第9話 河城市役所メンター制度

 3月29日月曜日。

 僕は午前7時に目覚まし時計のピピピピピと鳴る電子音に起こされた。

 ガーネットはすでに覚醒していて、隣に寝転んで僕の顔を見つめていた。

「おはよう、ガーネット」

「おはよう、数多」

 あいさつを交わす。

「先に起きていたのか」

「ああ、6時に起きて、数多の寝顔を見ていた。可愛いな、あんたの寝顔は」

 僕は朝からいきなり赤面した。

「僕は可愛くなんてない。からかうな」

「からかってなどいない。数多はマジで可愛い。穏やかな寝顔はいつまでも見ていたいものだったぜ」

 僕は布団から飛び出して、「今日は仕事だ。出勤準備をするぞ」と言って、照れを隠した。


 洗面所で顔を洗い、ダイニングでカップ麺、ゆで卵、野菜ジュースというお決まりの朝食を済ませた。

「なあ数多、やはりその食事は栄養面で問題がある。改善すべきだ」

「そうは言っても、節約しなくちゃいけないし、メニューを考えたり、きちんとした朝食をつくるのは面倒だ」

「あたしに任せてくれ。もっと栄養バランスのいい食事をつくってやるよ。とにかく、毎日カップ麺をふたつも食べていてはだめだ。塩分や添加物の取り過ぎだぜ」

「それはありがたいけれど、予算は少ないぞ」

「いくらなんだ?」

 僕は現金6千円をガーネットに渡した。

「それが僕の10日分の朝食と夕食代だ。うまく賄ってくれよ」

「わかった。ネットで調べて、考え、実行する」

「近くにスーパーマーケットのマルツエがある。買い物はそこでするといい」

「了解した。ネットで検索して行くよ」

「合鍵が必要だな。とりあえず、僕の鍵を渡しておく。帰宅する時間には部屋にいてくれ」

 僕は鍵と千円札1枚を追加で渡した。

「ホームセンターのカインズへ行けば、合鍵はつくれる。できるか?」

「そのくらいできるさ。ハイエンドタイプのアンドロイドの能力をなめるなよ」

「じゃあ頼んだよ」

「今日の任務ができてうれしい。数多の役に立つ恋人になってやるぜ」

 ガーネットが微笑んでそう言ったので、僕もうれしかった。

 歯を磨き、濃紺のスーツを着て、玄関へ行く。

「いってきます」

「いってらっしゃい。なるべく早く帰ってきてくれよ、数多」

「いまは年度末で忙しい。あまり期待しないで待っていてくれ」


 僕は自転車通勤をしている。

 白根アパートから河城市役所本庁舎まで約10分で到着する。職住接近。満員電車に乗らなくて済むのはありがたい。学生時代の通学は、鮨詰めの電車に乗らなくてはならず大変だった。


 財政部管財課は6階建ての庁舎の5階にある。

 職員は原則としてエレベーターを使ってはならないことになっている。お客様優先と電気代節約のためだ。階段で上る。

 8時15分に自分の席に到着した。勤務開始時刻は8時30分だ。

「おはようございます」と僕はあいさつして、頭を軽く下げた。

「おはよう!」と開高剛かいこうつよし課長があいさつを返してくれた。

 豪快な性格で、仕事で失敗した部下にはすさまじい怒鳴り方をするが、カラッとしていて、しつこくは言わない。

「バカ野郎! 真心を込めて仕事しろ!」とか叫ぶだけだ。バカなんて言うと、最近はパワハラ認定されかねないが、僕は課長の叱責に後輩への愛情を感じるので、逆に感謝している。

 他の課員もあいさつを返してくれた。

 8時30分に始業のチャイムが鳴り、僕たちは忙しく働き始めた。

 3月、4月の年度末と年度始めは特に忙しい時期のひとつだ。旧年度の仕事を仕上げ、新年度の準備と立ち上げをしなければならない。


 午前10時頃に矢口聡やぐちさとし課長補佐兼管財係長に呼ばれた。

「波野くん、ちょっと」

 矢口補佐は切れ者で、仕事のチェックがきびしい。細かく注意されてつらくなるときもあるが、仕事熱心で多くのことを教えられた。優秀な中間管理職で、僕の直属の上司だ。

「はい、なんでしょうか」

「4月1日付けの人事異動で、加賀さんが生活保護課へ異動し、新人の夏川さんが入ってくる」

「はい」

 その人事異動は3月22日に内示されていた。

 僕は仕事でいろいろとお世話になった加賀早苗主任が異動することになって、とても残念に思った。

 かわりに管財係に加入することになったのは、大学新卒の新入職員、夏川カレン主事補だ。

 ベテランが抜けて、新人が来るのは、正直言って痛い。戦力ダウンだ。

「波野くん、夏川さんのメンター役をきみに任せる」

「僕が新人教育をするのですか?」

 河城市役所にはメンター制度がある。先輩職員が師匠役のメンターとなり、新人を弟子のメンティとして指導したり、相談に乗ったりするのだ。

 僕はただでさえ仕事が忙しく、その上ガーネットを買ったばかりなので、メンターを任せると言われて、一瞬で気が重くなった。


「係内で夏川さんに一番年齢が近いのはきみだ。親身になって指導してやってくれ」

 メンターは一般にメンティとあまり年齢が離れていない方がいいとされている。

 矢口補佐からそう言われてしまえば、断わることはできなかった。

 僕は気持ちを切り替えた。新人指導、やりがいのある仕事じゃないか。

 僕はまだ夏川さんと会ったことがない。4月1日に入所する新人だから、課内の誰も夏川さんを知らない。

 カレンという名前から推測して、女性だろうな。

 どんな女の子だろうか。性格がいい子だと助かるんだけど。


 僕は女性とのコミュニケーションが苦手だ。

 しかし、仕事なのだから、尻込みしてはいられない。

 がんばってやってみよう。

 別にプライベートで仲よくしようってわけじゃない。

 これはビジネスだ。

 公務員の職務の一環として、全力を注ぐぞ。

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