【六】前世の記憶 其の二

 ——前世の記憶は、順番に夢に出てくる訳ではない。今回も随分時間が巻き戻った。結婚式の記憶から四、五年前だろうか。正確な時間は分からない。ただ、そう感じるだけだ。





  —— ※ —— ※ ——





 夜の気配がする。窓にはブラインドが下ろされ、室内は通路側だけ照明がついている。フラットな机が並べられていて、机上にはコンピュータの薄型モニタがそれぞれ鎮座している。配線の少なさは、それが洗練された最新鋭機であろうことを感じさせる。机同士の間隔は結構開いていて、事務室というよりは研究室の様に見える。壁には白いスクリーンが降りていて、天井の中心辺りに投影機が吊されている。


 投影機の性能は高い。ちょっと薄暗い程度でもスクリーンにはっきりと投影されている。内容は、何やら複雑な図形と数式らしき物だ。ちらりと見るが、その意味はさっぱり分からない。上部に書かれているタイトルらしきものだけは分かる。SINISTER《シニステル》。オレは後ろ手でドアを閉めると、机の間を縫って歩く。床は絨毯だ。







 スクリーンの前。机の上に腰掛けている女性がいる。長い黒髪は背後のモニタに覆い被さっている。それに頓着することなく、その女性はじっとスクリーンを見つめていた。羽織った白衣には名札が付いているのが見えた。ちらりと見る。名札には顔写真が入っていたが、今の女性の顔とは似ても似つかない。写真は満面の笑顔で、実物は今にもスクリーンに歩み寄って破り捨てるんじゃないかと思うぐらいの不機嫌な顔だ。眉間の皺は海溝の様に深い。


 オレは、その女性のことを知っている。名前はマウア。最愛の人だ。しかし、あの心を締め付ける様な切ない気持ちには全くならない。この時のオレ・・・・・にとっては、まだ赤の他人だったのだろう。


 オレは彼女から少し離れた所で立ち止まった。そして待つ。声を掛けるタイミングを待ったのだ。彼女は多分集中している。研究者なのだから、あのスクリーンに投影された内容が分かるのだろう。それを邪魔してはいけない。ちょっと前まで不良だったオレでも、その程度の気遣いはできた。


「邪魔」


 五分ぐらいは経ったか。マウアはじとっとこちらに視線だけを寄越して呟いた。我慢比べはオレの勝ちだ。


「マウアさんだろ。所長が呼んでますよ」

「貴方、誰?」

「オレ? レイリーだけど」

「違う」

「……ああ。今日着任したパイロット候補だよ。通知行ってると思うけど?」


 オレは首から提げた身分証を指で弾く。この施設を保有するデキステルの社員証だ。今日貰ったばかりの新品である。デキステルといえば今や誰でも知っている大企業である。その社員証ともなれば、街中でわざとらしく下げていれば擦れ違う人たちが「おっ」と思うぐらいのものではある。まあそんなことはしないが。真顔で答えれば、有名企業の社員だからとよからぬ因縁をかけられることもあるしな。社員が襲われたという事例は実際あるらしい。


 本当は軍のパイロットに成りたかった。戦争に興味は無いが、戦闘機ほど尖った乗り物はない。とオレは思っていた。あの宙を斬り裂いて跳ぶ姿に惚れ込んだのは、まだ不良をやっていた頃だ。ある意味、更生する切っ掛けの一つということも出来るな。ちゃんと真面目に勉学に励み、士官学校へと行ったりと随分苦労したんだが……まあいい。ここの乗り物も相当尖っているという話だからな。それに期待しよう。


「そ」


 しかしマウアは興味を引かれなかった様だ。オレの社員証は碌に確認もしなかった。机から下りると背伸びを一つして、机の端に置いてあった紙カップを手にする。多分ホットコーヒーだろうが、もう湯気は立っていない。ゆっくりとオレの脇を擦り抜ける様に歩いていく。擦れ違う時、ラベンダーの香りがした。口紅もつけない様な女だったが、香水ぐらいはつけるものなのか。それともシャンプーの香りか? ちょっと意外だった。


「貴方」


 部屋を出る直前、マウアが話しかけてきた。コーヒーを一口含み、視線をスクリーンに向ける。オレも釣られる。


「何て書いてあるか、分かる?」

「ナスカの地上絵より複雑なのは分かるぜ」

「あら意外」


 マウアが少し目を丸くする。多分馬鹿にされた。気がついたオレが唸るより前に、彼女はドアの向こう側へと消えた。


「なんだあの女」


 ここの研修員ということは相当頭は良いんだろう。でもパイロットも頭が良くなくては出来ない職業である。それで随分苦労した。オレは改めてスクリーンの前に立ち、図形や数式を見つめる。


「うむ」


 分からん。見たことも無い数式と図形で溢れている。量子方程式……いや違うか。読めるのは「シニステル」というタイトルだけだった。ナスカの地上絵に例えたのは、我ながらいい着想だと思うんだがな……。


 オレはそのまま研究室を出て行こうとしたが、やはり気になった。一つため息をつく。自分がスイッチを切る義理はないんだがな。投影機と照明の電気を落としてから、オレは研究室を後にした。







 ——これが、マウアとの初めての出会いだった。



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