第22話 オン・ザ・ジョブ・トレーニング

 4月6日火曜日、午前8時15分。

 僕が管財課に到着したとき、本田茜さんはすでに出勤していて、自分の机を整理していた。

 僕は彼女の隣に座った。

「おはようございます、波野先輩」

「おはようございます、本田さん」

 あいさつを交わす。

 本田さんは真面目そのものの表情で、パソコンを起動させ、メールをチェックし始めた。


 始業時刻の8時30分になってから、僕は本田さんに話しかけた。

「今日から本格的に業務を教えるよ。実際に仕事をしてもらいながら、憶えてもらおうと思っているから」

「オン・ザ・ジョブ・トレーニングですね。よろしくお願いします」

 しっかりした子だな、と僕は思った。

「まずは河城市営駅前地下駐車場の仕事から始めよう。現場の管理は委託しているんだ。委託会社の職員から、昨日の収入金額の報告がメールで送られてきているはずだから、チェックして」

「すでに確認しました。205,600円です」

「じゃあ、財務管理システムを使って、歳入伝票を作成しよう。やり方は……」

 僕は伝票の作成方法を教えた。

 本田さんはノートにメモをしながら、てきぱきとパソコンで必要項目を入力していった。

 プリンターで伝票を印刷する。

「現場へ行って、お金を受け取り、三友銀行河城支店に入金するんだよ。公用車で行くけれど、運転はできるかな?」

「運転免許は持っていますが、ペーパードライバーです。家の車は運転は使用人がしているものですから」

 本田家は河城市有数の名家で、当主はあの本田浅葱だ。運転手を雇っていても、驚きはしない。

「じゃあ今日は僕が運転するよ。早速行ってみようか」

「はい」

「本田さんと地下駐車場へ行ってきます」と僕は係のみんなに伝えた。

「行ってまいります」と本田さんも言った。

「いってらっしゃい。気をつけてな」と矢口補佐が答えてくれた。

「いってらっしゃい」と村中さんと竹内さんも言った。

 管財係のチームワークは悪くない。


 市役所本庁舎の隣に6階建ての駐車場がある。4階以下は来客者用で、5階以上は公用車用だ。

 僕は6階に駐車している管財係用の公用車、白いワンボックスの軽自動車の運転席に乗り込んだ。

 本田さんは助手席に座った。

「出発するよ」

「はい。お願いします」

 僕は静かに公用車を発進させた。車体には「河城市」と黒い字で表示されている。安全運転を心がけなければならない。

 車の中で本田さんと話をした。

「本田さんはどうして市役所に就職したの? あなたなら、もっといい就職先がありそうだけど」

「市役所の仕事がどういうものか、知っておきたかったんです」

「それは、定年までここにいる気はないということかな? キャリアの出発点でしかないと」

「そうですね。私のとりあえずの目標は、河城市長になることです」

 いきなりとてつもない発言が飛び出したので、僕はびっくりした。

「いずれは国会議員になり、できれば総理大臣に就任したいと思っています」

 総理大臣? すごいな……。


「さすがは本田さんだね。僕みたいな小市民とはスケールがちがう」

「私の姉は経済面から日本をよくしています。私は政治面から日本を立て直したいんです。ですから、本当は秘書課へ行って、市長の仕事を間近で見たかった」

「急遽管財課へ配属されることになったんだよね。どうしてだろう?」

「あなたのせいですよ、波野先輩。浅葱姉さんが、あなたに異常なほど興味を持っているんです」

 やはりそうか。ガーネットが想像したとおりだ。

「僕というより、僕が買ったアンドロイドに興味があるんだよね」

「そうです。特異なアンドロイド、PPA-SAT-HA33-1」

「細波ガーネットと名付けたよ」

「ガーネット。赤い宝石ですね。あのアンドロイドの瞳は赤い。波野先輩はネーミングセンスがいいですね」

「褒めてくださり、どうもありがとうございます、将来の市長様」

「やめてください。いまはまだ主事補にすぎません」

「でもいずれは市長になり、僕に命令する立場になる」

「そうなるつもりですが、言葉遣いは実際に立場が変わってから変更してください。私はまだ社会のひよっこです」

 本田茜さんはかなり生真面目な性格のようだ。

 政治家に向いているのか疑問だな、と思ったが、猫をかぶっているのかもしれない。

 あの得体の知れない浅葱さんの妹だ。底知れない性格を持っていてもおかしくはない。


 駅前駐車場に到着し、管理室へ行って、本田さんと委託職員の藤田健介ふじたけんすけさんを引き合わせた。

 藤田さんは河城ビルメンテナンス株式会社の契約社員で、62歳。総白髪だが、まだまだ元気で気のいい人だ。

「本田さん、こちらは藤田健介さん。この地下駐車場に常駐してくれている。簡単なトラブルなら処理してくれるが、深刻なトラブルが発生したら、担当の本田さんが対応することになる。定期的な見回りもしてくれていて、修繕箇所があったら、教えてくれる。それを直すのも、本田さんの仕事だ。藤田さんとよくコミュニケーションを取って仕事してね」

「本田茜です。新入職員で、まだ仕事がよくわかっていませんが、がんばります。よろしくお願いします」

「藤田です。よろしくお願いします。今度の担当は、ずいぶん可愛い人だなあ」

 本田さんの猫のような吊り目がギラッと光った。

「小娘扱いはしないでくださいね」

「わかっていますよ。私は中小企業のしがない契約社員ですから、市役所の方の命令に従います」

「ご自分を卑下もしないでください。あらゆる仕事に意味がある。どんな仕事でも大切だと、私は考えています」

「これは驚いた。新人さんなのに、しっかりしているなあ」

「藤田さん、本田さんはしっかりしていますが、現場を知りません。お客様とのトラブル処理、老朽箇所の修繕、予算や現金の管理、なにもかもこれから経験していくんです。ご指導よろしくお願いします」

「はい、波野さんに教えたようにやらせてもらいますよ」


 僕は金庫からお金を取り出し、本田さんに金額を確認させた。

 205,600円。まちがいなくメールで報告されてきた金額と同じだった。

 駐車場自動精算機のレシートとも照合して、合致していることを確認する。

 すぐ近くにある三友銀行河城支店へ歩いて行き、窓口でお金と歳入伝票を渡し、入金した。


 その後、僕は満車台数250台の地下駐車場を案内した。

「かなり老朽化しているから、気をつけて管理しないといけないんだ。不良箇所が見つかったら、至急修繕しなければならない。管理に瑕疵があって、事故が起こったら、市の責任だからね」

「きちんと対応するよう努力します。建て替えの予定はないのですか?」

「いまのところないね。市の財政は豊かではない。実はかなりきびしいんだよ。建て替えの予算はつきそうにない」

「私が市長になったら、市の財政を立て直します」

 すごい子だなあ。でも、隙もある。

「本田さん、あまり市長になるって頻繁には言わない方がいいと思うよ。政治家は欲を見せない方がいい。周りから推薦されて、出馬するという形になるのが望ましいはずだ」

 本田さんは僕の目を直視した。

「そんなことくらいわかっていますよ」

 彼女の目は22歳とは思えないほど老成して見えた。その目付きは急変していた。


「姉さんが興味を示している波野さんに、わたしも興味があるんです。どんな方なのか、知りたかった。だから、わざと隙を見せたんです」

 えっ、そうだったのか。

「当分の間、波野さん以外に、わたしが政治家志望だと言うつもりはありません」

「そうか。僕も秘密にするよ」

「頼みますよ。波野さんが誠実そうな人だと思ったから、伝えたんです。わたしの信頼を裏切らないでくださいね」

「わかったよ」

「わたし、波野さんみたいに実直そうな男性が好きなんです。わたしが市長になったら、あなたを秘書課長にしようかな」

 僕は仰天した。そんな責任の重そうな役職につくのは嫌だ。

「だから、市長って言うのはやめようよ。それから、僕には秘書課長なんて重要なポストは荷が重いよ。無理だからね」

「うふふっ、絶対に秘書課長にします。その上の市長室長にしてあげてもいいですよ」

「頼むからやめてくれ」

 本田茜さんは本性を現し、にまにまと笑っていた。

 ガーネット、本田浅葱、茜。

 僕の周りに急に個性的で美しい女性が出現している。

 こんなことは初めてだ。

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