【三】登校日とラベンダーの香り

 夏は相変わらず続いている。まだ八時だというのに、真昼の様な白い光がじりじりと降り注いでくる。敷き直したばかりのアスファルトがまた暑さを助長する。陽炎と共にゴムっぽい匂いが鼻腔を突く。正に夏という感想以外出てこない。そんな朝だった。


「あちーっ」

 新宮しんぐうトウマは思わず呟いた。聞く者はいないというのに不平が口から出る。短く刈り込んだ髪——所謂いわゆるスポーツ刈り——の下から汗が染み出し、顎を伝う。耳の上辺りが赤毛になっているが、今それに注目する人はいない。閑静であった。


 周りは住宅地である。緩やかにカーブした道路が延びていく。車線は分かれていないが、道路の幅は二車線分ぐらいはある。両側に付帯した歩道も広く、更にそこから住宅の庭へと続いていく。塀は無いか、低いものに統一されている。その開放感がここが高級住宅街であることと、ちょっとだけ暑さを和らげてくれる。


 そんな暑さを潜り抜け、トウマは目的地に辿り着いた。住宅街に連なる住宅の一棟。庭の芝生と、青い高級車が眩しい。ポスト兼表札には「佐倉さくら」とある。その横を通り過ぎ、玄関前に上がって呼鈴を鳴らす。


「あ、トウマ」


 しばらくしてドアが開く。冷えた空気と微かなラベンダーの香りが全身に吹き付ける。涼しい。とても涼しい。そして香りがトウマの心拍を少し上げる。


 ドアを開けたのは、黒髪の少女だった。腰まである長い髪を後ろで結い上げていて、白いうなじが見える。思わずトウマの視線が注がれる。室内は冷房が効いているので汗は掻いていない。でも艶やかな肌だった。生え際の根本が少し茶色い。


 そんなトウマの視線に気がついているのかいないのか。黒髪の少女——佐倉さくらヒメは焦茶色のローファーを履こうと四苦八苦している。白い制服のスカートの裾が揺れる。


「本当に来たんだ」

「そりゃ来るだろう」

「別にそんな心配しなくてもいいのに」

「そうはいってもなー」


 今日は八月一日。高校の登校日だった。トウマがヒメの家にまで来たのには訳がある。一昨日のことだが、ヒメが路上で襲われたのだ。詳細は不明。本人も背後から襲われて気を失ったので、犯人の顔は見ていない。近くの防犯カメラにはヒメを襲う二人組の姿が映っていた。


 幸い怪我一つなく、近くの公園で倒れていたところをとある大学生によって発見・確保されたが、正直物騒という感想だけでは済まない話である。


「でもこうやって迎えに来てくれるのは嬉しいかな?」


 とんとんと爪先で音を鳴らし、ヒメはふわりと微笑んだ。トウマは微妙に視線をずらし、「お、おう」とだけ応じる。


 そんな事件があったので、今日の登下校には幼馴染みでもあるトウマが付き添うことになった。お互いの親同士も仲が良い。トウマの父親は事件の話を聞くと「もちろん、お前が守ってやるんだよな?」と凄みを効かせてトウマに命じた。何の異存もないが、トウマもそう頭ごなしに言われると反発するお年頃である。一悶着あった末、トウマが敗北する形で付き添いの件は決着した。


「気をつけて行ってきなさいね」

「大丈夫大丈夫。それじゃ行ってきます」


 少し不安げな表情をしたヒメの両親に見送られながら、二人は外へ出た。ああ、さらばよ冷気。たったたとヒメが小走りに歩道まで駆けていく。トウマが歩いて追いつくのを待って、二人は並んで高校へと向かって歩き始めた。


「ホントに怪我とかないのか?」

「うん。別にー。たんこぶも出来てないし」


 ヒメは両腕の肘を確認する。擦り剥いた後も無い、白く綺麗な肘だ。そして頭も撫でるが、何ともない様だ。ちょっと確かめようとトウマは手を伸ばしかけ、さすがに躊躇って引っ込めた。


 一体、何なんだろうな? トウマは首を傾げる。まだ犯人は捕まっていない。ただ襲われただけでは無く、路上から公園までそれなりの距離を運ばれたというのに目撃証言や物証が少なく、捜査は難航しているらしい。


 身代金目的? しかしヒメの家はそれなりに裕福といえるが、人質に取るほど金持ちかと言われると疑問が残る。となれば変質者の仕業か。一番考えたくない理由だ。車道をゆっくりとパトカーが走っていく。事件以降、警察もパトロールを強化している。一刻も早く犯人が捕まることを祈ろう。


 ふわりと。ラベンダーの香りがトウマの鼻腔をくすぐった。すぐ隣からだ。慌てて振り向くと、ヒメがこちらを見上げている。その距離は、気がつけば肘がぶつかる程度には近くなっている。


「どうしたの?」

「いや、なんでもない」


 トウマは少し顔を赤らめて、視線を上の方へ逸らした。良い匂いだね、と言い掛けたがちょっと変態チックかなと思って引っ込めた。ヒメと距離が近くなると、いつもラベンダーの香りがする。以前、遠回しに聞いてみたが、シャンプーや香水とかではないらしい。そんな、香水も無しに常に良い香りがする女子などいるわけが無い。その程度にはトウマは擦れていたが、だがこうも思うのだ。夢ならずっと夢を見せていて欲しいとも。


 結局ドギマギしている時点で、いいようにはされているのだ。その香りには抗えない。トウマは微妙にヒメとの距離を詰めながら、高校へと向かう道を歩いていくのだった。


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