六 ふたたび、人恋茶屋


 黒ぶち眼鏡の奥の善良そうな小さな目を精一杯丸くしているテラを見とめた時には、すでに夢邪鬼の姿はなく――さらに、目の前にあったワープロも消えていた。

 その代わり、これまで花の活けられているのを見たことのなかった一輪挿しに――硬いつぼみを付けた、薔薇と思しき花が一輪。棘の少ない種類のようだが、つぼみのあんばいからすると、おそらく薔薇だろう。花に詳しくないとはいえ、そのくらい特徴的であれば、さすがに区別はできる。つぼみが、まだあまりに固そうであるために、花の色の方はうかがい知ることはできないでいるけれども。

「ルナ、お茶をお願いできますか?」

 目のあったテラは、ぱちぱち…二度ほど瞬きをして絵に描いたようだった驚きの表情を和らげると――こちらからは死角になる、レジカウンターあたりにいるのだろう助手の少年を振り返って告げる。

 それから、手を洗ってきますね……彼自身も一度、店の反対側へと消え――間もなく、厨房に続く扉の方から、掃除のために折り上げていた白衣の袖を戻しながら帰ってきた。

「また、誰かに手伝っていただいたように感じますが――夢邪鬼ですか?」

 先ほどまで、その夢邪鬼の陣取っていた椅子に腰を下ろしながら、ほんのりと肩を竦めやりつつ苦笑する。その仕草に非難がましさを覚えないのは、適材適所を考えていたからだろうが――それでも、いくらか困惑気に眉尻が下がっているのは、また別の感情によるらしい。

「あの方にもご心配いただいているのだとは思うのですが……お礼を言わせてももらえません。やはり、嫌われていますか? わたし」

「嫌いなわけじゃないと思うけど……?」

 夢邪鬼は、テラの祖父をたいそう気に入っていた――ゆえに、マースィ亡き後、彼の面影を受け継いだいかにも人の好さそうな青年を前にするには、思うところが多いのだろう。

「あなたが、それをおっしゃいますか……」

「ごめん。でも、そのあたりはもう――意図的に決めたところじゃない」

 いつの間にか、そういうものだと定まっていて、ある時、そうだったのか……気付くのだから。

 テラのため息に謝罪を返したタイミングで――かちゃ…決して不快ではない磁器同士の微かに触れ合う音がして、ふわり…もうすっかり馴染んだ紅茶の香りが漂った。

「ありがとう、ルナ」

 テラの声と共に視線で礼を示すと――ほんの数秒、同じく視線を合わせることで応えてから身を翻したルナは、壁際のチェストの前の木製のスツールに静かに座を構える。その姿を確認して、さて…とばかり――テラもひとつ居住まいを正した。

「わたしは、あなたに何を問いましょう?」



 きっかけと恨み言は、夢邪鬼のバクに食べさせた。

 それで綺麗さっぱりと気持ちの浄化されるものでもないが、少なくとも――胸の内で目をふさぎ耳をふさぎ思い煩うことさえ停滞させていた不定形な靄は姿を与えられて払い除けられ、燻ぶり続けていた火種をようようにそれと認めるまでにたどり着いた。

 それだけの余裕をもらった。

「つまり、おみいさんが書けなくなった理由は――さらに、その奥にあったのですね?」

「奥というより……裏、かな?」

 そこに気付かないふりをしたまま、これまでの様に書けるのではと試してはみたもの――結局、手を留めさせられた。

「自分が思う…ってことは――他人も同じように思う…ってことじゃない?」


 こんな風に書いているけれど、このひとも……。


「そう、思われる…ってことじゃない? そのうえ――」

 そも自分は、偉そうに美しい言葉で他人様にお見せできるほど――清く正しくなどあり得ない。恨むし妬むし僻むし――誰にでも優しいわけでもない。優しいいいひとだと思われたくて、中途半端に共感してみせることの方が、むしろ多いだろう。

「見透かされてるようなもんじゃない」

 それは、もちろん――誇大妄想、自意識過剰……理性的にはわかってる。

 わかっていると、また斜に構えて知った風を装う。

「カマかけられたら、絶対に狼狽えて――みっともなく最悪の状態で露見するに決まってる」


 上辺だけの言葉で聖人を気取って他者を傷つけるような存在にはなりたくないし、自分が張りぼてだと気づかないまま悦に入る愚か者にもなりたくない。

 けれど、自分はやっぱり……。


「そこで堂々巡り……でも、開き直っちゃったら、なりたくなかったモノになっちゃうじゃない」

 そこで、肩を竦めて苦笑できるようになったのは――夢邪鬼に愚痴を聞いてもらったからばかりではなく、書きたいという気持ちを思い出させ、その願いに従いたいと思えるくらいまで、気にかけてくれながら時間をくれた、この世界のおかげだろう。

「開き直りたくない。でも、書きたいよ――そういう自分でいたいと思う……」

 けれど今、自分で言葉にできたのはそこまでで……。


 吐息が、ため息にならぬよう――ふんわり…暖かな湯気とともに高く香りのたちのぼる紅茶を一口。懐かしい味と言ってしまえば、月並みに過ぎようが――ほっ…と咽喉の奥から呼吸を温めるそれに、そのとき不意に――ほのかな切なさに似た感情を呼び起こされた。

 そうだった……。

 この紅茶の味は、恋うものを思い出させる――。


 気付けば、テーブルの一輪挿しに活けられたつぼみは、やわらかそうな花びらを覗かせ始めていた。

 何色と表現するのがふさわしいだろう?――生成りよりは濃く、ベージュよりは淡く、クリームほどの黄味はない。

 振り返ってみれば、こちらへ来てから――ずっと、手に取っていなかった。

 それは、少しだけ時間に焼けた文庫本のページの色。

 思い浮かべる速度に呼応するように、早送りにほどけ開く――薔薇。

「あぁ、わたしたちも……うっかり忘れてしまっていたようですね」

 テラの声に振り向き、視線を戻す間に――しかし、その花は姿を消していて。

 代わりに、再び空になった白い一輪挿しの脇に現れたのは、一冊の文庫本。

 カバーはなく、表紙にシンプルな飾り枠だけが印刷された――タイトルも著者名もない、けれど、小口に日焼けの気配が漂い、指の痕跡さえある……たいそう気に入られ、読み込まれたと思しき一冊。

「わたしたちは、おみいさんに書いていただかなくては存在しませんでした。ですので、書いていただくことばかりを考えてしまっていたようです」

 申し訳ありませんでしたね……テラの謝罪は、けれど――本来、おかしなこと。

 彼らの言葉は、自分の心の中にある言葉――見失っていたのは自分だ。

否、見失っていたのではない――目を反らしていた。

たびたび自ら口にしていた癖をして。

「書けなくなっちゃったんじゃなくて……読めなくなっちゃってたんだね」

 文章の後ろに、物語でない何かを見てしまおうとしていたから――。

「おみいさんは、おみいさん自身の最初の読者でもありますからね」

 テラの手に取る――テーブルに現れた文庫本は、決して分厚いものではない。けれど――むしろ、それだけに何度も読み返されたのだろう草臥れた風合いには、微笑ましさに似た愛しささえ思い起こさされ。

「おみいさんに問いましょう――」

 文庫本の表紙を一撫でしたテラが顔を上げる。

 レンズ越しの黒い瞳は、笑みに満ちていた。

「読みたい、ですか?」

 一呼吸を挟む――疑問符の付随するそれは、やはり……。

 彼の問うたのは、もちろん可否などではない。

「読むよ――」

 だから、願望でなく――答える。

 願うも何も――逃げ出したのなら裏返し。書く自分を打ち消せないのと同じだけ、読む自分は――自分にとって、当たり前すぎる存在だ。

「きっと、まだしばらくは文章の後ろに誰かを探してしまうのかもしれない。でも、わたしは少なくともひとり、文章の後ろで誠実でありたくてもがいて……それが苦しくてもそういう自分でいたい書き手がいることを知っている」

 だから……と告げやれば、今度こそテラの口元が笑みを刷く。

「わたしのお仕事をまたとられてしまいました」

 ですが、そもそも根はあなたですしね……肩を竦めた店主は、それでもとばかり言葉を継いだ。

「でも――でしたら、もうご存じですよね? あなたの文章はあなた自身でなく、今のあなたが追い求めているものであると……見透かす読み手のいることを」

 それから……付け加えられたそれは――彼の悪戯心だったかもしれないけれど。

「あなたは時どき、自分程度とおっしゃいますが、ならばより多くの読み手がそうであると、信じてごらんになりませんか?」

 辛辣ともとれる指摘は、しかし――その通りだ……胸の内を驚くほど澄み渡らせて。

「きっと、そうだね……」

 素直な気持ちで首肯する。そして、ならばその誰かにいつか読んでもらいたい……欲が顔を出す自覚に、我ながら現金なものだと――気づけば咽喉を震わせていた。

「もう、大丈夫ですね?」

 手にしていた文庫本を傍らに寄ってきたルナに預けて、今一度、居住まいを正す様子には。

「ありがとう」

 カップに残っていた紅茶を一息で飲み干して――感謝の言葉とともに、席を立つ。

「帰るね――」

 そして、やっと――その言葉を口にできた。





 薄暗い店内、古道具の並ぶ棚を眺めやりながら――入口の模様ガラスの入った引き戸までは、ゆっくり歩いても秒針が文字盤を半周するほどもかからない。

「あのね――今になって、わかったことがあるの。きっとあの作家さん、わたしがここに求めたものをあのひとは、作品を通して読者の間に求めようとしてたんじゃないかな」

 自分が家側に求めたものとそのひとが外に求めたもの――それは、どちらが良い悪いというものではなく、ただあの時は誰もに気持ちと時間の余裕がなくて……結果、傷つけあって終わってしまった。

「そういう意味では、わたしは――この場所があって、良かった……」

 本当に良かったと思う。

自分を見つめる場所を持っていて――。

ここを思い出すことができて……。

「今度は、登場人物としてでなく――会えるといいな」

 木枠に刻まれた引手に手をかけて、もう一度だけ振りむいた。

 自分にとって、ひとつの象徴であり――大切な場所。

 そして、大切な者たち。

「そういうことでしたら――また、お会いできる日を楽しみに」

 並んで深々と頭を下げるテラとルナに、自分もまた深く一礼を返して――。

 ふたりが顔を上げる前に、引き戸を開けると。

「またね――」

明るい表へと、踏み出した。



「お元気で、はる……」

 名を呼ぶテラの声を背中に聞いた気がした。



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