人恋茶屋へいらっしゃい
若月 はるか
人恋茶屋へいらっしゃい
二 虹のオルガン
小さな教会に響くオルガンの音。
荘厳なパイプオルガンでも、近代的な電子オルガンでもない――古いけれども、よく手入れの行き届いた足踏みオルガンの音。
奏でるのは、聖夜のための曲。
今夜のために――。
そして――。
ぱんぱんぱん……。
終曲にあわせて、控えめな拍手が響く。
ひやり……。
同時に、足元へと滑り込む冷気は、礼拝堂の扉が開いたせいだろう。
「すみません。邪魔をするつもりはなかったのですが……」
「いえ、かまいません。――マスターが、とっておきの魔法を使って下さったようですね」
視線を上げた先、白衣の上からコートを羽織った長身の肩に薄く積もる雪に気がついて、オルガン越しに窓の外へと視線を移すのは、この小さな教会の主、
「お茶でも入れましょう。キッチンへ行きますか? それとも……」
テラの肩の雪を払いやりながら――言葉を切ったのは、オルガンを見つめるテラの視線に気付いたから。「虹のオルガン」と呼ばれる、その古い足踏みオルガンは、かつてテラの祖父が名付けたオルガン。
「そうですね。――七色がかまわなければ、もう少し……オルガンを聴かせていただけますか?」
「おみいさんが、こちらへいらしてるんですよ。――しばらく滞在されると思いますので、七色にも知らせておこうと思いまして……」
「みいさんが……?」
ぱちくり……。
疑問符とともに、七色は睫毛をしばたいてみせる。さすがに、そうしていると歳相応に見える。
「滞在ということは、もしかすると――と言うことでもあるわけですか?」
「それはないでしょう。おそらく、彼女はわかっているのでしょうから」
小鳥のように小首を傾げて見せる七色には首を振っておいて、テラは渡されたカップに口をつける。良い香りのするお茶は、ハーブのお茶。ほんのり蜂蜜の香りがするのは、甘味として溶かされたためだろう。
「少しだけ、疲れてらっしゃるようでしたから、休んだ方がいいのだろうと思いまして……」
そうですね――頷いて、再び七色はオルガンの前に座る。
「マスターは、長い長い時間を生きて――魔法を使うごとに、少しずつ少しずつ小さくなってゆく。そうしていつか、彼は消えてしまうでしょう。――それでも、彼は、小さな小さな微笑みの為に、またひとつ魔法を使う。そう、今夜も――とっておきの魔法を……」
七色の細い指が鍵盤を押さえる。
オルガンの背に微かに音をこもらせながら、部屋に響くいくつかの基本の和音。
「悲しみから生まれるものは必ずしも悲しみではなくて……」
歌うように七色の唇をつく、つぶやき。
「悲しんだぶんだけ――優しくなろうとする……」
そうですね――先ほどの七色の言葉をつぶやいたのは、テラだった。
忘れてはいけないこと……。
自分の生まれた場所――。
「マスターを、あなたを、それから、僕を――僕たちの心を生み出した人を、信じましょう」
不意に手を止めて――振り返った七色は、歳相応の悪戯じみた笑みを浮かべて見せる。
「テラ、歌いませんか?」
「上手くありませんよ……」
「知ってますけれど――あなたは、声が素敵ですから」
あからさまな誉め言葉に、苦笑して辞退するテラに、返されるのはやっぱり笑み。
「では、先悦ながら、僕が歌わせていただきましょう」
「やはり、テラは僕以上の心配性ですね」
それはオルガンの音に紛れてしまって、テラの耳には届かなかったかもしれない。歌の途切れめに、微かな微かな囁きに似たひとりごと。
「でもきっと、大丈夫。僕たちが、生み出されたのだから――」
小さな教会から響くオルガンの音。
荘厳なパイプオルガンでも近代的な電子オルガンでもない――古いけれども、よく手入れの行き届いた足踏みオルガンの音。
奏でられるのは、聖夜のための曲。
朗々と響くのは、祈りの歌。
今夜のために――。
そして、人々の倖せのために――。
優しくなろうとしているあの人のために……。
それは――彼の使える小さな魔法……。
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