第39話 位置共有アプリ
授業中、彼女は今日もよく頑張っていた。講師の話に耳を傾け、ノートをとり、たまに分からないところを俺に聞いてくる。あまりに分からないとため息をついてから少しぼーっとするが、しばらくしたらまたノートをとりはじめた。講師の説明に混じってたまに池淵の不快な話し声が聞こえる。
講師はDNAの二重螺旋構造や塩基配列について説明していたが、その内容は俺の頭には全く入らなかった。ストーカーが現れるのがいつも塾帰りというなら、その塾生か講師の可能性も高い。同じクラスとは限らないが、俺は教室のなかにいる人間ひとりひとりに目を向けてその可能性が無いか考えた。
だけどやっぱり分からない。誰も関係がないようにも見えるし、誰もがそのストーカーのようにも見える。ここの塾の生徒は全部で何人だろうか......。おそらく数百人ということ以外は全く分からない。だがそもそもこの塾の者かも分からない。分からないことだらけだ。そういえば彼女は、本当にいるかどうかも分からないと言っていた。
そんなことをずっと考えて、教室にいる人間を疑り深く見ていたらいつのまにかその日の4コマの授業は全て終わっていた。ここからだ。乗り換えの後、つまり俺がいなくなった後に現れるらしいが、塾を出るところから尾行されている可能性も充分に高い。
「橋下、挙動不審」
「もうストーカーがいたりするかもしれないからな」
「橋下、ストーカー捕まえるのに夢中になって自分がストーカーみたいになりそう」
昼に話していた時は怖がっているように見えたけれど、今は随分と軽い雰囲気だ。
「通報するなよ。嫌だったら言って」
「嫌じゃないよ、大丈夫」
思わず彼女の方を見た。彼女もそれに気づいて俺に目を合わせる。特に、何か感情の見える表情ではない。ただ俺が見ていたから何かと思ってこちらを見ただけだ。そのなんでもない視線がこうも俺を狂わせる。
電車に乗ってから、何か良い感じの位置情報共有アプリを検索する。ある程度探したところで、そもそもスマホ自体に搭載されているものでそれは可能だったことが分かった。
「電話番号で登録できるみたいだ。藤原、良い?」
「うん。ちょっと待ってね」
彼女はスマホゲームを閉じ、設定アプリから番号を俺に見せてきた。位置アプリに登録して動作を確認した。まず俺の位置情報が彼女に共有される。それから、彼女の方に表示された俺のアカウントに彼女の位置情報を共有してもらった。早速確認してみると、2人の共有相手のうちのひとりが藤原紗菜だった。もうひとりは橋下
「あ、これか。『常にオン』にしとくね」
「俺もしとくよ。あ、でも藤原オフにしたい時はいつでもしていいから。逆に必要な時にだけオンにするくらいでも......」
「いや、めんどくさいからずっとオンで良いよ」
かくして、俺たちふたりはお互いに位置情報を共有することになった。乗り換え駅まではあと数分。特に何かを調べるでもなくTwitterを見ると、すこし気になる記事があった。新聞社とかテレビ局とかの公式アカウントではない。フォロワーも数千人程度の時事系インフルエンサーだ。
SNSを通じて、高校生や大学生を標的に覚醒剤が売られているとのことだ。砂糖に混ぜた覚醒剤の粉末を水などに溶かして飲むらしい。一回分である一袋が1,000円にも満たない金額で売られていると。学校で違法薬物の講習があってまさかとは思っていたが、自分の住む世界と全く縁のない話でもないらしかった。とは言っても、実際俺には全く縁のない話だろう。それ以外では、増税がどうだとかウクライナがどうしたとか、いつもと変わらないようなニュースばかりだった。
乗り換え駅で改札を出て、次の改札に入る前に俺は彼女の方に向き直って肩に手を置いた。周りに怪しい奴がいないか見回すが、夜10時半という遅い時間で駅構内の人は少ないがそういうのは特に見当たらない。
「そのストーカーがいると思ったら、すぐにLINEして。そうでなくても、何かおかしいことがあったらなんでも」
「うん、分かった」
俺たちはまた改札を通り、お互いに「ばいばい」と言ってからそれぞれのホームに降りた。やがて向こう側に電車がやってきて彼女はそれに乗り込むと俺に手を振った。電車が行ったその直後から、俺はスマホで位置共有アプリを開いた。自分の電車が来てそれに乗っても、駅で降りてそこから家までの帰り道も、俺はずっと彼女の位置に動きを追い続ける。そうしてその日初めて俺は彼女の家を知ることになったが、ついぞ彼女からのLINEは無かった。ストーカーは現れなかったのだろう。
次の日から、俺のスマホのバッテリーのおよそ8割が位置共有アプリによるものになった。
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