青いトマト
ペンギン内閣
本編
大人になればなるほど、社会から要求される水準が上がる。
俺はそれについていけていない。
昔は外でかけっこをしていても、あるいは隅っこで馬鹿話をしていても問題はなかった。
だけれども、中学生の頃から段々と生徒間で封建的な階級ができて、高校になるとついには一定点未満で"学校にいさせてもらえなくなる"。
大学では、自主性が求められ学校側と学生との間で距離感ができる。退学やドロップアウトももはや珍しくない。
大学を卒業後の仕事は、生産性が求められる。もはや独りよがりなことは許されなくなる。
「
デスクに座る
「はい」
「よし。明後日のプレゼン、頑張ってね。期待しているから」
俺の上司でもある水上先輩は、リップサービスをくれた。
「ありがとうございます」
深々とお辞儀して、俺が去ろうとした時、視線を感じて振り返った。
「何かありますか?」
「う、ううん。何でもない」
「分かりました」
俺は失礼にならぬよう笑顔を崩さず、明るい声色で答えた。
俺はよく真面目で不器用と言われてきた。新卒でこの会社に入って、数ヶ月。この会社は女性が多いが、先輩たちに可愛がってもらえるのは真面目君に見えるからだろう。
半分正解で半分嘘だと思う。俺は不器用だが、真面目ではない。不器用で人より頑張らないと人並みに過ごせない。だから真面目に頑張っているように見えるだけで、本当は不真面目に生きたい。
俺にとって、「真面目だね」は能力不足を痛感させる言葉だった。
気づけば、定時を過ぎていた。今回のプレゼンの資料の修正だけではなく、他の書類を作成する必要もあった。
宿題を出された時から変わっていない。いつもこの義務的な作業が怖い。宿題を忘れて、自分の宿題だけを載せずに前の席の人に渡すあの感覚がこびりついている。
後ろから手が生えてきて、缶コーヒーが置かれた。
「お疲れ様、太田君」
いたのは水上先輩だった。
「ありがとうございます。お金を払いますよ」
「いい!いいって。これ、私のおごり。仕事頑張っているから」
「でも…」
「大丈夫だから。元気になるよ」
「ありがとうございます」
ああ、大学でもサークルの先輩がラーメン奢ってくれた時、言われた。
その時も「真面目君」って馬鹿にされたっけ。
「後藤さんや冷山さんは?」
「帰っちゃった。真面目に仕事しているのは君だけだよ」
俺は彼女の一言が非常に不快に感じて、顔をこわばらせた。馬鹿にされている、そう強く感じたからだ。
「今の若い子は、みんな定時で帰っちゃうから。昇給に興味ないのかな」
「器用なんですよ。肩の力を抜けるんでしょう」
「そんなことない。君は真面目ですごいよ。きっと偉くなる。男の子は素直で可愛くなくちゃ」
「俺は不器用なだけなのでよくわかりませんが、そうなんですね」
俺がそう言い終わると、彼女はストッキングを摩った。太ももあたりだろうか。彼女の太ももは太く、おしりの方から若干柔らかそうに弛んでいた。若い頃は引き締まっていたのだろうが、熟した何かのようで見てはいけない気持ちになった。
「どうしましたか?」
俺は不安そうな声を出すと、屈んだ彼女がこちらを見てほほ笑んだ。
「大丈夫。ストッキングしていると疲れるの。だからちょっとね」
「水上先輩、何か困ったら言ってくださいね」
「え?」
水上先輩はきょとんとした声を出す。
「いや、仕事大変なんでしょうし。疲れるくらいなら、手伝います」
彼女は最初言葉の意味を理解できていなかったのか、まじまじと俺の顔を見つめていた。
そして、彼女はフッと笑い出した。手を口の辺りに持ってくる、目は閉じていた。それは穏やかで、木陰にいるリスを見てほほ笑んでいるかのようだった。
「まず自分の仕事を終わらせなよ。私の手伝いはそれから」
「え?ああ、すみません…」
彼女は立ち上がって、席に戻った。背筋が若干伸びていて、鼻歌が聞こえてきそうな後ろ姿だった。
「かんぱーい」
俺の取引先へのプレゼン発表が無事終わって、飲み屋で打ち上げをすることになった。
左に水上先輩。水上先輩の左隣には課長の
向かい側左には
向かい側右にいるのが
「お疲れ。水上」
小林先輩が水上先輩が声をかけた。
「ええ。でも、今回はほとんど彼が頑張ってくれた」
彼女はこっちで肩をたたいて微笑んだ。小林先輩も水上先輩越しで、俺をのぞき込む。こっぱずかしくなって、視線をそらした。
「男の子なんだから堂々としなさい」
水上先輩がきつい声で、俺に言うものだから彼女の目を見つめ返した。彼女の長い眉毛ときりっと細長い目がよく見える。
「君が例の部下の」
「太田です。お世話になっています」
小林先輩は俺の顔をまじまじと見た。
「取引先も評判が良かった。君の資料は分かりやすいそうだ」
「ありがとうございます」
「まあ、分かりやすいのがいいんだ。君の成果物は教科書通り」
低い声で彼が言うと、水上先輩が割って入ってきた。
「そこがいいんでしょ。真面目にやるのが大事なのよ」
小林先輩はその言葉に否定も肯定もせず、話を変えた。
「水上が随分と君に入れ込んでいるようだね」
「いえ、そんな」
「何か変なことでもされていない?」
「ちょっと」
水上先輩が止めようとする。
「いえ、気にかけていただいてありがたいです」
俺は、小声でそういった。早くこの恥ずかしい会話を終わらせたかった。
向かい側の席では、金髪の後藤さんが冷山さんと楽しげに談笑していた。いつもは大人しい冷山さんが珍しく笑って、後藤さんにしきりに何か話していた。
冷山さんってそんな風に笑うんだ。冷山さんの笑顔を見たことがなかった。さらに言えば、同期なのにほとんど話したことがないな。どうして後藤さんはあんなにすぐ打ち解けられたんだろう。ああ、友達みたい。
21時近く、飲み会は解散になる。
「じゃあ、俺冷山さん送っていくっす」
後藤さんが、そういうと酔い潰れた冷山さんの肩を持ち、帰っていった。俺はほとんど飲めなかった。お酒は苦手だ。俺の場合、酔う前に気持ち悪くなる。
「俺も帰る。水上もさっさと帰れよ」
「えー。送ってくれないの?」
水上先輩は、酔っているのか。普段聞かない甘い声を出した。
「お前は大丈夫だろ。終電逃すなよ」
そういうと、小林先輩は行ってしまった。
俺もそれらの話を聞いて、小林先輩と反対側に歩き始めた。
「どこ行くの?」
水上先輩が俺の肩を掴む、いや寄りかかっていた。俺の肩と水上先輩の頭が当たって、振り返ると、厚い化粧をした水上先輩がいた。
「いえ。飲み会終わったので帰ろうとしていました」
「もう一件行こうよ」
「二人で行くってことですか?」
「そう。いいでしょ?」
俺は少し固まった。女性とサシで飲むのは、複数人で飲むのとわけが違う。そんな気がした。大学時代も結局サシで飲んだことがなかったが、それでも見聞きで知っている。
「いや、女性と飲めるんだし。嬉しいでしょ?」
水上先輩の決めつけるような台詞にカッとなった。
「いや、セクハラ…」
「セクハラって何?!私が悪いの?喜ぶと思ったのに!」
水上先輩が高い大きい声を出したものだから、俺は驚いて彼女から半歩離れた。
俺は、水上先輩と飲みに行くこと自体別に嫌じゃなかった。ただ、『嬉しいだろ』っていう上から目線が不快だっただけだ。
俺はなんて言っていいかわからず、呆然として水上先輩の顔を見た。彼女は最初眉間にしわを寄せて、目を大きく開いていたが、やがて周囲をきょろきょろと見る。我に返ったように、いつもの水上先輩の顔をした。
「どうかしてた。小林先輩のせいね、私を送ってくれないから」
もう一件の飲み屋は前の大衆居酒屋よりも、落ち着いてゆったりとしたものに感じられた。
「今日は私のおごりだから、ジャンジャン飲んじゃって」
「ありがとうございます」
水上先輩が微笑む。
「そうやって、お礼言うのは大事。礼儀正しいから太田君はきっとモテる」
「モテませんよ」
「見る目がないのね。最近の女は。こんなに可愛いのに」
水上先輩はお酒が入っているのか、いつもより饒舌に俺をほめた。
「小林先輩と何かあったんですか?」
「いや、ちょっと。昔、小林先輩かっこよかったから」
「え?小林先輩が?」
俺が咄嗟に言って、後悔した。これでは、今の小林先輩が冴えない中年男性だと言っているようなものじゃないか。
水上先輩は笑い出して。
「信じられないよね?でも、昔はイケメンだったの。ほら、見て」
水上先輩は、沢山のキーホルダーのついたスマホを取り出して、集合写真を見せた。今の自信のある濃い化粧と正反対の地味で大人しそうな水上先輩の、となりに筋肉質な体と高級感のあるスーツそしてブランド品の腕時計を身についたオールバックの男性がいた。営業のエースに見える。
「もしかして、この方が小林先輩?」
「そう!かっこいいでしょ?」
水上先輩は嬉しそうな声を出した。
「好きだったんですか?」
俺はスマホを返しながら、何気なく聞いてしまった。
すると沈黙が襲って、水上先輩の方を見ると寂しげな顔をしていた。
「あ、すみません」
「ううん。私、遊ばれてた」
水上先輩が、寂しげなまま笑う。俺がなんて言っていいか分からず、沈黙していると。
「まあ?あんなおじさんになるなら?私から振ってやるくらい」
水上先輩がやけくそじみた声で言う。俺には分からなかった。遊ばれたりあるいは浮気もそう。情報としては知っている。大学でも略奪恋愛だの恋愛トラブルだの、沢山とあった。でも、俺がそこの当事者になってことはなく、遠くで起きている何かだった。
「誰かを好きになったりなられたりしたのことなので、俺にはよくわからないです」
「そう?でも、太田君も大学時代あったんでしょ?」
「いや、ありましたけど」
「合コンとかしなかったの?」
「一年生のころに友達に呼ばれて、少し。でも女性とうまく話せなくて。呼ばれなくなりました」
「女性の話聞かなかったからじゃないの?」
「聞いていたつもりでしたね。一問一答みたいでしたよ。女性のこと聞いて、女性が義務感から答えて、それでお互いつまらなくて、やめる」
「もっと女性との会話を楽しまなきゃ」
「そうは言われましても」
俺は俯き気味に答える。
「水上先輩は大学時代どうだったんですか?」
「私は合コンによく行ってたよ。勢いでホテル行っちゃったりとか」
「へー」
俺とは全く別の生き物に感じられた。
「私の大学生の先輩はイケメンで、王子様みたいだった。女性もみんな彼によっていって。みんな彼のオンリーワンになりたがっていた」
優秀な男性に多くの女性が一極集中するのは世の常だ。無能な男の一番など、女性にとって価値がない。むしろ、負債とすら思えるのではないか。
「でも、そいつ女たらしだったから。私は中々本命なれない。いつもそう。でもね、年取れば段々冷めてきて、少女漫画みたいな恋はできなくなる」
「妥協するようになるってことですか?」
水上先輩は寂しげに視線を下にした。
「そうとも…言えるかも…。目に入らなかった真面目な男の子が急にかわいくなってきた。昔は冴えない男だって馬鹿にしていたのに」
俺よりも15歳も年上の彼女は、ライフステージが全く違う。なぜ今更…冴えない男がよくなったのか。
「なんででしょうね」
「さあ。結婚を意識しだしたからかも。イケメンはもう結婚しているか、一生遊んでいる。私たちのような一般人はイケメンの本命になれないから」
水上先輩の話を聞いて、俺は少し気になった。
「水上先輩は後藤さん嫌いなんですか?」
「どうして?私の部下でしょ」
「いえ。そういう意味ではなくて、プライベートの話です。彼はまあ…典型的なモテそうな男ですから」
「別に。引っかかる冷山も若い女だから。そういうものなんじゃない」
水上先輩が冷たい声で言う。
お酒が進んで、もう23時半に回ったころ。ぼちぼち、終電になる。
俺はお酒を飲むつもりはなかったのに、水上先輩がグイグイすすめて、俺もだいぶ飲んでしまった。
「水上先輩、あの、そろそろ終電ですよ」
「え?ああ。そうかな」
水上先輩が呂律を回らず、答える。
「大丈夫ですか?」
「大丈夫だって。お会計しよ」
彼女はそういうと立ち上がった。俺は不安になって、彼女の後ろをついていく。
水上先輩は高そうなブランドものの財布を取り出して、会計をする。二人、外に出るころには、大分人の数も減り、あるいはアダルトな雰囲気を出す男女も増えていた。最低でも、高校生だのそういった類の人間は消えた。
「帰りましょう。歩けますか?」
「平気」
というと水上先輩がふらふらと、歩き出す。
「水上先輩、危ないですから。飲み過ぎないほうがいいですよ」
「危ないって?」
「いえ。俺も男ですし」
「はあ。そういうこと」
そういうと、水上先輩が寄ってくる。
「何ですか?」
「しちゃう?そういうこと」
「ど、どういうことですか」
「太田君だって、もう子供じゃないんだから。そのくらいわかるでしょ」
水上先輩が一歩俺に近づく。
「どうして?」
「どうしてって…。ねえ、結婚しようよ私たち。もう婚活なんてうんざり」
「え?結婚?」
「そう結婚。ねえいいでしょ。ホテル行ってあげるから」
水上先輩の声が、異常に幼くて、まるで子供の声に聞こえた。俺は飲酒の気持ち悪さと、酔った先輩で、頭のあたりに血が集まって、熱くなるのを感じた。
「そんなのだめですって。もっと自分を大事にしてください」
「大事って何?!別にね、生娘ではない。私の過去のことなんてどうでもいいでしょ?!」
「いや…」
俺は、思わず視線をそらした。
36歳と21歳。15歳差だった。普通は恋愛対象外だ。この年齢差だと、おばさんと青年、あるいは、おじさんと乙女になってしまう。
だが、俺は小中高大とモテたことがなかった。俺も男で欲求はあった。人間は動物であるのだと痛感させられた。
「弱くても許してあげるから。不器用でも大目に見てあげるからね。あなたの良いところは真面目なの、私のいうこと聞いてくれそうで。太田君、真面目だから。いい旦那さんになれそう。私、あなたのこと愛してあげられるよう頑張るから。だからね」
周りの空気が冷たく感じられた。
水上先輩が、抱きついてきた。強い香水の匂いと、真っ赤な口紅が見えた。
「行こう?ホテル」
彼女が色目使いをしたことに、俺はがっかりした。「男は馬鹿だから、こうすればいいんでしょ」という子供じみた主張に感じられた。彼女は36歳であって、俺はもっと理性的で知的で賢い女性だと思っていた。
でも違って、自分勝手で、俺が悩んでいたかなんてどうでもよかった。水上先輩はアクセサリーが欲しかったんだ。
「タクシー呼びます」
俺はそういって、水上先輩を突き放した。
水上先輩が、唖然とした顔をしているのを無視して、タクシーを呼んだ。頭の中で怒りが充満して、スマホの反応の遅さでさえ、スマホをたたき割ろうかと思えた。
タクシーを呼んでから、異常なほど長く感じられた沈黙を、俺は不機嫌そうに靴で地面をカツカツして過ごした。しまった自分のスマホを取り出すのが、億劫だった。水上先輩は、ガードレールに寄りかかって、長い髪で乱雑に顔を隠していた。
タクシーが来た。
「水上先輩、乗ってください」
俺は叫びたい気持ちをぐっと抑えるため、小声で言う。水上先輩は、乗ろうとせず、俯いたままだった。
「どうしてそんな顔して怒るの?!ねえ!おい、なんとか言ってよ!」
「俺を人間扱いしなかったくせに!!」
水上先輩の乗せたタクシーをただただ呆然と見つめる。すると急に周りの音が聞こえるようになって、崩れ落ちそうな疲労感が出てきた。そして、これからのことを考えると辛く。今この瞬間を考えて、激しい怒りが爆発した。
俺は駆け出していた。周りが見えず、どこに行っていいかもわからず、曲がらず。歩道を走り続けた。
"太田君、真面目だから。いい旦那さんになれそう"
という言葉は、ああ、俺のことを全く見てくれてなかったんだな。俺という個人に彼女は興味がなかったんだな。俺は彼女にとって都合よい結婚相手なんだ。
俺は今の水上先輩が嫌っているような、"器用なイケメン"になりたかった。だけれども、無能だからこうやって頑張らされている。
俺はある程度走ると止まる。肩を小刻みに震わせ、手は膝を握りしめた。息は荒くて、喉が乾いて痛い。
視界が曇って、地面のコンクリートがぼやけた。すると、何かが滴り落ちる。俺は泣いていることに気が付いた。
自分が悲しいと気が付いた瞬間に、急に心が締め付けられた。俺は期待していたんだ。年の差がどんなにあっても、女性から誘われたことが舞い上がる程嬉しかった。
顔を上げると、すらっとした小顔の男性と足が細くお人形のように整った顔をした女性のカップルが、迷惑そうに俺をよけ通り過ぎた。
水上先輩と話して、あんなに喜んでいた過去の自分が、気持ち悪く感じられた。
青いトマト ペンギン内閣 @penguincabinet
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