四 風の吟遊詩人
「では、よろしくお願いします。二時間ほどで戻りますので……」
「わかった。いってらっしゃい」
滞在が長引くにつれ、人恋茶屋の店番を頼まれる機会は増えた。とはいえ、この店は元々――訪れる者が限定されている。さらに、実際の世界との時間が――大きくずれるわけではないとはいえ、必ずしも一致するものではないようで……つまりは、店を訪れる必要のある者は、必ず店主のいる時間にしか現れない。さらには、彼らの方も虫の知らせ程度になんらかの予兆を覚えるものらしいとなれば――留守番など必要ないにもかかわらず。
要は、やはり……心配をかけているのだろう。
それから、誰か彼かに気かけていてもらいたい性分を――もちろん、知られてもいるのだ。
それは、傍から見れば、ひとり遊びに過ぎないのかもしれないけれど……。
季節がら、店の入り口のガラス引き戸は開けたまま――両壁と中央に設えられた天井まで届く棚のせいで薄暗い印象を持つもの、表の陽光で充分とは言えなくともそれなりに把握できる程度の小さな店内を見渡す。
古道具屋ではあるが、アンティークと呼べるほど小洒落た品物を扱ってはいない。中には、よほどの匠が手をかけたのだろうことの伺える質と品を兼ね備えた小箱や、かなり熱心に作り込まれた優美な装飾の施されたガラス瓶なども見受けられはするが、どれもいくらかのくすみを纏ってニスのまばらになった棚板に並んでいる。ありがたいことに、店主とその助手がそろってそこそこ綺麗好きであるおかげで、埃をかぶっていたりなどはしないけれど。
そして、入り口から眺める陰気な店の左奥――そこだけ、光がもれだすように白く明るい。白く塗られた三方の壁と白いレースのカーテンの降りた擦りガラスの窓、それから天井にも外光を取り込む大きな嵌め殺しの窓が備えられ、中央より少し窓寄りに洋風庭園のガゼボにでも置いてありそうな白い丸テーブル、その上にやはり白いレースのテーブルクロスと花の活けられているところをとんと見た覚えのない、小花の描かれた白い一輪挿し。今風に呼べば、カフェスペース――古道具を商うはずのこの店が、「茶屋」と号するのは、この空間の存在のために他ならない。
対する右奥は、厨房があるらしい……とは、知っている。二階にあがる狭い階段もあるはずで――そして、二階は店主と同居している助手の住居のはずだ。
家主のいない家屋で勝手に火を使うことは憚られる旨、よくよく申し立てておいたので、白い空間と厨房との境の扉脇の白いチェストに、キルトのカバーの被せられたティーポットと今はまだ氷で満たされたボトルクーラーに沈められたガラス製のドリンクポット。隣の丸盆に整えられていたのは、花びらのような縁の白いティーカップのペアとシュガーポット、シンプルな八角柱のペアグラスと透明なシロップの小振りなピッチャー。ティーカップのひとつは、既にありがたく使用中ではあるけれど。
先日、香花が七夕用の笹竹を配達に来た以外、留守番中に客を迎えたことはないので、器の類は習慣的にペアで用意されているにすぎないと思われるものの……実際のところは、さてわからない。
「お留守番?」
とん…足音と呼ぶには随分と軽やかな気配とともに、例えるならば――子猫の咽喉をくすぐるような声がした。
「お久しゅう」
顔を上げれば、薄暗い古道具の並ぶ空間を背景に、目を細めて小首を傾ぐ麗人。
ギリシャ神話の挿絵で見るような膝丈のキトンと編み上げのサンダル、癖のない亜麻色の髪を肩のあたりで切りそろえた姿は、背後の空間とは当然ミスマッチに思われたが――白い空間に一歩踏み入れられれば、奇妙に調和して感じられた。
心持ち愉快気な表情をたたえた
とはいえ、その目元口元に――この店の助手の少年の面影を垣間見せる麗しの君は、実を明かすまでもなく……そのルナの実の兄である。
「ご苦労様だね。僕にもお茶をいただいていいかな? ポットの中身、淹れてくれたのはルナだろう?」
大股にテーブルに歩み寄り、衣の裾を揺らして傍らの椅子に優雅に腰掛ける。
「おつかいのお駄賃として、テラにもそういう約束だから」
ひとまず、温かい方でいいかとポットのカバーを外していると――続けられたのは、少々聞き捨てならない響きを孕んで聞こえる言葉。
「おつかい?」
「そう。探し物を見つけ出してあげたんだ」
つい鸚鵡返せば、ふふふ…得意げな笑みと共にひらひらと片手のひらを翻してみせやって。
「テラが帰ってくれば、わかるよ――」
曰く、今日の彼らは、その受け取りに出かけたのであるらしい。
「まったく、僕の仕事じゃない。でも、さすがに手伝わないわけにもいかないよね」
「
繰り返される、ひどく気を持たせる言い回しに、ついに名を呼び掛けやれば――顔を上げた拍子に、まともに視線がかち合った。つられたかのようにタイミングよく噤まれた彼の口元はしかし、たいそう満足げな笑みを刷いていて。
「みいさん――」
そして、お返しとばかりに呼ばわれる。普段は甘い、彼の声のトーンがわずか落ちる。
「はい……」
これは言われるのだと――身構えた。さすがにそろそろ、誰かに言葉にされるだろう……思い始めてはいたので、少しばかり諦めにも似た思いでもって。
けれど、風琴は腰を下ろした時と同じくらい軽やかな仕草で席を立つと、ふわりふわり…リズムを踏むような足取りで薄暗い店内へと引き返した。
ふらりふらり…左右を見比べた後、壁際の天井まで届く大棚を上からゆっくりと視線で薙ぐ。
やがて、目的のものを見つけたのだろう――両掌で抱えるように持ち上げて、またテーブルの元へと戻ってくる。
手にしていたのは、全体的に渋くくすんではいるものの完成したばかりの頃にはきっときらきらと煌めていていただろう蔓のような細かな金の装飾の施された――宝石箱か、オルゴールのような……ともかく、大事なものをしまっておく入れ物然とした形をしていた。加えて、手のひらに挟まれたそれの真ん中に縦に一筋――ちょうど半分に割れてしまえそうな溝の見て取れる様子も、伝統工芸品などにある、蓋の深い入れ物を思い起こさせた。もっとも、入れ物と理解するには、指の長い手に支えられたそれが、横倒しにされたままでいるのが引っ掛かるところではあるけれど。
「僕は、吟遊詩人だなんて呼ばれているけど――吟遊詩人だから歌を歌っているつもりはないよ」
ひとり言めいてつぶやきながら、手にした箱を膝に置く――ぱちん…ごく乾いた音がして、箱のようなものは中央の溝をベルトで固定されていたのだと気づかされた。
なるほど――これまで生演奏を聴いたことはないが、知識としては持っていて博物館でなら見たことがあったそれと、大きさも形も違っているのですぐには結びつかなかったけれども……コンサーティーナと呼ばれる、小型の手風琴であるらしい。筐体部分が、一般的に知られる六角形や八角形とは異なりシンプルに四角く、またさらに、男性の風琴の手の平ですっかり鍵盤面を覆えてしまえるほどに小さく作られてはいるけれども。
また、サイズ的に出せる音階も少ないのだろう――指で順繰りに試された音は一通りの全音階とシのフラット程度にとどまるようだった。
「歌いたいから、歌う――とてもシンプルに……それだけだよ。だから、歌いたくない時は歌わないし……歌いたくないものを歌ったりもしない」
知っているような初めて耳にするような――高く低く、長く短く……波の揺れるように開閉される蛇腹に震わされて、美しき歌い手の声を載せて流れ出る旋律。
「でもね――時には、僕だって、まぁいいか…って、歌っとくこともあるよ」
くすくす…歌う隙間に、おどけた自嘲をこぼしたりもしてのけながら。
「だって」
だので、続く接続詞にもすっかり気を緩めてしまっていた。
「結局、僕は歌いたいんだから――」
軽快に歌い上げられたその言葉は、裏腹の質をもって胸の中に落ちてきた。
「僕は、みいさんを信じているよ――だから、言うね」
全音符分の長さ和音を奏でておいて――コンサーティーナの音が途切れる。
冷たい水を両手にすくい上げるような声で、風琴は問いを奏でた。
「書きたいんじゃないの?」
それは、先ほど予想していた言葉とは、思いがけず――違えていて。
返す言葉に詰まるのは、肯定も否定も……迷うつもりはなかったのだが、ただとっさに言葉の出てこなかったため。
相変わらずアドリブが効かない……自身を改めて思い知らされているうちに、再び風琴は店に何をか見とめたらしい――内側に向いていた視線の端で、薄色の髪の裾が弧を描く。
「おかえり。お邪魔しているよ」
つられて視線を送ると、明るいこちらから見ると一段と暗い店内を抜けて――猫背気味の長身と小柄な、ふたつのシルエット。
段ボール箱を抱えて困惑の表情を浮かべた青年と、人形のように無言で小首を傾ぐ少年――店主テラと助手ルナの帰店だった。
「わたしの仕事でしたのに……」
改めてルナが、程よく冷えたままのアイスティーを注ぎ分け――テラの携えて戻ってきた箱の鎮座するテーブルを囲む。
珍しく控えめな恨み言を発する店主に、風琴は芝居じみた挙動で肩を竦めて見せやった。
「僕にだって、権利はあるさ。無関係ではないのだから。それに、あなたの仕事は残っているし――みいさんの返事は、まだ聞いていないよ」
流れるように水を向けられ、一瞬たじろぐも――双方をしばし交互に見比べたテラは何度目か、ついに視線が重なると、瞳とまぶたの表情だけで頷いてのけてから、ふるり…おもむろに小さく首を振る。
「答えは、わかっておられるようですので――先に、こちらを見ていただく方が、わたしの流儀かもしれません」
そして、グラスを脇に避けて腰を上げると、テーブルの上――よく見れば、蓋に相当する部分の合わせ目だけを簡単にガムテープの切れ端で押さえただけの段ボールへと身を乗り出す。一度、既に開けられていたと思われる封は、蓋を開ける動作の妨げにはならず――両手を差し込み、中にある……少々サイズと質量のあると思しきそれを取り出そうとしているさまを見て取って、すかさずルナが反対側から箱の方を引き抜いた。
「わ……」
覚えずもれた声に、感嘆符は着かなかった。感動というよりも――純粋に単純に、それを同定したことによる反射によるものであったので。
ここが古道具屋であり、またそういう店主であることは誰より承知しているつもりでいたはずであるのだが――。
「これはまた……」
懐かしいものを……までは、呑み込んだ。
当時の机上設置の電子機器にありがちなクリーム色のボディは、経年により少々緑がかってしまっているものの一般的な使用により予想される汚れは綺麗に拭きとられ、大きな傷も見あたらなかった。小型のブラウン管テレビのような本体正面に、跳ね上げ式の蓋のようにとりつき裏面を見せているのはキーボード。本体の上にある透明プラスチックは、プリンターの用紙トレイを兼ねたカバー。さらに右側面には、紙送りのためのダイヤルが飛び出している。添えられた二枚のフロッピーディスクのうち一枚は、常に必須の起動用ディスク――破損にそなえて事前にコピーして使用していたのも今はすっかり昔。
手書き文字にコンプレックスのあれば、家族の職業柄、早くから身近にあった文明の利器は、悪筆による気後れを払拭するのみならず――独学でタッチタイピングに慣れるころには、さらに現在の執筆スタイルを後押ししさえした。
「おみいさん、キーボードをたたきながらでないと書けない方ですので……」
それを『書く』と言い表す行為も昨今では市民権を得たであろうか。
「風琴が、見つけてくれまして――今日、引き取ってきました」
吟遊詩人と称される制約のない彼の行動圏と先ほどの口ぶりから、なにをかの捜索に手を貸したのだろうとは予想されたこととはいえ、こんな古いワードプロセッサを拾い上げてくるとまでは――忘れてしまっていてもおかしくないほど昔のことであれば……どこかで憶えていたのだろうけれど、目の前に存在しようものとして思い浮かんではいなかった。
「あぁ、でも……」
しまったと思ったのは、うっかり思い浮かんだ逆接の接続詞を口にしてしまってからだった。
しばし迷いはしたけれど……黒縁眼鏡越しのテラの視線に促されて、そのまま続けるのはこの世界の理ごと。
「たぶん、これ……ここじゃないと、使えないのでは?」
店の外に持ち出しても使えるようにするには条件があり――今は、それを満たしてはいない。そして、おそらく……この機械に限っては、それが整う時には、もう役目を終えているような気のしなくもない。
「そうですね――」
しかしながら、あっさりと肯定を返したテラは、同じくあっさりと提案してのける。
「では、これはここに置いておきますので、おみいさんは好きな時にここにいらしてお使いになる……ということにしては、いかがでしょう?」
「『いかがでしょう?』って言われても……それ以外に、ない気もするけど?」
とはいえ、つまりは――構われたがりのための心遣いなのかもしれない。
それなりの時間は、きっと過ぎた――しかし、いまだ心の整理はおろか受け止めることさえできているとは思えない。それでも。執筆のための準備を何も持たずに逃げ込んだ、あの時の自身に「自分を見くびるものではない」と、自分でも教えてやりたい気持ちは生まれつつあった。
そう――この世界の住人の言葉は、自分の心のうちにある言葉。
この世界の住人の問いかけは、自分自身の心への問いかけ。
「書きたいんじゃないの?」
風琴のそれは、肯定疑問――。
問われるまでもないことだからこそ、テラは懐かしい機械を探してきた。
「どうでも何か書いてみても……いいのかも」
受け止めて納得できるまでそれは無理かと思っていたけれど――順番を入れ替えてもいいのかもしれない。
自分はいつからか、それに支えられていたのだから。
書こう――。
ようやく、心が動いた気がした。
「風琴、ありがとう」
そして、先ほど言いそびれた言葉が――ようやく言えた。
書こう。
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