第27話 初めての嫌悪

 結果から言うと、大した事はなかった。体温もそこまで上がっていなかったらしい。


「たぶん寝不足のせいもあるから、保健室でちょっと寝ててもらうわ。橋下くんは授業に戻って大丈夫よ」


「そうですか、分かりました」


「ありがとうね」


 三限終わりに藤原が教室に戻ってきて、保健室で受け取った小さな紙切れを教卓に置いた。保健室からの連絡事項が書かれたものだ。彼女はそれから眠そうな顔で俺の隣の席にやってきた。


「寝てなくて良いのか」


「2時間寝るんだったら早退しろって先生が。どうせ今日も昼までだし」


「早退は嫌なのか」


「親に伝わったら嫌だ」


「そっか」


 彼女は四限の間、ただノートをとっていた。そしてそれが終わると、俺たち2人はまっすぐ帰路につく。電車に乗ると、車椅子に乗っている少し様子のおかしい青年とその母親らしき女性がいた。車椅子は電動で、男性の鼻に繋がる呼吸器のようなものも搭載されている。


「うぅ〜いぇあーー! っばー!」


 彼は靴はおろか靴下も履いておらず、裸足で電車の床にペタペタ叩いたり、見方によっては純粋無垢な笑顔で後頭部を壁に打ちつけたりしていた。俺たちの座っているところからはそんなに近くなかったが、彼女はそれを観察しているようだった。


「あんまりジロジロ見るな」


「良いじゃん別に。向こうだって慣れっこでしょ」


 素っ気ない言い方だった。観察するのに夢中なのかと思いきや、彼女の目は好奇心に満ちたものでは無かった。


「そういう問題じゃないだろ。ああいう人じゃなくたって、他人のことをジロジロ見るもんじゃない」


「ああいう人って?」


「いや、なんていうか......分かるだろ」


「私が見てるのは母親の方だよ。育ちは悪そうだけど、巻かれたつやつやの髪に高そうなピアスしてるから、やっぱり国からすごい補助金降りてるんだろうな〜って」


 俺が絶句して、2人の間に沈黙が流れた。


 彼女に対して、ここまで人としての嫌悪感を覚える時が来るとは思っていなかった。彼女からは言葉に出来ないほどの醜い感情を感じた。


「どうせなら私もあんなのに生まれたかったな」


「やめろよ。マジで良くない」


「たぶん幸せだよ。幸せそうな顔してるし。私なんかよりもずっと」


「同情を誘えば俺がどんな時でも味方だと思うなよ」


 俺がそう言うと、彼女は面食らったようだった。たが怯えてはいない。


「え、ずっと味方でいたいって言ったじゃん」


「流石に度が過ぎるだろ......いや過ぎるんだよ。味方で『いたい』ってのは本当だから、取り消してくれ」


 そう言うと、彼女は天井を見上げてじっとする。途端に、俺は強い不安に襲われた。もしここで彼女が味方としての俺を必要としなかったら? 俺の独りよがりだったら、と。


 心のすり減る音が聞こえる。


「分かった撤回する。確かに不謹慎すぎた」


 彼女はそう言って、少ししてから俺の方を見た。顔色をうかがっているようだ。俺はほっとすると同時に酷い吐き気に襲われた。緊張からきたものか、自分自身への気味悪さか。だが満足だった。


「俺は、味方だよ」


 彼女はそれを聞くと、後ろにもたれて足をぶらぶらさせてから俺の肩に頭をとんっとぶつけてきた。さっきまでの満足感が何倍にも増幅される。一切の劣情を伴わず、ただ彼女への純粋な愛おしさが溢れそうだった。


 溢れたら何をしていただろう。電車の中で彼女を抱きしめただろうか? キスをしただろうか? だがキスなら、きっと唇にはしていなかっただろう。言うまでもなく彼女にそういう気は全く無かっただろうし、俺にも無い。かつて俺が存在を疑い、それを語った友人を馬鹿にしていた物が、確かに俺の中にあった。入学式の日、彼女に話しかけた時には塵ほども無かった感情だ。


『終点です』


 車内放送の長々とした文言の中にその言葉を聞き、俺たちを含めた乗客らが電車を降りた。駅員さんが折り畳みのスロープを持ってきてホームと電車の間に架け、その上を例の車椅子の男性が通った。


 その後は彼女と「バイバイ」とだけ言って、それぞれ逆の路線に乗り換えて帰宅した。俺は自分ひとりの家の中で、今までに経験したことの無いような目眩に襲われた。


「う、うわ」


 重心のズレた何かが高速で回転して、頭蓋骨の中を暴れ回っているようだ。床にぶつかる衝撃が体を襲う。


 怪我などはしなかった。だが、俺はそれからも定期的に強い目眩が起こるようになった。

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