五 夢邪鬼
他人のせいにすることは卑怯なことだと、そして思う。
そうして、自分が至らないためだと、自分の中にすべてを呑み込むべきだと思い込む。
自分の欠点を棚上げしておいて、他人を非難する権利などないのだと。
『とはいえ、自分以外の誰もが完璧などとは、ありえないことも理解しているだろう?
君が誰かを許すだけ、君も許されていいんだよ……』
物語を紡ぎ出したいと思うようになったのは、いつだっただろう?
書き残したいと――文章を綴りたいと思うようになったのは。
純粋に、書くことが楽しいと感じるようになったのは。
その手を――止めてしまったのは。
かちゃかちゃ……。
ぽち、ぽちぽちぽち……。
デスクトップ型パソコンのキーボードと似た、深いキー・ストローク。
キーの基本配列は変わらないが、長音記号のキーだけ異なっていたことを――久しぶりに触って思い出した。パソコンのワープロソフトを使用し始めた頃、キーをたたき間違えてはぬぐえない違和感を覚えていたはずだが……今では、すっかり逆転してしまっているのが、なんだか可笑しい。
書こう……思い立って、目的も定まらないままに文章が浮かぶものでもなく、その目的もたちまち思い浮かぶものでもない。
けれど、書きたい気持ちがわき上がることが嬉しくて、保存するでもない思いつくままの言葉を数日、ただ漠然と打ち込み続けた。
それから、目に入る物事を描写しようと思い立ち――店の棚に並ぶ古道具の描写を試みては、来歴に馳せた想像を書き留める。
さらに数日、かつて書いていた物語を思い出して、彼らをまた書いてみようとかと思いながら、そこはそれ――背後の心配をしないですむ個室ならともかく、薄暗いとはいえ表に向けて開かれた店内や奥まっているとはいえこれほど光に満ち溢れたカフェスペースで妄想逞しゅうするのは、さすがに少々どころでなく気が退けた。さらには、悪気なく様子を見にくるテラやお茶のお代わりを持ってきてくれるルナがいるからには――ヒロイック・ファンタジーに分類されるだろう設定とは言え、学生時代の趣味に走りまくって設定したいちゃいちゃしまくるキャラクター達のあれこれを考えるのは気恥ずかしい。
当時のブラウン管型には主流だった黒地に白文字の浮かぶディスプレイを眺めながら、それでもやはり、冒険をするような物語を想像したいと考える。ここではないどこかを求めてさまよう物語ではなく、なにかを救うため守るための旅をする物語――もしくは、どこかに帰り着くための物語を。
なにやら、前向きでいいじゃないかと……自賛する自身を自嘲したくなるのは、そのどちらもがカラ元気にすぎない自覚のほんのりとないでもないから。
つまりは、そのくらいの判断が付く程度には……焦っているのだろう、とも判断する。
次々と入れ子になっていく思考パターン――これも語り部たろうとして自身の中に育てた、ひとつの視線。
思い出せば、それがまた少し嬉しい気もして――だから焦る必要はないのだと……また自分を宥めやる。
「うん……」
手を留めて、自分からお代わりをもらっておいたにもかかわらず、一口も口を付けないまま冷めさせてしまった紅茶をようよう口に運ぶ。
「焦ってるんじゃなくて……韜晦だよね」
書きたい気持ちはとてもある。
書くことは、やっぱりとても楽しい
そこに嘘はないと、自分を信じることはできるけれど……。
書けば、自分も――。
「君は、その問答から距離を置くために、ここに来たのではなかったのかい?」
いたずらに矢印キーを叩くことに時間を費やすようになって三日目――店内を掃除している店主とその助手のたてる軽い物音が、不意に途切れたと感じると同時、背後から覗き込まれるかのように――深く低い、男性の声が降ってきた。
突然かけられた声に驚きはしたが、彼がそこに現れたこと自体には驚きを感じなかった。
振り返れば、クラシカルにミッドナイトブルーの燕尾服を着こなすすらりと背の高い壮年の男性。テラの祖父や不思議やと同世代のはずであるので、本来なら初老を通り越して老齢の姿でもおかしくないはずではあるが、豊かな黒髪を整髪油で丁寧に後ろに流し、さりげなさを装って口髭を整えた、涼やかな切れ長の目をした紳士は、どれだけ年配に見積もっても四十路にかかるか否か程度にしか思えない。
「書こうとすれば、否応なく向き合わされる――わかっていただろうに」
見通しの甘いことだ……自分で椅子を引き出し、斜向かいに腰を下ろした彼は、ついで自らの胸の前に片手の平を寄せると、もそり…ベストの襟元から頭をのぞかせた小さなそれを乗せてテーブルへと降ろしやった。
ふあり…全身淡いピンク色をしたそれは、短い四肢を伸ばしてあくびをひとつ――気持ち鼻先の突出したフォルムは、サイズ的な意味でも体色的な意味でも少々信じ難くはあるものの、ぬいぐるみなどではなく正真正銘の生身のバクである。
そのバクの咽喉を愛しげにくすぐりやりながら、こちらの返事を待つ素振りの彼は、
「お礼を言った方がいいよね? ありがとう」
先ほどまでと同じ場所にいるように思えて――伺いやるいつもの薄暗い店では、テラとルナが棚から棚へうろうろと動き回っている様子が見えるものの、水槽越しに見る景色のように時にぼやけ時に揺れ……さらには、音も届かない――少しだけズレた空間にいるのだろう。夢邪鬼のことなので、夢の中にいるのかもしれないと思えば、もしか実際の自分は、あの古道具屋の真っ白な帰フェスペースで年代物のワープロを前にうつらうつら船をこいでいるのかもしれない。
正直、今の思考をテラたちに漏らしたくはなかった――初心に返らせるべく懐かしいワープロを手に入れてきたテラの心遣いを無駄にするどころか、真逆のものにしてしまいかねない気持ちは、たとえ彼にとってすべてが織り込み済みであったとしても……是とは、したくなかった。
その気持ちを納得しようとすれば、文章を書きたいと思えることを喜んだ自分が辛くなる。
「たぶん、わたしが……呼んだんだよね?」
だからきっと、助けを求めた。
「呼ばれましたね――君に」
やっと、呼ばれました……繰り返す笑みが皮肉に満ちて思われるのは――気のせいではないだろう。
「だって、わたしの中では、あなたはこの世界のジョーカーだ。出し惜しみくらいする……」
唇を尖らせて見せるのは、大人げない強がりであり……甘えだとわかってはいるが。
「もったいぶってくださるわりに、報われているように思いませんがね」
まぁ、いいです……テーブルに両肘を預け、組んだ長い指の背に顎を乗せて、夢邪鬼は芝居がかったため息を吐く。
「もしも、テラでなくマースィだったら……君が、
それは、その通りだと……正直に、思う。
夢邪鬼には、それは貧乏くじであるかもしれないけれど――彼らほど、この男のことを善良な存在とは認識していない。言動は姿どおりに紳士ではあれど、俗を知る目を持つ存在として――俗は俗たればこそと言える存在として、この世界でおそらく最も自由な存在。
「ものすごく不毛な、ひとり遊びにも思うけどね――」
「なにを今さら」
この期に及んで自嘲気味の苦笑は、尻込みだと切って捨ててのけられる。
「言葉にすること、文字にすることの
言葉にすれば姿が現れ、文字にすれば固定されてしまう――だからこその足踏みなのだが……思いはすれど。
言葉にして――形を与えて吐き出させることで、心を覆い隠すモノ、心に蓋をするモノを取り除いていく……それが、テラの流儀。そして、彼は――そうして現れた心に語りかけ、問いかける。
言葉にすることが、救いになることはあるのだけれども――。
言葉にすれば確定してしまう。
さらに、文字にすれば残ってしまう。
「それを知ってなお、君は臨んだ――そして、私を呼んだ」
一度、正面から合った視線を姿勢を変える仕草で故意にそらして――夢邪鬼は微笑む。
「私は、君を導くものではない――君に、何も与えない」
だから、安心しなさい……ささやく夢邪鬼の手元で、くあり…小さなバクが、またひとつあくびをした。
好きな作品があったんです。
困難の中も共に生きよう――手を取り合って、お互いを認め合って。
仲間であることを喜び、共存共栄を唱え続ける――。
弱いものを守り、力で捻じ伏せようとするものに抗う。
よくある物語と言えば、どれもそう――。
でも、大切な心の導だった。
好きな作家がいたんです。
物語の訴えそのままに、友を愛し――思いやりを呼びかけるひとだった。
読者にとって、導き手だった。
「それはもちろん人間だもの……誰だって、失敗はあるでしょうよ。考え方や気持ちが、擦れ違うこともあるでしょうよ」
もちろん、作家に対して――聖人君子であることを求めていたつもりもなかった。
それでも……。
ある時、見てしまった。
作品を愛する仲間たちに向かい、寛容を謳いながら――同じく作品を愛するひとを一度の過ちをまたは疑問を抱き異なる意見を示したことを故として、咎人として訴えるに等しい姿を……。
「その作家は――その時、追い詰められていたのかもしれない。苦しんでいたのかもしれない」
けれどもその日、それは――自分を末席に含む仲間を指し示した。
そうして、なお――物語で、団結を尊び和を乱すモノを断ずる。
「その時――終わった……って思った。お前たちなんていらない。消えてなくなれ……って、言われたんだって」
呆然としたのち、仲間たちは――作中で討伐された悪を自分達と重ね合わせた。
つまり、その作家の描いていた理想とは――と。
「思ったら、それからどんな物語を読んでも、つまらなくなった」
心が、冷めた。
なにを読んでも上っ面だけの綺麗ごとが書かれているのだとしか思えなくなった。
退けられる側、滅ぼされる側、回心を迫られる側――どうせ、些細な理由で、自分もそちら側に置かれるのだろうと……思われて仕方なくなった。
そして――。
「書けなくなった――」
誰かに言われてしまうと思っていた言葉は、結局――自分で声にしていた。
「他人のせいになんか、したくないんだけど……」
そして、落とす溜め息。
気付けば、テーブルの上のピンク色のバクは四肢をたたんで眠っている。
「君は、いい子でい過ぎようとし過ぎだね――相変わらず」
安心しろ……と言った男は、しかしながら、とぎれとぎれにようやく紡いだ告白を――ことあろう、鼻で笑い飛ばしてのけた。
「そんな優等生な言い分は、やはり――テラに語るべきですね」
いや、確かに――何も与えてくれはしない……正しい。
「私には、君がなぜそこまで他人のせいにしたくないのかが――わからないね」
それから、またひときわ大袈裟に肩を竦めて見せると、ふるふる…同時にさも悩まし気に首を振る。
「君は悪者にされ、傷ついた――そういうことではないのかい?」
問われれば、そうなのだろうという自覚はある――けれど、それで良しとできないのには……。
「君は、あれこれ理由を付けて他人を許そうとする――ならば、それと同じだけ、君は他人のせいにすることを許されてもいいはずだと私は思う。しかしながら、君はそれを拒む……」
覗き込むように視線を合わせて言葉を切る――彼の手元で、目を覚ましたのだろう小さなバクもまた顔を上げた。
「言葉にしてしまうといい――それが、君を答えに導く」
くぉあ…ピンクのバクは、前肢後肢と順に伸ばすと――幾度目かの伸びをした。
すんすん…鼻をひくつかせ、あむあむ…二度三度と小さな口をもごつかせる。
それから、それだけは真っ黒い――ビーズのような瞳で見つめてよこす。
つられるように――言葉はこぼれた。
「同じになりたくないから――」
自分に負い目を押し付けた存在と同じものになりたくないから――だから、その存在のせいにしたくない。
一息に吐き切る――。
バクが、身体を精一杯伸び上がらせて――口を大きく開いた。
あぁんむ…あくびとは違う愛らしい声をもらして、中空を食む。
「ごちそうさま」
夢邪鬼の声と――ふぅ…満足げなバクの吐息。
ほんの少し、なにかが軽くなったような気がした。
「あとは、テラに聞いてもらいなさい」
席を立つ夢邪鬼の声の終わらぬうちに――ことこと…店先の音が、戻ってきた。
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