ステージ5 運命がまちがうなら……。
「……あたしは三つの頃からバレエをはじめた」
校舎の屋上。
他に人気のないその場所で。
屋上特有の強い風に吹かれながら。
さくらと
実際には空に視線を向けているのではなく、二度と戻ることのない過去に向かって語りかけているのだろう。さくらは理性によらずそう直感した。
「三つの頃から⁉ だって、バレエって跳んだりはねたりするものでしょ? そんな小さい頃から習えるものなの⁉」
「
さくらは
さくらはそう思ったが、なつみ自身は別に気にした様子もなかった。相変わらず空の向こうに視線を向けまま答えた。
「バレエだって最初から跳んだりはねたりするわけじゃないよ。幼児向けの教室もちゃんとあるから」
「へえ、そうなんだ。でも、いくら何でも三つの頃じゃあ、自分から習うってわけにいかないよね。親に習わされたの?」
気になったことがあれば問い質さずにいられないのは未来のジャーナリストとしての本能か。
「習われた、って言うのとはちがうけど。あたしは覚えていないけど、立って歩けるようになった頃から音楽が鳴っているとすぐに踊り出す性格だったんだって。所構わずすぐに踊り出すものだから心配した親が医者に相談に行ったの。そうしたら『この子は病気ではありません。ダンサーなのです。ダンス教室に通わせてあげなさい』って言われたんだって」
「へえ」
「それで、ちょうど近くに幼児向けのバレエ教室があったからそこに通わせることにしたんだって。だから、バレエをはじめたのは実は偶然。近くにあったのがバレエ以外のダンス教室だったらそっちを習っていたわ」
あたし自身、思い切り踊れるならなんでもよかったし。
なつみはそう付け加えた。
「教室に通うようになってから毎日まいにちレッスンに明け暮れた。それこそ、一日何時間もね。その甲斐あってあたしはどんどん上達した。教室のなかでは別格だったし、小学校高学年にあがる頃にはちょっとは名前が知られるようになっていた。その頃にはトップダンサーの動画も見るようになっていた。動画のなかで世界のトップダンサーたちは信じられないようなすごい動きを見せていた。小学生のあたしにはそれこそ『ダンスの魔法使い』にしか見えなかった。その動画を見ているうちに思うようになったの。『あたしもこんな風になりたい』ってね」
「魔法使いに⁉」
――いや、ちがうでしょ。
さくらは恥ずかしさのあまり、
なつみもさすがに
「ちがうよ。こんなすごいダンサーになりたい。魔法にしか見えないバレエを踊れるようになって、世界一のエトワールになりたい。そう思うようになったってことだよ」
「あ、そういう意味」
と、
――当たり前でしょうが。
と、さくら。またも心のなかでツッコむ。口に出して言わないのはなつみに対する遠慮である。
なつみはつづけた。
「そうしてあたしはエトワール目指してバレエをつづけた。中学に入った頃にはコンクールに出れば優勝するのが当たり前になっていた。これでも『天才少女現る!』なんて騒がれたこともあったんだよ」
「すごいんだ」
さくらはそうとしか言えなかった。
なつみは『ふふ』と、さびしげに笑った。
「……昔の話だけどね。いまはもう」
「昔の話? なんで? 才能の限界?」
「才能の限界、か。それならあきらめもついたかもね。でも、ちがう。そうじゃない。あたしの才能は限界なんかじゃなかった。バレエに関してはあたしに勝てる同年代は日本中にひとりしかいなかった。中学の間、日本のバレエコンクールの優勝はあたしとその人とで分け合っているようなものだった。他の人が優勝するのは、あたしもその人も参加していなかった場合だけ。あたしたちが参加していればどちらかが必ず優勝していた。専門家の評価もどんどんあがっていった。『将来、必ず世界で活躍するようになる』って、太鼓判も押された。そして、中学三年の夏。そのためのチャンスをつかんだ」
「チャンス?」と、さくら。
「そう。ウィーンで開かれる若手バレエダンサーの登竜門と言われる国際的なコンクール。そこに参加することが決まったの」
「ウィーンって……オーストリア」
「そう。オーストリアは昔からバレエなんかで有名だから。中二のときには三ヶ月だけだけど短期留学もしていた」
「……本当に天才なんだ」
さくらはそう言うしかなかった。その横ではぶん殴られた痛みなどもはやすっかり忘れた
「でも……」
と、なつみ。その可愛らしい顔が
「コンクールのためのレッスン中、あたしは
「
「そう。最初はとくに気にしなかった。あたしたちにとって故障なんて当たり前だし、レッスンは遅れるけ、治りさえすれば取り戻す自信もあった。だから、脚以外の部分を鍛えながら
「そんな……」
「ええっ~、そんなあっ!」
さくらの呟きを
「ひどいよ、そんなの、あんまりだよ! 世界目指して
――傍迷惑なことにはかわりないけど。
とは、さくらの感想である。
「仕方ないよ。それが、あたしの運命だったんだから」
「運命って……それでいいの⁉」
「いいわけないでしょ!」
なつみは叫んだ。
なつみがこんな風に感情をむき出しにして怒鳴るのははじめてのことだったので、さくらも
「泣いたよ! 死にたいぐらいだったよ! バレエに打ち込んで、打ち込んで、やっとここまできたのになんで……って、何度も呪ったよ! いまだってできることなら復帰したい、エトワール目指して思いきり舞台の上で踊りたい。そう思ってる。でも、しょうがないじゃない! あたしの
涙があふれ、肩で息をしている。その姿がいままでなつみがどれほど自分の感情を押し殺していたかを示していた。それでも、思い切り感情を吐き出して落ち着いたのだろう。涙を手で
「……ゴメン。興奮しちゃった」
「……あ、いえ」
「……ううん」
さくらも、
「……とにかく、あたしはもうバレエをつづけることは出来なくなった。特待生として入学することが決っていたここにも、普通科の生徒として通うことになった。もっとも、ショックのあまり、ずっと引きこもっちゃってたから今日までこれなかったんだけどね」
「……そうだったんだ」
――先生がわざわざふたりきりで話すわけだわ。
さくらはそう思った。
「でも、そんな
「……そうだったんだ。なんか、ゴメンね。そんな大変なこと、無理やり聞き出すようなことしちゃって」
なつみはかぶりを振った。
「いいのよ。隠すようなことじゃないし、深刻ぶっててもなにがかわるわけじゃないんだから。むしろ、全部話せてスッキリしたわ」
「うん、すごいよ。よくわかる。あたしも未来のジャーナリスト目指して頑張ってるもん。もし、あたしがジャーナリストになれない、なんてことになったら立ち直れないと思う。それなのに、ちゃんと立ち直って前を向こうだなんて本当にすごいよ」
「……ねえ、
それまでじっと考え込んでいたさくらが言った。
「『なつみ』って呼んで。その方が呼ばれ慣れてるから」
「あ、じゃあ、あたしも『さくら』で」
「あたしは
と、
「ねえ、なつみ。あたしの兄さんに会ってみない?」
「あなたのお兄さん?」
いきなりの提案になつみはキョトンとした表情を浮かべた。さくらは力強くうなずいた。
「そう。兄さんならなんとかしてくれると思う」
「なんとかって……あなたのお兄さん、お医者なの?」
「医者じゃないわ。でも、問題解決の専門家なの。兄さんならきっと、あなたの問題も解決してくれる」
さくらは熱心にそう語った。
――こんなことはまちがっている。
さくらは痛切にそう思った。
幼い頃から世界的なバレエダンサーを目指し、努力してきた。そうなれるだけの才能もあった。しかも、そうなれる、少なくとも、そうなるためのチャンスをつかめる目前まできていた。それなのに、そこに来て怪我ですべて代なしになるなんて……。
そんなの理不尽すぎる。
あっちゃいけない。
子供っぽい思いだと言うことはわかっている。だけど、どうしようもなくそう思った。
以前のさくらならここまで思うことはなかっただろう。なにしろ、本気でなにかに打ち込んだことなどない身。世界を目指して努力をつづけると言うことがどういうことか、その夢が破れると言うことがどれほどのショックか、そんなことがわかるはずもない。
でも、いまのさくらはちがう。赤葉や白葉、ふぁいからりーふのメンバーたちが自分自身の夢のためにどれほど頑張っているか間近に見てきた。なつみもそれと同様に、いや、それ以上に必死の努力をつづけてきたにちがいない。そのすべてが怪我によってふいになってしまうなんて……。
――そんなの絶対、まちがってる! あっちゃいけない!
運命がそんなまちがいをしでかしたのなら人間の手で正さなければいけない。人間には無理でも
してくれる。
さくらはそう信じた。
なつみはそんなさくらを厳しい視線で見つめた。
――解決してくれる、なんてずいぶんと簡単に言ってくれる。
そう思ったのだ。
――あたしがどれほどの思いでバレエに打ち込んできたか、もうバレエをつづけられないと知ってどんなにショックだったか、なにも知らないくせに。
「あたしの
「ちがうわ。たしかに医者でもない兄さんにあなたの
「
「そう」
と、さくらは全身全霊を込めてうなずいた。
「兄さんなら……
そう語るさくらの瞳の真剣さ。それはもはや『あたしの気も知らないくせに』などと言い捨てることの出来ないものだった。
「……わかった」
なつみは言った。
「会ってみるわ、あなたのお兄さんに。もし、わずかでもバレエをつづけられる可能性があるのなら……あたしはなんでもやる」
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