第2話千反田大治。1989・その1

 ちゅんちゅんちゅんと朝を告げる雀の鳴く声がする。

 ふうっ、と手の甲で眼をこすって少し開けてみると、カーテンの隙間から木漏れ日が覗き出し、彼の顔を照らしていた。

「だいじ、起きなさい! もう朝よ」

 今度は聞き覚えのない声がする。

 だが、『だいじ』と呼ばれているなら、自分は自分であろう。

 それに応じて背伸びをして、ベッドから身を起こす。


「だいじ。あれ、ちゃんと自分で起きてるじゃない。すごいすごい!」

 ガチャッとドアを開けて妙齢の女性が部屋に入ってきた。

 見たことがない人だが、こんな知り合いはいただろうか。


「だれだ?」

 真顔で言った。


「なに言ってんの? 母さんの顔を忘れるなんて頭でも打ったの?」

 母さん? 何を言ってるんだ、この女は。

「学校に遅れるわよ。早く下に降りてきて朝食を摂りなさい」

 そういうと、カーテンを全開にしてから部屋を出て、トントンと階段を降りて行った。


 大治は周りを見渡す。

 記憶にない、見覚えのない子供部屋だった。

 勉強机の上にランドセルやら、リコーダーやら、教科書が溢れている。

 混乱が開始されたが、頭がズキッとするので一瞬で収まる。

 思わず手を顔に当てるが、その手がまるで子供のようである。


「なんだこれ」


 身体全体をペタペタと触る。何もかもが小さい。髭の剃り跡もない。

 付いているものは付いている。だが、ブラジリアンワックスで除去していたソレは生えている形跡もない。

 最後の記憶は世界最優秀選手賞の授賞式。

 だが、今はそのなりは子供と化しているようであった。

 これも『ドーハの悲劇』の不運なのだろうか。

 またもや、あごに手を当てて少し考えてみる。


 考えがまとまらない。

 新居に連れられてきた仔猫のように、ソロリソロリと部屋を物色しながら出ていき、自身も階段を降りて食卓と思える場所へとたどり着く。


「だいじ、おはよう」

 眼鏡をかけた人物が声をかけてきた。

 おそらく、この少年・・・・の父親なのであろう。

 食卓を前に新聞を手に持ち、いかにも厳しそうで、威厳がある。


「お、おはよう……」

「もっとシャキッと答えなさい」

 対応に困り恐る恐る返答する大治に、父親らしき人物はそう応じる。


「だいじ。今日から6年生でしょ。もうすぐお兄ちゃんにもなるんだし、しっかりしないとね」

 母親らしき人物がそう語り掛ける。

 そのお腹はよく見ると少しふっくらとしているようであった。

 妊婦なのであろう。ゆったりとした服で誤魔化されて、さきほどはわからなかった。


「あの……」

「なんだ?」


「俺はだいじ? 西片大治……」

 父親と母親は、顔を見合わせ怪訝な表情をする。

 それ以上に怪訝な顔を自分はしているだろうと大治は思った。


「だいじ。あなた、さっきから大丈夫? あなたの名前はこれよ」

 そういって母親が名札を出してきた。

 大治はゆっくり、じっくりとそれを見る。

 現代の小学生なら、防犯のために名札などしないだろう。

 自分の名前が書かれた名札によって過去であることを理解できた。


「せんはんだ・だいじ」


「何言ってるの?『ちたんだ』よ! 千反田と書いて千反田ちたんだ千反田大治ちたんだだいじ!」

「病院に行った方が良いんじゃないか?」

 両親が表情を曇らせる。

 それ以上に大治は表情を曇らせる。


「早くご飯食べちゃいなさい」

 言われるがままに、食パンにバターも塗らず口に含む。

 何度も咀嚼するが、味がまったくしなかった。


「ほら、食べたらすぐ学校に行きなさい」

 そう言われて、ランドセルとともに家の外へ放り出された。

 自分はどこへ行こうというのだろう。

 放り出されて数秒で家に戻った。


「俺はだれなんだ? どこへ行けばいいんだ?」

 家に帰ってそう言うと、両親は真顔になって、また顔を見合わす。

 そして大治をその大きな身体で抱きしめて頭をポンポンと優しく撫でる。

 そしてうんうんと頷きながら、ふたりは彼を病院に連れていくことに決めた。




※※※※※




『一時的な記憶喪失』

 そう診断された大治は、学校へと車で連れられてやってきた。

『普段通りの生活をしなさい』とお医者様に言われたからには学校も途中で行かせるという、少しスパルタめいた昭和のような時代を感じた。


 それはそうだろう。

 どうやら今年は、平成元年・1989年の4月らしい。

 3か月前までは実際に昭和だったのだ。

 ということは、だ。

 千反田大治は1977年生まれ。それも、王貞治が国民栄誉賞を受賞した9月5日の栄光の日生まれらしい。

 大治はどうやら逆行転生したらしい。

 しかも、おそらく前世であったはずの心臓病もない。


――これから上がる株なんか買いまくれば、億万長者だな


 現実味を感じず、何の感慨もなく、そう思った。

 それはそうだ。

 これから価値が上がるもの、下がるものがわかっている。

 そして競馬や競艇なども、かすかな記憶をたどれば、有名どころのレースなどでは勝者を知っている。

 莫大な資産を稼ぐことは、この人生に於いてはいとも簡単なのだ。


 だが、心に引っかかるものがある。

 前世の自分のことだ。

 残された家族はどうなったのであろう。

 初産を控えた妻、そして生まれてきたであろう子供。

 あんなことにならなければ、幸せなイチ家庭が築かれていたはずであった。


 授業の最中もそればかり考えた。

 ボーっとまるで授業に関心を示していないような顔をしていると、先生に指名された。

「千反田くん。この問いを答えてみなさい」

「8です」

 高等数学ならともかく、大人の頭を持った男が算数で急に指名されても間違えることはほぼ有り得ない。

 ぐぬぬ、と担任教師は呻きながらも「正解です」と努めて冷静に返答する。


 大人の頭を持っているなら、大人の身体能力はどうであろう。

 体育の授業に試してみたが、どうやら身体能力は平均的な子供よりやや高いくらいであった。

 だが、サッカーボールを扱ってみると、足の神経は前世のものと同じらしく、ボールテクニックは以前と同様の足技が使えた。




「おまえ、なかなか巧いな」

 そう声をかけてくるものが居た。

「ちょっと俺と一対一をやってみないか?」

 吉本というその少年は、地元では名を知られたサッカー小僧らしい。

 

 吉本は右掌をひらひらとしてあおってくる。

 なるほど、そのディフェンスの構えは一丁前にサッカー選手をやっている。

 大治は前世では世界最優秀選手だった。

 現時点で、どれくらいの技術を持っているのかはまだ正確にはわからない。

 そういう意味で、腕試しとして、この吉本との体育の授業での対戦は恰好の場である。


 大治がボールを跨ぐ、シザースフェイントを繰り出すと、身体の軸がまるでブレたようにして尻もちをつく。

 おそらくこの時代ではあまり知られていないであろう、ボールを中心にして回転しながら突破していくマルセイユ・ルーレットを繰り出すと、目をひん剥いて驚くばかりだ。

 止められるはずがない。

 大治は大人の世界・・・・・で世界一だったのだ。

 かなうはずがないのである。


 今度は、吉本のオフェンスの番だ。

 吉本は大柄で、この年代にしては発育が良い。

 そのスピードを活かして、大治の右裏へボールを蹴って、自らは左を抜ける裏街道メイア・ルアを繰り出して、大治を抜こうとする。

 

 しかし、モーションからして大治にはバレバレで、裏に出したボール自体をカットされる。


「なっ!?」


 自信がある技だったのであろう。

 初見では抜けると思ったに違いない。

 吉本は10秒ほど、茫然としていたが、嫉妬する様子もなく、大治に語り掛けてきた。


「千反田、おまえサッカー少年団入れよ! すぐにエースになれるぞ!」

 サッカー少年団。

 大治は、クラブチームのユース出身であったから馴染みは薄い。


「少年団か……」

 口に出してみる。

 クラブユースがいっぱいになった前世では懐かしいような存在である。


 ふと、思いついたことがある。

 今は、1989年。大治は11歳である。

 そして本来の大治・・・・・が生まれるのは1993年。今の大治・・・・はドーハの悲劇のときは16歳であろう。


 あと4年で、A代表に入れたら。

 A代表に入って、ドーハの悲劇を阻止出来たら。

 本来の大治・・・・・が、それによって心臓疾患を抱えずに生まれてきたら。


 今の自分とは違う自分が生まれて、少なくとも、家族は悲しまないで済むのではないか。




「なあ、吉本。日本はワールドカップに行けると思うか?」

 試すかのように聴いた。

「無理に決まってんじゃん。この前のアジア予選だってボロ負けだぜ。最終予選にさえ進めていない」

 

 それを聴くとなぜか心に沸き立つものを感じた。

 1994年のワールドカップに出場できたら、元の妻は、子供は幸せな人生を歩めたかもしれない。


 猫にマタタビ、大治にサッカー。

 瞬間湯沸かし器が心の中で沸騰する姿が思い浮かぶ。

 

「俺が日本をワールドカップに連れて行く」



 そうだ。

 そのために、自分は生まれ変わったに違いない。

 自分を助けるために、自分は過去に飛んだのだ。そうに違いない。


――どうせ、俺にはサッカーしかないんだから


1994年・・・・アメリカ・・・・・ワールドカップに、俺が全日本を連れて行く」

 淡々とそう言い放った。

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