第24話 いつかのように
2時間ほど、彼女は机に突っ伏して眠ったままだった。コンサータで寝られないと言っていたが、そういう日もあるのだろうか? 俺は彼女の肩をトントンと叩いた。
「そろそろ授業だ。教室に向かおう」
「うん」
熟睡していた訳では無かったらしく、肩に触るか否かとところで彼女は頭を持ち上げた。俺がノートや参考書をリュックにつめる間、彼女はただボーッとしている。そして、俺がリュックを持って席を立つと。
「自販機行ってくる。先に教室行ってて」
「リュック、持って行こうか」
「いや、いい」
今いるのはマンションの2階で、自販機はマンションの外で、授業がある教室は4階だ。俺が持ってやっても良かったのに。
なぜか使うことを禁じられているエレベーターを横目に長い階段を上がり、教室の席についてリュックをおろす。彼女がやってくるまでは、思ったよりも時間があった。
彼女は俺の隣に座るとリュックから小さな水筒を取り出し、それを少し振ってから一気に飲み干す。水筒があるのに自販機に行ったのかと疑問に思ったが、そこからしたエナジードリンクの匂いで察した。
「エナジードリンクをわざわざ水筒に移し変えて飲むのか?」
「缶に直接口つけるの嫌いだから」
「それってペットボトルも?」
「うん」
カフェに入る前、やたらと自販機の水を嫌がったのはそういう事だったのだろう。だが、エナジードリンクを入れるのに抵抗が無いのなら、自販機の水もその水筒に移して飲めば良かったのに。暑さに頭をやられてそれすらも思いつかなかったのか、面倒くささが勝ったのか。
「よく飲んでるけど、やめとけよな。絶対体に悪いんだから」
「別に大したことないでしょ」
「飲みすぎたらお腹壊すぞ」
「そんなしょっちゅう飲んでるわけじゃないし、お腹ならもうコンサータで壊してるし」
「じゃあなおさら...」
彼女はやはり、日に日にやつれていっているように見えた。手足は前よりも細くなっているし、カフェに行った時以来彼女の笑顔は見ていない。
「あ、橋下動かないで」
「えっ」
急に彼女が首をすくめて俺の方の空を見つめる。いや、睨みつける。その時、俺の耳元で蚊の飛ぶプゥンという音が聞こえた。どうやら彼女はそれを目で追っているらしい。彼女は目を細めるが、それとは逆に瞳孔は大きく開いている。こんな真剣な顔をしている彼女を見るのは初めてだった。今度は何のスイッチが入ったのか、まるで狩りをする猫のようだ。
「フっ!」
彼女の右手が俺の顔のすぐ横をかすめた。
「まじかよ」
信じられない光景を見た。彼女は人差し指と親指で蚊をつまんでいたのだ。運動神経がそんなに良いイメージは無い。だがこれは常人が為せる技では無いだろう。
「何者?」
「自分でもびっくり」
「エナジードリンクでそこまで強化されるなんてな」
笑わせるつもりで言ったが、失敗した。彼女は蚊の死骸を床に落とし、席について授業の準備を始める。時間はもう来ていて、講師も教室にやってきた。その授業では彼女はまるで塾に来た最初の頃のように積極的に発言し、時には講師を質問攻めにした。
「今日は、なんていうか元気だな」
「勉強がちょっと楽しいかも」
休憩時間、彼女がそう言って一週間ぶりくらいの笑顔を見せた。そしてもうひとコマの授業が終わり、22時。もしかしたら、以前のように彼女は講師のもとへ質問に行くかもしれないと思ったが、何もせずに塾を出た。最近は夜になってもあまり涼しくなくて、湿気も多くて不快だ。そして、彼女の表情も暗くなっていた。
「帰りたくない」
駅への道で、彼女がぽつりと言った。学生が三者面談の日に家に帰りたくない理由は、そうバリエーションに富んだものではないだろう。
「成績、そんなに悪かったのか?」
「ゴミみたいな点数に、出せてない提出物がいっぱいあったから。またお兄ちゃんを引き合いにお母さんに怒鳴られる」
俺が彼女とほぼ毎日勉強するようになったのは最近だったので、それ以前の提出課題だろう。母親には、いつも優秀なお兄さんと比べられてけなされるそうだ。
「そういえば、お兄さんはどこの大学なの」
「慶應の医学部」
「え、そのレベル!? そんなのと比べられたら誰だって凡人になっちゃうだろ」
「でも私は凡人以下だから」
そこから、いつかのように彼女の心の闇が溢れだした。
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