第33話 開いた瞳孔

 彼女のあの状況を前にして、自分が周りにどう見られていたかなんて事は関係が無い。そう思いたかった。そう思いたかったし、こんなことで自分を嫌悪しているこの時間も限りなく無駄なものに思えて仕方がない。感情の落差が激し過ぎる。だが彼女はそんな俺の感情など露知らず、目の前で美味しそうにクロワッサンサンドを頬張っていた。


「これすっごく美味しいね! クロワッサンのサンドイッチとか初めて食べた」


「俺もここの店は初めてなんだよな。確かに美味い」


 もしかしたら、彼女の家族なのかもしれない。頭を撫でようとした動きであそこまで警戒するには、バレー部に入っていたほんの三か月ほどの期間はいささか短いような気がした。入部してそんなすぐにいじめが始まったわけでもないだろうに。それに、いじめもある程度エスカレートしないと直接的な暴力にはならない。ましてや学力的にうちのレベルの高校だと考えると、その生徒がいくらムカついたとはいえ暴力を振るうようなことになるのかも怪しくなってきた。彼女の家族のうち俺が見たのは母親だけで、三者面談の入れ替わりの時の一瞬だったが、あいつが彼女に暴力を振るっていると考えると妙にしっくり来た。あの時は初対面ながらにやや嫌悪感を覚えたし、その隣にいた彼女が怯えているように見えたのを覚えている。あの日、彼女はなかなか家に帰りたがらなかった。殴られるのを恐れていたのか。


「全く関係ないんだけど、藤原のお父さんって何してるの?」


「今ごろは仕事かな〜」


「仕事って、どんなところ?」


「車メーカーの技術者だよ。今ダービーシャーにいる」


 もしや父親が家にいないのではないかと思い聞いてみたが、そもそも国内にいないらしかった。シャーとつくからイギリスだろうか?


「あー、海外赴任?」


「そう。ブリテン島だよ」


「最初からイギリスって言えよ」


「その言い方は好きじゃない」


「だから英語教師が『イギリス英語』って言ったのに噛みついてたのか」


「ブリティッシュ・イングリッシュだもん」


 そこから彼女はイギリス英語のリバプールとマンチェスターとニューカッスルとバーミンガムとヨークシャーそれぞれの方言についての説明を始めた。そんなことばかり調べていたら、そりゃ日本の高校の定期テストで点を取れないわけだ。


 だが今はどうでも良い。俺の悪い予感は当たり、彼女の父親は海外赴任で家におらず、優秀な兄は慶應大の学生寮にくらしている。だとすれば彼女はおそらく金にだけ余裕がある家で母親と2人きりだ。


 今の空気を壊したくなかった。さっき一瞬俺の手に怯えたとはいえ、彼女は今は美味しいクロワッサンサンドに舌鼓を打ちジュースを飲みながら楽しそうに話している。母親にしろそうじゃないにしろ彼女が虐待を受けているのは間違いない。だが彼女がそのことについて考えたくないと思っているのも間違いなかった。


 ......それでもこの状況を野放しにする気にはなれなかった。もういっそのこと、この空気を真正面から壊してやろうか。


「藤原、虐待を受けてるよな。この期に及んで隠すのは無理があるぞ」


あいでぃーけーI don't know。」


「マジな話だって。......話してくれ。俺は味方だって言っただろ」


 彼女がスマホを出していじろうとしたので、俺は身を乗り出してそれを上からテーブルに押し付けた。じっと見つめる俺の目に最初彼女は睨み返していたが、やがて目を逸らした。


「は、橋下って空気読めないね! 私なにか悪い事した?」


「ずっと隠してる。バレバレなのに、何回聞いてものらりくらりとさ」


「橋下に関係ない」


 やはりと言うべきか、彼女はあからさまに不機嫌になった。でもここでは引けない。


「頼む藤原。助けたいんだよ」


「いいよ、別に。なんでそんなさぁ」


「藤原が傷つくのは嫌なんだよ。藤原には分からないかもだけど、大切な人が傷ついてるのを知ったら自分も辛いんだ。だからなんとかしたい」


「私はそんな大切な人にするような相手じゃない」


「でも俺にとってはそうなんだよ」


 俺はまた彼女の目を強く見つめた。彼女への感情がまた昂ってくる。そのうちに、彼女は眉をひそめて俺の目を、両の眼球をひとつずつ覗き込むように見てから言った。


「橋下、手こっちに出して。手のひら上に向けて」


 俺がそれに従うと、彼女は俺の手首に指先を触れた。俺は彼女の指が動脈の上を正確に押さえているのに気づくと慌てて手を引っ込めた。


「あ、あからさま過ぎるだろ! 脈なんか取るなって」


 訝しげにこっちを見る彼女を前にしてどんどん顔が火照るのを感じる。


「そんな確かめ方しなくたって......自分で言うから」


 心臓が胸骨を激しく打ち、骨を介して全身に振動を伝える。息を吸うのすら苦しい。だが、それでも俺は確かに言った。


「好きだよ、藤原のこと」

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