第13話 市長執務室にて

 僕は数分間、ひとりで応接室のソファにぼうっと座って、ガーネットのことを考えていた。

 彼女は感情を持っている世界で唯一のアンドロイドらしい。

 衝撃的な情報だ。

 僕はガーネット以外のアンドロイドを知らない。

 彼女がどれほど他のアンドロイドと異なっているのか、比較対象がないので、わからない。

 それなのに、本田浅葱から要請されたモニターの役目を引き受けてしまった。

 これからどのようにガーネットと接していけばいいのだろう。


 僕は首を振って、初心を取り戻そうとした。

 ガーネットとは、恋人として付き合いつづける。

 彼女をしあわせにして、僕もしあわせになる。

 それがなによりも大切。

 彼女の柔らかい身体を抱きしめて、キスしたい。

 モニターなんて二の次だ。


 応接室から出ると、横山秘書課長から呼び止められた。

「波野さん、手塚市長がお呼びよ。市長執務室に入って」

 やれやれ、なんて日だ。超一流企業の社長と話した後に、うちの組織のトップと会わなければならないとは。

 もうすぐ昼休みの時刻になろうとしているが、断わることなどできるはずもない。

 秘書課長が市長の部屋の扉をノックした。

 軽くドアを開け、「失礼します。波野主事を入らせてよろしいですか」とうかがう。

「入れろ」という重々しい声がした。

「どうぞ」と秘書課長が言い、僕は気を引き締めて、市長執務室の中に入った。市長専用応接室と同じく、ここに立ち入るのも初めてだ。管理職でもない職員には縁のないところだと思っていた。


 手塚武士てづかたけし市長は大きなデスクに付属している高級オフィスチェアに座っていた。

 確か67歳。市長に就任して2期目だ。

 地元の建設会社の役員から政治家に転身して、着実にのし上がってきた人だ。市議会議員、県議会議員をつとめ、7年前の市長選挙で当時の現職市長を破って当選した。いまでは剛腕市長として、その名をとどろかせている。

 駅前に大光百貨店を誘致したのは、彼の手腕によるものだ。

 老朽化している市役所本庁舎の建て替えや駅前再開発事業、大型自然公園整備事業も、市長主導の大型プロジェクトとして進められている。

 僕にとっては雲の上の人。

「お疲れさまです。管財課の波野です」

 僕は市長の机の前に立ったまま、そう名乗った。

 ギロリ、と睨まれた。


「本田さんはなぜきみを呼んだんだ。用件はなんだった?」

「僕は3月28日にプリンセスプライド社のアンドロイドを購入しました。そのアンドロイドを使ってみてどうだったと感想を訊かれました」

「それだけか?」

「それだけです」

 本田浅葱とは秘密保持の約束をした。市長にも本当のことは言えない。

「そのアンドロイドの価格は?」

「1980万円です」

「たいして高級品ではないな。本田さんがわざわざ来る用件とは思えない。あの人と以前から付き合いでもあるのか?」

「初対面です」

「解せないな。もう一度訊く。本田さんはなぜきみを呼んだ?」

「プリンセスプライド社のアンドロイドを購入したからです。その製品について、雑談をしました」

「嘘つくんじゃねえよ!」

 市長が怒鳴った。その迫力は開高課長の比ではなかった。僕はびびって、瞬時に胸焼けがした。


「嘘ではありません」

 僕は懸命に市長の目を見て答えた。

 彼はマフィアのボスのような目で、僕を睨んでいた。

「プリンセスプライド社の本社は東京にあるが、河城市には研究所と工場がある。多額の法人税を納めてもらっている。本田家は河城市有数の名家で、浅葱さんは現在の当主だ。市内に多くの不動産を所有している。要するに、彼女は超重要人物なんだよ。彼女の意向で、市長選挙の行方も変わる。この意味がわかるか?」

「はあ、なんとなく」

「きみは政治には興味がないのか?」

「ありません」

「そうか。しかし、河城市役所で真っ当に働いていたいだろう?」

「もちろんです。ここで働かないと、食べていけません」

「なら、俺の立場を理解しろ。俺は本田さんのご機嫌を損ねるわけにはいかないんだ。今後、本田さんと再び会うことがあったら、最大限の市民サービスをしろ。わかったな」

「はい」

 市長はその強面を僕に向けつづけていた。

「本田さんは帰り際に、きみとまた会いたいと言っていた。彼女への対応をしくじるなよ」

「承知しました」

「きみは彼女となにか秘密の話をした。俺にはわかる。その内容については訊かないでおいてやるよ。とにかく、本田さんとはうまく付き合え。これは市長命令だ」

「わかりました」

 僕は面倒なことになったと思って、げんなりとした。


 管財課に戻ると、開高課長が「市長の用件はなんだったんだ?」と訊いてきた。

 僕は適当に答えた。

 疲れ果てて、きちんとした対応ができない。

 課長からまた怒鳴られたが、なにを言っているのか、よく理解できなかった。

 僕はコンビニに行き、おにぎりをふたつ買って、自席で食べた。

 急激に押し寄せてきたストレスのせいか、味がわからなかった。

 午後は仕事に集中するのがむずかしかったが、今日中に済ませなくてはならない業務が山積している。

 ガーネットや本田浅葱や手塚市長の諸々が頭に浮かぶ。それを必死になって振り払い、仕事をした。

 もちろん残業をしないわけにはいかなかった。

 午後9時に僕は職場から出て、帰宅の途についた。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る