【十一】氷雪に舞う血潮

 トウマは、宙空から降りてきた大正袴を履いている女性『氷狼フェンリル』を見る。年齢は上に見えるが、細身の女性である。単純な腕っ節で負ける気はしない。勿論そんなものが役に立つとは思えない。下の方からは、絶え間なく爆発の音が振動と共に伝わってくる。トウマの頬を伝う汗も震えているかの様だった。


 え、異能力ってそんなに凄いものなのか。トウマはちらりとてのひらを見る。トウマが出来るのは、精々ペンシルやボールをを引き寄せたりする程度のものだ。それが、下ではどっかんどっかん人が死にかねない爆発を引き起こしている。とても同じものとは思えない。第一、不公平だ。


 正面の女性は、果たしてどの程度なのだろうか。もしかして自分と同じぐらいということはないだろうか。トウマは一秒未満で答えを出した。そんなはずはない。空飛んでやってきたのだ。圧倒的強者ムーブである。


 トウマは『氷狼フェンリル』に喩られない様に、正面を向いたままキョウコに囁く。


「なあ、跳んで逃げられないのか?」

「あー。三十秒ぐらい集中させてくれたら、できるんやが」


 キョウコの足元から黄色い光の粒子が舞い上がる。が、それに呼応する様に『氷狼フェンリル』の足元、黒い皮ブーツから青い粒子が溢れ出し一際強く輝く。彼女を中心として屋上の床が凍っていく。冷気が白い霧となって視界を遮った。


「ですよねー!」


 集中が解け、キョウコの黄色い粒子が霧散する。トウマたちは足元に迫る氷を避け、背を向けて逃げ出した。


「ッ危ない!」


 ヒメがトウマの腕を思いっ切り引っ張った。塔屋の扉に手を掛けようとしたトウマだったが、その手が空を切る。瞬間、扉が塔屋ごと凍り付いた。白い冷気がトウマの鼻を撫でる。慌てて身を捩ったトウマだったが、凍った床に足を滑らせて仰向けに転倒した。


「トウマ・…ひゃ!」


 そばにしゃがみ込もうとしたヒメが、体勢を崩してトウマの上に倒れ込んだ。ヒメの肘がトウマの腹に入り、ぐえっと潰れた声が出る。見れば、ヒメの革靴の底が凍った床に貼り付いていた。トウマはヒメごと身体を起こそうとするが、シャツとズボンに引っ張られて立てない。思わず床に付いた右のてのひらから感覚が無くなり、凍り付いた床に貼り付いて動かせなくなる。


「うぎぎ、動かない」


 見回せば。キョウコもいつの間に転倒したのか、俯せに倒れている。そして動けない。お互い、まるで虫取り紙に捕らえられたゴキブリの様だった。


 白い霧の向こう側で、何か影が揺らめいた。トウマは思わず、残った左手を突き出す。霧の向こうから『氷狼フェンリル』の端正な顔立ちが見えたかと思うと、鋭い尖った氷柱つららが宙に生成され、撃ち出されるのが見えた。


「あ」


 ヒメの瞳孔が締まる。氷柱の先端はヒメの眉間に向けられていた。命中する! しかしその前にトウマの左手から青い粒子が舞い上がった。物を動かす異能力。その見えない力が、飛翔してきた氷柱つららの側面を力一杯叩いた。


 ほんの僅か。氷柱つららはヒメの耳元を通過し、背後の塔屋に当たって砕けた。耳が半分切れ、血が流れ出す。ヒメは前を向き、目を見開いたまま動かない。


「この、野郎ッ!」


 皮膚と布が破ける音がしたが、トウマは意に介さなかった。身体を起こし、血だらけになったてのひらでヒメを押し退けると、凍った床の上を駆けた。最初の二歩で革靴の底が床に貼りついて脱落し、更に靴下ごと足の裏を凍らせる。だがトウマは止まらない。血に染まった足跡を残し、霧の向こうから出てきた『氷狼フェンリル』に肉薄する。


 血に染まる右手を握り締め、トウマは拳を突き出した。『氷狼フェンリル』の顔面を狙ったが、拳はその鼻先で止まる。届かなかったのでは無い。『氷狼フェンリル』の身体がそのままの体勢で後退したのだ。拳から飛び散った血だけが、その白い頬を穿つ。


「ふッ!」


 だが、それだけではなかった。トウマの拳から青い粒子が滲み出て、その瞬間がくんと『氷狼フェンリル』の頭部が後ろに仰け反った。トウマの物を動かす異能力が、見えない打撃を加えたのだ。彼女の右の鼻から血が垂れ、ゆっくりと膝が崩れ身体が沈み込む。


「やったか!」


 トウマは思わず叫んだ。咄嗟の機転だったが上手くいった。ダメージも入った様だ。トウマは痛む足を更に踏み込み、もう一撃加えようとする。


 だが。ぐるりと、『氷狼フェンリル』の頭部が回るように起き上がった。その琥珀色の瞳がトウマの黒い瞳を見透し、そして身体がくの字に曲がった。『氷狼フェンリル』ではない。曲がったのはトウマの身体だった。


「ぐはッ」


 それは声ではなく、トウマの口から血の溢れる音だった。シャツの破けた背から氷柱の先端が顔を出す。それは腹部から貫通し、更に二本目が撃ち込まれる。


「見事です。なかなかの機転でした」


 初めて聞く『氷狼フェンリル』の声は、ピンと張り詰めた弦のような音色だった。膝を付き、項垂うなだれたトウマの前で、懐から懐紙を取り出して鼻血を拭う。


「トウマぁ!」


 ヒメの悲鳴が白い霧を切り裂く。彼女もまた足裏を血だらけにしながらトウマの元へ走り込み、トウマの身体を抱き締める。白い制服が赤く染まっていく。


「馬鹿……逃げろ……」


 トウマの声は、ヒメの泣き声より小さかった。身体から力が抜けていく。トウマは辛うじて動いた左手でヒメの肩を掴んだ。気がついたヒメが、その手を取り、両手で握り締める。トウマも力を振り絞る様に、ヒメの手を握り返す。


「これで終わりです」


 抱き合う二人の上に、いくつのも氷柱つららが現出する。その先端を睨みながら、トウマは意識が薄れていくのを感じていた。


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