三 愛の花屋「花々」


「暑い……」

 思わず口にしてから、苦笑が浮かぶのは――ここを訪れた頃は、これから寒くなろうという時期だったことを思い出したから。季節はもう夏、気がつけば――半年になろう時間をここで過ごしてしまっている。――決して夢のように居心地が良いわけではない。テラもルナも長引く滞在を拒みはしないが、本来ここは人間が長居して良い場所ではないことを知っている。――なにより、自分自身が知っている。

 それでも――。

 出ていくだけの踏ん切りがつかない。


 まだ、ここへ来た理由を語れない。

 語りたくない……。

 思い出したくない。

 突き詰めたくない。


「暑い……」

 常に気候の良いこの世界のこと――暑いのはきっと、自分のせいだろう…ため息とともに笑い飛ばしたところで――がたがたと、はめ込まれたガラスを揺らして、留守を頼まれている店の引き戸が開き、ふんわり…緑の香りを纏った風が入り込んできた。



「お届け物ネ。七夕の笹ネ。特別奮発したよし、テラもルナも喜ぶネ」

 店先には軒下いっぱいに緑の香りが満ちていた。否、単純に緑と表現するのは、幾分違うのかもしれない。若さを感じるみずみずしい香りではなく、凛とした緊張感さえ感じさせる――単子葉特有の青い匂い。

 わさわさ…葉擦れの音は、豊かに茂った証明。明るいというよりは濃い緑の――知識がなければ細身の竹と見まごう程の背丈を有した笹を片手に、立っていたのは金糸銀糸の刺繍も華やかな真っ赤なチャイナの上下を纏った小柄な中国娘クーニャン。名を香花シャンファという。中国娘と形容するには、髪の色が黄金に近過ぎているような気もしなくもないが……小柄な身体とかんざしで飾られたお団子頭に目尻のつりあがった猫を思わせる表情は、中国娘と形容するに足ることこの上ない。もう数年育ったなら、道行く男性を振り返らせるに充分だろうが――惜しむらく彼女は、愛の花屋を冠する「花々ファファ」の店主にして、いつまでも看板娘なのである。

「みいさんも、短冊書くよろし。特別の笹ネ。願い届く」

 差し出されるのは、とりどりの色紙の束――形状と彼女の口ぶりからすると、手製の短冊と思われる。サービスするネ――にぃ~っこり…微笑んで見せる表情は、無垢な子猫を思わせた。

「筆もあるネ。今すぐ書くよろし。一番に結わえる願い事、きっときっとかなうネ」

 うん……押し付けるように渡されるそれらを手に、つい戸惑うのは――思い出してしまったせい。


 あなたらしいとは思うけれど――「しあわせ」ってなに?


 二度三度――その言葉を口にした人は、その時々で違っていたけれど……。

「どした?」

 子供を思わせるほどに小柄なせいで、心持見上げることになるのだろう、下から覗き込むような香花の視線は、心配と呼ぶにはいくぶん強すぎる光を放っている気がしなくもない。そう――たぶん、知っているのだろう。

 ――試しているのかもしれない。

「やっかいだね。こんな時――」

 見透かされてる――それが、わかってしまうのも……。

「便利と思う、よろしネ」

 無駄に隠し事なくてすむ、それ、よいことネ……短冊と筆を受け取った手を、包み込んでくれる手は――子供のような体格にそぐって小さい。自ら草木の手入れをしているというのに、白くやわらかな手からは、ほんのりと――植物の持つ生命の香り。安心感を誘う――みずみずしい、緑の香り。

「そっか、香花なら、聞いてもらっていいかな?」



 その時――そう、時間も立場も違ったけれど――その彼女たちは、ただ優しい言葉が欲しかったのかもしれないと思う。

「もしも、ひとつだけ願いが必ずかなうとしたらなにを願うの?」

 なぜだろう?――そんな時、人は同じことを問うものなのだろうか? 彼女らの発した疑問符は、細かなところは異なっても、同じ意味を問うていた。

 ――みんな、倖福しあわせになれるといいね。

 それは、たったひとつ…というには、贅沢な望みかもしれないという自覚は常にあった。漠然としたものである自覚もあった。――それでも、それしか言いようがなかった。

 人のせいにすることを許されるなら――彼女らの言葉はすべて、「しあわせ」になりたいの……そう聞こえていたから――。

 そして、どんなに卑怯に思えるとしても――自分が真実、そう願いたいことに偽りはないのだから……。



「そうするとね、彼女たちは、決まって言い返してくる」


 あなたらしいとは思うけれど――「しあわせ」ってなに?


「そう言われると、どう言えばいいのかがわからない。誰にとって、なにが倖福かなんて、他人が決めていいものじゃないと思うから――だから、あんな漠然とした言葉しか、思いつけなかったんだから――。なにか、優しい言葉を思いつけたならよかったんだろうけど――気休めみたいな言葉は言いたくなかったし、言っても……」

「無駄と思うネ」

 その頃に思った正直な気持ちは、口にするにははばかられたものの――香花は、いともあっさりとそれを取り上げて声にしてのけた。

「彼女ら、きっと言ってたネ? 『あたしは、不幸なの』て――。どうネ?」

 確かに、彼女らはそれぞれ口にしていた。

 ――わたしは、不幸な運命だから……。

 それは、ひどく大袈裟に思えもしたのだが、口にした彼女たちは、本気でそう思っていたのだろう。――その言葉を聞くのが嫌で、せめて――そうやって彼女らが「不幸」だと思うことを話せる相手がいることは、ほんのちょっと「しあわせ」ではないかと……必死で伝えようとした。

「みいさん、必死だったネ? で、『優しくない』言われたネ?」

 結局、言葉も気持ちも伝わらずに――自分のもとから去っていった友人。いや、あまりに「不幸」を口にする最後の子には――たまらず自分からかかわりを絶ったようにさえ思う。

「それが、きっと正しい。中途半端に関わって傷つけるくらいなら、それは優しくなんかないんだと思う」

 えらく納得するネ? それこそ、らしくないネ……思い出し始めた自己嫌悪には、冷笑さえ含まれているように思える香花の疑問符。

「らしい…って、なによ? だいたい、『あなたらしいとは思うけれど』って――それって、侮蔑の言葉と思わない?」

「なら、それ言えばよろしかったネ。不幸をしょってる顔して、オマエがワタシ傷つけた――言えばよろしかった。優しくないのはオマエ――罵ってやったら良かったネ」

 ふん…鼻さえ鳴らして見せる彼女は、それでも――みいさんに、言える思わないけどネ……最後は小さなため息をついてみせる。

「みいさん、今、言ったネ。倖福、他人が決める、おかしい――。みいさん望んだことと、彼女ら望んだことが違ってた――おかしいことないネ。「しあわせ」人に決めてもらおうする彼女ら、「しあわせ」望んでない。小さな「しあわせ」、「不幸」で消せる人、望むは「不幸」ネ。不幸で可哀想――そのままでいたがってるだけネ。だから、それ壊されそうになる――相手が『優しくない』て、怒る」

「でも……」

 それでも――彼女らは、いつまでもそこにいるべきじゃない……。

 口にしようとして、はた…悟る。香花の言葉、それは間違いなく――自分自身が言いたかった言葉、本人たちに言えずに終わった言葉。

「彼女ら、そこにいること彼女らの「しあわせ」ネ。自分、不幸で可哀想――言えなくなったら、彼女ら、他に人に自慢できるものなくなる。自分の価値がなくなる、思ってる。無理やり引きずり出すの――それこそ、余計なお世話ネ」

 こんなときは、本当に厄介だと思う。この世界の住人の発する言葉、それは自分の望みの反映。言えなかった言葉。聞きたくなかった言葉。隠しておきたかった言葉。――そして、それをなお凌駕した上での――望んでいた言葉。そう、ひょっとすると――自分が慰められたいだけではないかとさえ、疑ってしまいそうになる。

 知らずに来れていたなら、よかったのだろうけれど……。

「でも、苦しそうだった――!」

 それでも反論を返したくなるのは、自分の行動を正当化するためではないと思いたい。

「そう、苦しいネ。でも、彼女らには、今はそれが「しあわせ」ネ」

「気がついたとき、自分がどれほど惨めになるか……」

 それは、そのときが遅ければ遅いほど――どれほどの自己嫌悪を感じることか。

「そう…ネ。みいさん、それ知ってるネ?」

 肯定疑問に裏づけされるまでもなく――その時、本当に苦しかったのは自分だったかもしれない。もうずいぶんと先になる――友人を信じられず、自分の「不幸」の殻に閉じこもった。わかってくれる友のいることに気づけず、そのわずかでも理解しようと試みてくれる友のいることを「しあわせ」だと、長い間気づかずにいた。それに気づいたとき、独りよがりで閉じこもっていた自分が、どれほど恥ずかしかっただろう? 自分は、「不幸」を振りかざす自分に酔っていた。誰だって感じる程度の苦しさで――自分を哀れんでいただけだったのかもしれない。どれほど、みっともないと思っただろう? そう、彼女らが苦しそうだと感じる裏には、間違いなく、その姿を見る自分の苦しみが含まれていたと思う。望まない自分の姿を目の当たりにしているようだったから……。

「だから――どうしていいかわからないのに、関わらずにいられなかったネ? それ、みいさんの望みだったネ」

 本当に辛いのは、きっと――彼女らに応えられなかったことではなくて……。



「だから、やっぱり――みいさんは、願うよろし」

 倖福に決まった形がないとしても……。

「出会った人、すべての倖福、願うよろし」

 出会わずにすんでしまうかもしれない人々の倖福さえも、願えるように……。

「もう、願うことしかできないこともあるネ。願うことやめたら、それ――もう、どうにもならない。自分の気持ちさえ、救えない」

 だからせめて――。

「だから、せめてあるだけの優し気持ちで、願うよろし」



 あるだけの優しい気持ちで……。



 恨み言をたたきつけたい人の倖福さえ願えるほどに……。



 優しい気持ちで、願えればいい……。



「そしたら、きっと帰る気になれるネ」



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