ステージ6 水舞への誘い
その日、さくらは
『女子高生をいきなり男の家に呼ぶわけにはいかないだろう』という
カフェの休憩室でふたりは会った。もちろん、さくらも同席している。初対面の男とふたりきりで部屋に
「
握手を求めなかったのは馴れ馴れしい態度で警戒心を抱かせないためである。
「はじめまして。
なつみも挨拶したがこちらは強い視線で
まるで挑むかのような態度と表情。警戒していると言うより『本当にこの人があたしの役に立ってくれるの?』という不審からの表情だろう。
とりあえず、座るように
なつみは医師の診断書を差し出した。事前に
真剣な、値踏みするような表情。自分の人生が懸かっているとなれば当然だろう。
診断書に目を通す
――かあらがいなくてよかった。
その場の雰囲気に胃が痛むような緊張感を感じながら、さくらそう思った。
あの常識知らずで遠慮知らずの機械フェチがこの場にいたら、
「そうか。
とか言い出して、なつみを怒らせてしまっていたにちがいない。
もちろん、かあら本人としてはふざけている気などない。解決策を真剣に提案しているだけのことなのだが、一般人の感覚からすれは悪ふざけしているとしか思えないだろう。
やがて、
「君の事情に関しては妹から聞いた。まず、言っておくが、おれは医者じゃない。君の
「はい」
「だが、おれは発想力と独創性とで勝負している人間だ。問題解決にかけては世界一だとの自負がある。そこで、君の問題に関してだが……」
「あなたは、あたしになにができるんです?」
なつみが
「妹さんから、あなたは問題解決の天才だと聞きました。でも、あたしの
なつみは挑むような表情ときつい口調とでたたみかける。仮にも年長者の言葉を遮った上にこの態度とこの口調。失礼と言えば失礼なのだが、不快感を感じさせないのはなつみがそれだけ真剣に『もう一度、踊りたい』と思っていることが伝わるからだ。
その必死さを前にしては礼儀がどうのと言う気にはとてもなれない。まっとうな人間なら。
「君が
「世界一なのに?」
「その理屈で行くと、世界一の医者なら君の
わざわざそんな棘を感じさせる言い方をしてしまうあたり、
「失礼した。どうも、よけいをことを言う癖があるものでな。本題に戻そう。君の
「確認?」
「まず……君はバレエがしたいのか? それとも、踊ることさえ出来ればバレエ以外でもかまわないのか?」
「どういうことです?」
「言ったとおりの意味だ。君は何がなんでもバレエがしたいのか、バレエでなければ駄目なのか、それとも、他のダンスでも、とにかく、踊ることさえ出来ればいのか。それを確認したい」
「あたしは……」
ギュッ、と、なつみは
「……踊りたい。舞台の上に立って踊りたい。もちろん、三つの頃からずっとやってきたバレエには愛着がある。いまだってバレエの世界で一番になりたい、エトワールになりたいって、そう思っている。でも……! そんなことは二の次! 踊りたい! 舞台の上に立って踊りたい! それさえできればなんだっていい!」
決死の表情でなつみは叫ぶ。それはまさに『血を吐く』という表現そのままの告白だった。そのあまりの必死さにさくらは思わず息を呑んだ。
――人間って……ここまでなにかをしたがるものなんだ。
そう思った。
なにかに真剣に打ち込んだことのないさくらには、想像することすら出来ない次元だった。
――やっぱり、まちがってる。
改めてそう思った。
――ここまで真剣になにかをしたがっている人が怪我で出来なくなるなんて、そんなのまちがってる。
さくらは
兄さんなら、『地球進化史上最強の知性』
そう信じて。
「それなら……
「
聞き慣れない言葉になつみはキョトンとした表情を浮かべた。
さくらも目を丸くした。『
「自分には関係ないことだ。そう思うだろうが、まずは聞いてくれ。順を追って説明する。
第一に、君はなぜ、世界を狙えるバレエダンサーになれた? 君自身にそれだけの素質と才能があり、その素質を開花させるために努力した。それは確かだ。しかし、そもそも努力出来たのはなぜだ?
それだけの環境があったからだ。君の住んでいるまさにその場所にバレエを習える場所があり、そこへ通わせるだけの経済力が親にあり、しかも、その環境が一〇年以上にわたってつづいたからだ。
日本の都会育ちの人間にとってはそんなことは当たり前のことだろう。しかし、それはとても幸運なことだ。この日本に限っても田舎の農村地帯にはバレエを習える場所などない。もし、そんな場所に君と同じだけの熱意と素質の持ち主がいたとしても、その素質を開花させることは出来ない。習う場所がないから。教えてくれるコーチもいないから。そして、習い事をさせるような系座的な余裕もない家も多い。
生まれる場所は選べない。
それなのに、生まれた場所によって未来が規定されてしまうなんて理不尽な話だ。だから、その状況をかえる。熱意と素質をもつ人間がその能力を存分に開花させられる、それだけの環境を整える。それこそ、世界中の隅々に至るまで。
そして、日本の農村には
普通にバレエ教室を作ればいいのになぜ、
そう尋ねるなら個別化のためだと答えよう。都会にあるものと同じものをそろえたところで都会の劣化パージョンにしかならない。農村には農村の魅力、その場所でしか体験できない要素が必要だ。そのために、伝統を蘇らせる。この
そのために、
「長々と言ったが、ここまでがこちらの都合。次に君についてだ。
まず第一に
それでも、水の浮力が作用するから
そして、君が
それがおれたちが君に与えることの出来るメリットだ。もちろん、君に望みがあれば聞く。どうする?」
「……ひとつ、聞きたいんだけど」
「なんだ?」
「
「それは君の決めること、いや、君の作り出すことだ」
「あたしの?」
そう言われてさすがに驚いたのだろう。なつみは目を丸くした。
「そうだ。踊りの専門家は君であっておれではないからな。
それはつまり、足を故障した人間たちのための踊り。陸上での踊りが出来なくなった人間のための水のなかでの踊り。バレエに限らずダンスの世界には足の故障によってつづけられなくなった君のような人間は大勢いるはずだ。そうだろう? そんな人間たちのために新しい踊りを作り出せるということだ。世界中の多くの人間に新しい希望を与えることでができると言うことだ。
どうする? やってみるか?」
じっと、
なつみはうなずいた。小さく答えた。
「……やる。もう一度、ううん、これから先ずっと舞台に立って踊ることが出来るなら……あたしはなんだってやる」
第四話(上)完
第四話(中)につづく
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