第四話  空の星 海の星(中)

ステージ7 なつみの決意

 「もう一度、ステージに立って踊ることができるなら……あたしはなんでもやる!」

 そう言い切ったときの南沢みなみさわなつみの表情。唇を真一文字に結び、挑むかのような目付きで森也しんやを見るその表情。その表情を見れば誰であれ、思い知らされずにはいられない。

 ――これは止められない。

 どう説得しようが、いかに情理を尽くそうが、なつみのダンスへの欲求をとどめることは出来ない。もう一度、ステージに立って踊るために悪魔との取り引きを行おうとも、それを止めることはできない。

 このときのなつみを見た誰もがそう悟らずにはいられない。それだけの決意、いや『決意』という言葉でさえ生温なまぬるい、存在そのものを懸けた表情だった。

 そんな激情を秘めた少女が出会ったのが悪魔ではなく、藍条あいじょう森也しんやであったのは幸運だったのだろうか。もし、この世に『悪魔よりも始末に悪い人間』などという存在がいるとしたらそれは、まぎれもなく藍条あいじょう森也しんやのことなのだが。

 その、悪魔よりも始末に悪い人間、必要とあらば悪魔よりも悪魔的な手段を平気で用いる人間は、少女の言葉にうなずいた。

 「君の決意はわかった。では、まずは君の保護者との面会をセッティングしてくれ」

 「保護者? 父さんと母さんのこと?」

 「君が両親の保護下にあるならそう言うことになるな。君はまだ未成年だ。保護者の許可なしになにかをするわけにはいかない。まずは、きちんと保護者に会って説明し、理解して、納得してもらい、許可してもらわないとな。おれひとりで会いに行くわけじゃない。見ず知らずの男がいきなりやってきたって警戒するだけで、理解も、納得もするはずがないからな。ここにいるさくらと、そうだな。富士ふじ幕府ばくふの代表、それに、君のひざを管理することになる医師……」

 「あたしのひざなら、前から見てもらっているお医者さんがいるけど……」

 なつみは森也しんやの言葉をさえぎり、そう告げた。

 森也しんやは気を悪くした風もなく答えた。

 「富士ふじ幕府ばくふの一員として活動するならこちらの手配した医師の管理下にあった方がなにかと都合がいい。腕の方は心配しなくていい。技術だけは本気で世界一かも知れないやつだ。世界的にもその技術の高さで名が知れているし、君のかかりつけの医師も多分、その名を聞けば畏れ入って引きさがる」

 「そんなにすごいお医者さんの知り合いがいるの?」

 よほど、驚いたのだろう。なつみは敬語を使うのも忘れて、目をパチクリさせている。

 驚いたのはさくらも同じ。そんな医師の知り合いがいるなんていままで聞いたことない。

 ――隠してた……わけじゃないよね。医師の知り合いがいるなんて話、いままでにする必要はなかったわけだし。

 兄への不信が芽生えたわけではないが、意外なのはまちがいない。生まれつき社会性に欠け、他人と関わるのが面倒で仕方ないというこの男にそんな知り合いがいるなんて。

 なつみの声に出しての疑問と、さくらの内心の驚き。その双方に答えるように森也しんやは言った。

 「言っただろう。おれはマンガ家だ。仕事柄、かわった知り合いは多いんだ」

 「そういうものなの?」

 さくらは内心で、なつみは声に出して、それぞれにそう思った。

 「そう言うものさ。とくに、おれみたいな売れないマンガ家は汚れ仕事や妙な仕事が回されることも多いからな。その分、妙な知り合いは増えていく」

 「世界的なお医者さんは、『妙な知り合い』とはちがうと思うけど」

 なつみはそう言った。いちいち口に出してそう言うあたり、実はけっこうなツッコミ体質なのかも知れない。

 「世界的な医者はたしかにちがうが『あいつ』は『妙な知り合い』なんだ。会えばわかるさ」

 「はあ……」

 なつみのツッコミに答えておいて森也しんやはつづけた。

 「ともかく、面会に行くのはおれとさくら、富士ふじ幕府ばくふ将軍、それに、その医師と……そうだな。もうひとりぐらい連れて行くか。社会的なステータスのある常識人もひとりぐらいいないと信用されないからな。この五人で会いに行く。そのむね、保護者に伝えて約束を取りつけておいてくれ」

 「わかった」

 と、なつみはうなずいた。

 『仲間』という認識が芽生えたのか、いつの間にか敬語ではなくなっている。

 森也しんやは『念のために』と付け加えた。

 「くれぐれも言っておくが、説得は君自身で行ってもらわなくてはならない。もちろん、おれたちや富士ふじ幕府ばくふの説明はするし、説得するための協力はする。しかし、説得するのはあくまでも君自身だ。君が保護者を説得し、納得させるんだ。こちらとしても重要なミッションの顔を任せるんだ。保護者の説得も出来ない無能に任せるわけにはいかないからな」

 「わかった。絶対、説得してみせる」

 そう語るなつみの表情は――。

 ――相手がうなずくまで絶対に折れないわね、これは。

 と、さくらが『交渉するだけ時間の無駄』と悟ったとおりのものだった。

 「けっこう。では、せっかく来てもらったんだ。君のひざについてひとつ、アドバイスしておこう」

 「アドバイス?」

 そう言われて、なつみは目をパチクリさせた。

 「だって、あなた、医者じゃないんでしょう?」

 「医者ではないが、たいていの分野で専門家と対話が出来るだけの情報は持ち合わせている。なかには、当たり前すぎて専門家では気付かなかったり、見落としていたりする情報もある。と言うわけで、まずは立って、歩いてみてくれ」

 「はっ?」

 「言葉で説明されて納得できることじゃない。実際に体験してもらうしかない。とにかく、立って、歩いてみてくれ。さくら、お前もだ」

 「あ、うん」

 さくらは言われるままに立ちあがった。なつみもそれにつられるように立ちあがった。ふたりの少女は並んで部屋のなかを歩きだした。

 「けっこう。では、今度は靴と靴下を脱いで裸足はだしで歩いてくれ」

 「裸足はだしで……?」

 なつみが眉をひそめた。表情に警戒の色が浮かんでいる。

 「別に生足が見たいわけじゃない。実際に、裸足はだしで歩いて体験してもらわないとわからないことなんだ。とにかく、靴と靴下を脱いで裸足はだしで歩いてくれ」

 重ねて言われてさくらは靴と靴下を脱ぎはじめた。なつみの方は不信感を感じている様子だったが、さくらが脱ぎはじめたのを見て自分も脱ぎはじめた。やはり、このあたりは相手に対する信頼度のちがいが出る。

 そして、ふたりの少女は裸足はだしで歩きだした。ほどなくして――。

 「あっ……」

 ふたりとも、小さく声をあげた。

 「気付いたか?」と、森也しんや

 「あ、うん……」

 「歩き方が……ちがう」

 さくらがうなずき、なつみが呟いた。

 森也しんやはふたりに尋ねた。

 「どうちがう?」

 「靴を履いていたときはかかとから床につけていたのに、裸足はだしで歩くと足の真ん中あたりから床につけている」

 「あたしもそう」

 さくらの言葉になつみもうなずいた。

 「いままで意識したことなんてなかったけど……なんで、靴を履いているときといないときとで歩き方が勝手にかわるの?」

 「そう。それが経験してもらいたかったことだ。人間は靴をいているかどうかで歩き方がかわる。そして、もちろん、靴を履いていないときの歩き方が人間本来の自然な歩き方だ」

 「どういうこと?」

 「この本を読んで知ったんだがな」

 事前に用意しておいたのだろう。森也しんやは一冊の分厚いハードカバー本を取り出した。タイトルは、

 『BORN TO RUN 走るために生まれた』

 ――あ、これ、兄さんがトレイルランをはじめるきっかけになった本だ。

 さくらはそのことを思い出した。

 以前、森也しんやに野山を走るトレイルランに誘われたとき、そう説明された。

 『読むと走りたくなる困った本』というふれこみなんだがな。読んだら本当に走りたくなった、と。

 それ以来、時間のあるときにはふたり一緒に自然の野山のなかを走っている。

 「ダンスではなく、走ることに関する本なんだがな。足の故障についても解説されている。陸上選手の大半が足の故障を抱えている。その理由はなんと靴、とのことだ」

 「靴?」

 「そう。靴だ。まず、人間の足の構造から説明しておく。人間の足――この場合は地面に接地する部分のことだが――着地の際の衝撃に耐えられるのは足のほぼ中央、土踏まずの上にある肉の盛りあがった部分だけだ。かかとは肉が薄いのでかかとから着地すると衝撃がもろに伝わる。だから、裸足はだしで歩いている場合、人間は本能的に足の真ん中で着地する。かかとから着地したりはしない。ところが――」

 森也しんやはいったん、言葉を切ってからつづけた。

 「「靴という『緩衝かんしょうざい』を履くことで、かかとから地面に着地できるようになる。これが故障の原因だと言うんだ。靴という緩衝材があってなお、肉が薄く、衝撃がじかに骨に伝わるかかとから着地していたのでは着地の衝撃は吸収しきれない。にもかかわらず、靴を履くことでかかとから着地するようになってしまう。それが足を痛める原因となる」

 「そ、そうなんだ……」

 はじめて聞いた、と、なつみの表情がそう語っていた。

 「それにもうひとつ。かかとから着地することには重大な問題がある。意識してかかとから着地する歩き方をしてみろ。足、脚部全体にどんな感覚があるかを確かめながらな」

 言われてさくらとなつみはそろって歩きだした。再び――。

 「ふたりそろって小さく声をあげた。

 「気付いたか?」と、森也しんや

 「う、うん……」

 「ひざ関節に……逆方向への力がかかっている」

 ふたりの言葉に――。

 森也しんやはうなずいた。

 「そう。それがかかとから着地することの重大問題のひとつだ。かかとから着地する場合、ひざがまっすぐに伸びた状態で着地することになる。すると、かかとが着地するたびにひざ関節に逆方向への力が加わることになる。歩くたびひざ関節が逆に曲げられるんだ。歩くたびにそんなことになっていたらどうなると思う? 当然、ひざ関節はどんどん壊れていく。かかとから着地するのはわざわざ足を壊すために歩いているようなものだ。対して、足の真ん中で着地するとどうなるか。これも、実際に試してみろ」

 言われてふたりは再び歩きだした。

 さくらはもちろん、なつみもすでに森也しんやの言葉を信用するようになっているので不審がることはなかった。

 「どうだ? ちがいがわかる?」

 「う、うん」

 「ひざが……曲がってる」

 「そう。足の真ん中から着地すると自然とひざが曲がった状態で着地する。関節に逆方向への力が加わることがないから、歩くたびの負担はずっと少なくなる。ひざを守るためには重大な要素だが、すでにひざを痛めている人間には特に重要だ」

 「たしかに」

 と、なつみは真剣な面持ちでうなずいた。

 「さらにもうひとつ、足の真ん中で立つことには重要な理由がある」

 「なに?」

 と、なつみ。いつの間にか、自分から尋ねるようになっている。

 「これは、歩くときと言うより、立っているときの問題なんだが、かかとや爪先に体重を乗せるとその方向に重心が移る。つまり、かかとで立っていると重心が後ろに移り、爪先で立っていると重心が前に移る、と言うことだ。そして、筋肉というものは使いすぎれば衰えるし、使わなすぎれば弱っていく。そして、重心が前後に移ると言うことは足の筋肉への負担がかわると言うことだ。

 重心が前に移れば足の前面の筋肉への負担が大きくなり、後ろ側への負担は少なくなる。重心が後ろに移れば、それとは逆に足の後ろ側の筋肉に多くの負担がかかり、前の筋肉は負担が少なくなる。その結果、負担の大きい側の筋肉は使われすぎて衰え、負担の少ない側の筋肉は使われなさ過ぎて弱っていく。

 そうして、足は壊れていく。足の真ん中に体重を乗せて、まっすぐ立つことで足の筋肉に均等に負荷をかけることが出来る。使われすぎず、使われなさ過ぎず、適度な負荷をかけることができるわけだ。その体勢を維持していればそれだけで足は鍛えられていく。そのためにも、日頃からきちんと足の真ん中で立つ癖をつけておくことだ」

 「うん、ありがとう、お兄さん! こんなこと、はじめて知った。お医者さんもコーチも教えてくれなかった」

 「まあ、こういう基本的すぎることは専門家は逆に気がつかないものだからな。その本は預けておく。足の故障に関して参考になるはずだ。よく読んでおくといい」

 「うん、ありがとう!」

 そして、なつみは帰っていった。両親との面会をセッティングすることを約束して。

 「……さて。それでは、こちらも声をかけておかないといけないわけだが」

 はああ、と、森也しんやは深いふかい溜め息をついた。

 「な、なに、兄さん。その『嫌でいやで仕方がない』って言う感じの溜め息は」

 さくらが思わずそう尋ねるぐらい、憂鬱ゆううつかんたっぷりの溜め息だった。

 「……正直、あいつに声をかけるのは気が重い」

 「あいつ?」

 「例の『技術だけはある』医師だ」

 「ああ、世界的に有名だって言う。そんなお医者さんを紹介してもらえるならありがたいと思うけど……」

 「普通ならな。しかし、あいつは『技術はある』が『技術だけしかない』医師でもある。というより、単なる人体の修理屋だ。医者じゃない。とくに、年頃の娘をもった親なら絶対、娘には会わせたくないと思うやつだ」

 「ど、どういう人なの?」

 「会えばわかるさ。実のところ、お前とも会わせたくない。だから、いままで黙っていたんだが……『技術だけならBJ』だからなあ、あいつは」

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