマには強すぎる刺激だった。


「おうおう、ええなぇ。最近の青少年は」


 ソファーで暴れる二人に、いやらしい声が投げ掛けられた。はっとトウマが振り向くと、野球帽を被った少女キョウコがリビングの入口に立っていた。彼女は壁に肘を突いてニヤニヤと笑っている。


「殺されかけたってのにすぐにイチャつけるなんて、うらやましいわ」

 ようやく自分のやっている事に気がついたのか、ヒメは顔を真っ赤にしてトウマの上から飛び降りた。





  —— ※ —— ※ ——





 トウマは掌をじっとみていた。豆とかが少しあるが、綺麗な掌だ。とても氷で肌を剥がした風には見えない。足の裏も同様。それどころか引き千切れたはずのシャツや靴裏も、元通りになっていた。隣に座るヒメの耳も、何事もなかった様につるりとしている。


 トウマとヒメ、そしてキョウコはソファーに座っていた。トウマとヒメの反対側にキョウコが座り、間にあるテーブルに缶コーヒーが三本置かれている。冷蔵庫にあったものだ。冷えている。


 エアコンが全力運転している。三人がここに空間転移してくる前は無人だったから、当然暑さの極地にあった。結構性能が良いのか、エアコンはあっという間にリビングを人の生存圏へと変えていく。


 コーヒーは一本だけ開けられていた。口にしたのはキョウコだけだった。トウマやヒメは、口にする気になれなかった。さっき起きたことを咀嚼するので精一杯なのだ。


「なんで、傷が消えたんだ? 正直」


 死んだかと思った。ごくりとツバを飲み込み、トウマは心の中で呟いた。二本の氷柱は確かにトウマの身体を貫いた。あの感触、今思い出してもぞっとする。


「んー、なんて言ったらええかなー。要するにアタシらの異能力の特性なんやけど」


 キョウコは頭を搔く。そんな役目、統括官ケレブルムの仕事なんやけどなー、とぶつぶつ言いながら、一本のゴムを取り出した。そのゴムをテーブルの上に置き、その両端を画鋲で刺す。なんか高そうなテープルだけど、良いのかな?


「この能力は、単純に言ってしまえば世界を改変する能力なんや。このゴムが世界やとすると、こう引っ張って世界を変質させるワケやな」


 キョウコはゴムの中央辺りを掴んで、横へと引っ張る。ゴムはくの字に変形する。


「でも世界には、元に戻ろうとする修復能力がある」


 ゴムを離すと、ぴょんと元へと戻る。


「だから傷も消えたと?」

「そういうことやな。多少のことは世界が修復してしまう。でも」


 キョウコは、今度は思いっきりゴムを引っ張る。ゴムは暫く耐えていたが、すぐに画鋲で刺した部分から避けて弾けた。びしっと、顔を近づけていたトウマの額に命中する。


「世界の限度を超えれば、元には戻らない。定着するってことや。だからあんまり過信すると危ないで」


 しぶい顔のトウマに、キョウコがにっこり微笑む。


「……元に修復するってことは、その元型となるものがあるってことなの?」


 黙っていたヒメが口を開く。


「そう! 頭ええな」


 いやー説明楽だわとばかりに、キョウコは立ち上がる。


「アンタらも、そろそろ気がついてるやろ。アタシらが、どの時代から転生してきたかってことに」


 トウマは先程の夢を思い返していた。前世というからてっきり過去かと思っていたが、あの高周波ブレード。そんなものは現代でさえまだ実用化されていない。SFの世界の代物だ。そうなれば答えは一つだった。


「未来から……転生したってことか」

「そう。アタシらは未来から転生してきたってことさ。歴史を変える為にね」



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