第四話 空の星 海の星(中)
ステージ7 なつみの決意
「もう一度、ステージに立って踊ることができるなら……あたしはなんでもやる!」
そう言い切ったときの
――これは止められない。
どう説得しようが、いかに情理を尽くそうが、なつみのダンスへの欲求をとどめることは出来ない。もう一度、ステージに立って踊るために悪魔との取り引きを行おうとも、それを止めることはできない。
このときのなつみを見た誰もがそう悟らずにはいられない。それだけの決意、いや『決意』という言葉でさえ
そんな激情を秘めた少女が出会ったのが悪魔ではなく、
その、悪魔よりも始末に悪い人間、必要とあらば悪魔よりも悪魔的な手段を平気で用いる人間は、少女の言葉にうなずいた。
「君の決意はわかった。では、まずは君の保護者との面会をセッティングしてくれ」
「保護者? 父さんと母さんのこと?」
「君が両親の保護下にあるならそう言うことになるな。君はまだ未成年だ。保護者の許可なしになにかをするわけにはいかない。まずは、きちんと保護者に会って説明し、理解して、納得してもらい、許可してもらわないとな。おれひとりで会いに行くわけじゃない。見ず知らずの男がいきなりやってきたって警戒するだけで、理解も、納得もするはずがないからな。ここにいるさくらと、そうだな。
「あたしの
なつみは
「
「そんなにすごいお医者さんの知り合いがいるの?」
よほど、驚いたのだろう。なつみは敬語を使うのも忘れて、目をパチクリさせている。
驚いたのはさくらも同じ。そんな医師の知り合いがいるなんていままで聞いたことない。
――隠してた……わけじゃないよね。医師の知り合いがいるなんて話、いままでにする必要はなかったわけだし。
兄への不信が芽生えたわけではないが、意外なのはまちがいない。生まれつき社会性に欠け、他人と関わるのが面倒で仕方ないというこの男にそんな知り合いがいるなんて。
なつみの声に出しての疑問と、さくらの内心の驚き。その双方に答えるように
「言っただろう。おれはマンガ家だ。仕事柄、かわった知り合いは多いんだ」
「そういうものなの?」
さくらは内心で、なつみは声に出して、それぞれにそう思った。
「そう言うものさ。とくに、おれみたいな売れないマンガ家は汚れ仕事や妙な仕事が回されることも多いからな。その分、妙な知り合いは増えていく」
「世界的なお医者さんは、『妙な知り合い』とはちがうと思うけど」
なつみはそう言った。いちいち口に出してそう言うあたり、実はけっこうなツッコミ体質なのかも知れない。
「世界的な医者はたしかにちがうが『あいつ』は『妙な知り合い』なんだ。会えばわかるさ」
「はあ……」
なつみのツッコミに答えておいて
「ともかく、面会に行くのはおれとさくら、
「わかった」
と、なつみはうなずいた。
『仲間』という認識が芽生えたのか、いつの間にか敬語ではなくなっている。
「くれぐれも言っておくが、説得は君自身で行ってもらわなくてはならない。もちろん、おれたちや
「わかった。絶対、説得してみせる」
そう語るなつみの表情は――。
――相手がうなずくまで絶対に折れないわね、これは。
と、さくらが『交渉するだけ時間の無駄』と悟ったとおりのものだった。
「けっこう。では、せっかく来てもらったんだ。君の
「アドバイス?」
そう言われて、なつみは目をパチクリさせた。
「だって、あなた、医者じゃないんでしょう?」
「医者ではないが、たいていの分野で専門家と対話が出来るだけの情報は持ち合わせている。なかには、当たり前すぎて専門家では気付かなかったり、見落としていたりする情報もある。と言うわけで、まずは立って、歩いてみてくれ」
「はっ?」
「言葉で説明されて納得できることじゃない。実際に体験してもらうしかない。とにかく、立って、歩いてみてくれ。さくら、お前もだ」
「あ、うん」
さくらは言われるままに立ちあがった。なつみもそれにつられるように立ちあがった。ふたりの少女は並んで部屋のなかを歩きだした。
「けっこう。では、今度は靴と靴下を脱いで
「
なつみが眉をひそめた。表情に警戒の色が浮かんでいる。
「別に生足が見たいわけじゃない。実際に、
重ねて言われてさくらは靴と靴下を脱ぎはじめた。なつみの方は不信感を感じている様子だったが、さくらが脱ぎはじめたのを見て自分も脱ぎはじめた。やはり、このあたりは相手に対する信頼度のちがいが出る。
そして、ふたりの少女は
「あっ……」
ふたりとも、小さく声をあげた。
「気付いたか?」と、
「あ、うん……」
「歩き方が……ちがう」
さくらがうなずき、なつみが呟いた。
「どうちがう?」
「靴を履いていたときは
「あたしもそう」
さくらの言葉になつみもうなずいた。
「いままで意識したことなんてなかったけど……なんで、靴を履いているときといないときとで歩き方が勝手にかわるの?」
「そう。それが経験してもらいたかったことだ。人間は靴を
「どういうこと?」
「この本を読んで知ったんだがな」
事前に用意しておいたのだろう。
『BORN TO RUN 走るために生まれた』
――あ、これ、兄さんがトレイルランをはじめるきっかけになった本だ。
さくらはそのことを思い出した。
以前、
『読むと走りたくなる困った本』というふれこみなんだがな。読んだら本当に走りたくなった、と。
それ以来、時間のあるときにはふたり一緒に自然の野山のなかを走っている。
「ダンスではなく、走ることに関する本なんだがな。足の故障についても解説されている。陸上選手の大半が足の故障を抱えている。その理由はなんと靴、とのことだ」
「靴?」
「そう。靴だ。まず、人間の足の構造から説明しておく。人間の足――この場合は地面に接地する部分のことだが――着地の際の衝撃に耐えられるのは足のほぼ中央、土踏まずの上にある肉の盛りあがった部分だけだ。
「「靴という『
「そ、そうなんだ……」
はじめて聞いた、と、なつみの表情がそう語っていた。
「それにもうひとつ。
言われてさくらとなつみはそろって歩きだした。再び――。
「ふたりそろって小さく声をあげた。
「気付いたか?」と、
「う、うん……」
「
ふたりの言葉に――。
「そう。それが
言われてふたりは再び歩きだした。
さくらはもちろん、なつみもすでに
「どうだ? ちがいがわかる?」
「う、うん」
「
「そう。足の真ん中から着地すると自然と
「たしかに」
と、なつみは真剣な面持ちでうなずいた。
「さらにもうひとつ、足の真ん中で立つことには重要な理由がある」
「なに?」
と、なつみ。いつの間にか、自分から尋ねるようになっている。
「これは、歩くときと言うより、立っているときの問題なんだが、
重心が前に移れば足の前面の筋肉への負担が大きくなり、後ろ側への負担は少なくなる。重心が後ろに移れば、それとは逆に足の後ろ側の筋肉に多くの負担がかかり、前の筋肉は負担が少なくなる。その結果、負担の大きい側の筋肉は使われすぎて衰え、負担の少ない側の筋肉は使われなさ過ぎて弱っていく。
そうして、足は壊れていく。足の真ん中に体重を乗せて、まっすぐ立つことで足の筋肉に均等に負荷をかけることが出来る。使われすぎず、使われなさ過ぎず、適度な負荷をかけることができるわけだ。その体勢を維持していればそれだけで足は鍛えられていく。そのためにも、日頃からきちんと足の真ん中で立つ癖をつけておくことだ」
「うん、ありがとう、お兄さん! こんなこと、はじめて知った。お医者さんもコーチも教えてくれなかった」
「まあ、こういう基本的すぎることは専門家は逆に気がつかないものだからな。その本は預けておく。足の故障に関して参考になるはずだ。よく読んでおくといい」
「うん、ありがとう!」
そして、なつみは帰っていった。両親との面会をセッティングすることを約束して。
「……さて。それでは、こちらも声をかけておかないといけないわけだが」
はああ、と、
「な、なに、兄さん。その『嫌でいやで仕方がない』って言う感じの溜め息は」
さくらが思わずそう尋ねるぐらい、
「……正直、あいつに声をかけるのは気が重い」
「あいつ?」
「例の『技術だけはある』医師だ」
「ああ、世界的に有名だって言う。そんなお医者さんを紹介してもらえるならありがたいと思うけど……」
「普通ならな。しかし、あいつは『技術はある』が『技術だけしかない』医師でもある。というより、単なる人体の修理屋だ。医者じゃない。とくに、年頃の娘をもった親なら絶対、娘には会わせたくないと思うやつだ」
「ど、どういう人なの?」
「会えばわかるさ。実のところ、お前とも会わせたくない。だから、いままで黙っていたんだが……『技術だけならBJ』だからなあ、あいつは」
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