マンダリン・ナポレオン
私の愛するあなたへ
しばらく連絡できず、寂しい思いをさせてしまったことを許してね。
ちょっとしたアクシデントがあり、自由に動くことを制限されていただけなの。
ごめんなさい。でも、心配には及ばないわ。
ただ、あなたの愛情や体温を感じられない日々は私にとって苦痛であり、今までの甘い思い出や、あなたが口にした睦言などでいくら誤摩化そうとしてもそれは一時的な対処法に過ぎなく、正直、気が狂いそうだった。
こうしている間に、寂しがり屋のあなたの視線が他に向いてしまうかもしれない。
あなたの気が変わってしまうかもしれないと、あなたの愛情を繋ぎ止める手段がない私は、不安と嫉妬の業火で炙られているような気分だった。
けれど、苦しい時間を空虚にやり過ごしているうち、これは倫理にも悖るとわかっていながら勝手な愛に耽溺している私自身の咎なのかもしれないと、いつしか諦観できるようになったの。
同時に、長年胸に秘めていた真実を告白するのは今をおいてないような気がした。
今更、二人の間に隠し事などあるはずもないとあなたはさぞかし首を傾げていることでしょう。
無理もないわ。なんせ、私達の関係が始まってから五年以上経つんですもの。
けれど、重ねた時間と相互理解の度合いは無関係だし、ましてこの不毛な関係性。
私はいくらあなたの前で裸体を曝そうとも心まで剥き出しにすることは終ぞなかったってことかしら。
それは、していはいけないことだから。
なにも話さない私を、あなたは逆にミステリアスだと感じて何かにつけ興奮していたのを知っているわ。
男の人って、未知の領域を暴くことに夢中になる性癖のようなところがあるみたいね。
なにから話したらいいかしら。
こうして並べてみると、忌々しいことに、あなたが私に対してどれだけ無知だったのかがよくわかるわ。
なにも聞かないで、バカな人。
そんな付和雷同型人間だから、得体の知れない女にも引っ掛かるのよ。でも、そこが好き。
そうね、私とあなたの馴れ初めからにしましょう。
私があなたと出会ったのは会社の新歓。
糊が効き過ぎた慣れないスーツを着たあなたは背が高くて、周りから頭一つ分浮いていたわね。
フットボールで鍛えた体つきと寝癖が可愛いなって思ったのが第一印象。
新入社員のあなたは緊張し過ぎてなにも覚えていなかったけれど、私はあなたのグラスにビールだって注いだのよ。
私は同じ部署の先輩という立場上、音頭を取ったり盛り上げたりしなければいかなかったから、あまりあなたと接することはなかったけど、その時からあなたのことが気になっていたのは事実。
あなたのトレーナーに指名された私は、あなたを育てるべく必死になって教えた。
なんせ、あなたはのんびりした学生そのもので、取引先や上司から気が利かないと言って叱咤されることも少なくなかった。ほんとに手間のかかる後輩だったわ。
それでもなんとか自立して、そこからは営業マンとしてメキメキ頭角を表していったわね。
私は誇らしかった。
トレーナーだった私のことを一番に信用して、甘えたり頼ってきてくれることが何より嬉しかった。
その感情が、恋だと気付いてしまったのはいつからだったかしら。
でも、あなたは既婚者。
学生の頃にやらかしてしまい、若くしてできちゃった婚をしたが、しばらくして流産してしまったのだと飲みながら白状していた。つまり、妻の策略にまんまと嵌ったようなもんだなんて苦笑いをしていたけど、まんざら不幸そうには見えなかった。
私の心は揺れたわ。
初めは隠し通す気でいた。
不倫なんてなんのメリットもないこと。バカげてると思っていたし。
そもそも、私はそんなことをしなくても、相手に不自由しない立場だった。
飲む相手も遊ぶ相手も電話一つですぐに捕まる。
それを、どうしてあなたみたいな平凡極まりない男に惚れてしまったのかは謎でしかない。
きっと、すぐに飽きる。そう思っていた。そう思い込もうとしていた。
ところが、そう簡単には解決しなかったの。
あなたと接する度、話すごとにあなたに対して抱いた気持ちが段々膨らんでいくのを感じた。
どんどん辛くなっていって、どうしても誤摩化すことができなくて、途方に暮れた私はあてどなく彷徨うようになったわ。
一人で部屋にいるとおかしくなりそうで、繁華街や夜の公園を徘徊して、そうするといくらか気が紛れるような気がした。
そんなある晩だった。
奇妙な老人と出会ったの。
歩き疲れた私は、ベンチに座って噴水を眺めていた。
月のキレイな夜で、月光に照らされた噴水は、白い飛沫を上げて静止しているように見えた。
不意に涙が溢れてきたわ。
私もこの噴水と同じで、彼という月光に照らされて時間を止められているような錯覚を覚えているだけなのだ。それなのに、そんなまやかしの思いに本気になりかけている自分がいる。
落ち着かないといけないのに、昂りくる思いに飲み込まれそうになっている。一線を超えるわけにはいかないのに。私は頭を抱えて嗚咽していた。
ほんとうは本気になるのが怖かった。
私は過去に、本気になって傷付いたトラウマがある。
また同じことになるのではないか。しかも不倫だ。
激情と恐怖が鬩ぎ合っていた。
「ツラいのかい?」
嗄れた声に顔を上げると、いつの間にか車イスに乗った老人が首を傾げていたわ。
気配がなかった。一瞬人間ではないのかと身構えたけど影はある。
老人は重ねて聞いてきたわ。
「ツラいのかい?」
どう答えていいか迷っている私に構わず、老人は後ろを振り向いて何かを取り出してきた。
メロンみたいに凸凹の表面をした酒瓶みたいだった。それを私に向かって差し出してきたの。
「人生に悔いを残さない一本を!」
老人が高らかに叫ぶのと、いつの間にか現れた雲に月が隠れるのが同時だった。
一瞬の陰りのあと、再び公園に月光が投げかけられた時には老人の姿は掻き消えていたの。
全て嘘みたいな本当の話。
私の手元には一本の瓶が残った。
家に帰って確かめてみるとマンダリン・ナポレオンと表記され、あの有名な二角帽子がデザインされたラベルが巻かれた高価そうなお酒だった。
調べたら、どうやらマンダリン・オレンジが原料になっているみたいで、柑橘系が大好きな私は早速お味見。
ちょうど常備していたソーダで割って飲んでみたら、美味しくて嵌っちゃったわ。
まあ、それはいいとして、とにかく私の胸に老人の叫んだ「人生に悔いを残さない」って言葉が刺さったわけ。
ズバリ。それって今の状況。
マンダリン・オレンジの香りに背中を押されたような気がした。
私は自分の気持ちに素直になることに決めたわ。
次の週の夜、あなたを呼び出して泥酔させてホテルに誘った。
あとは、ドミノ倒しの要領。
ちょろいって言ったら失礼かもしれないけど、あなたが遊び慣れていなかったから余計に展開が速かったわ。
あなたはすぐに私に夢中になって、離婚を口にするのに時間はかからなかった。
だけど、不倫はそこからが問題になってくるもの。
離婚をするには、今の生活を全て捨てる覚悟がいる。
持ち家やマンションなんかを購入してたら余計に財産分与はどうするだとか、家同士で結託してる場合は親族にどう説明するだとか面倒臭いことがてんこ盛りなんだって、つい最近離婚した飲み友達が言っていた。離婚届一枚書けばいいって話じゃないんだって。
だからつい、いいよって言っちゃったのよ私。
このままでいいよって。
いいわけないんだけど。
一年そこらじゃまだ慈悲を出せる余裕があったってこと。
それで、あなたは私のその言葉に甘えてズルズルと関係を続けたのよね。
つまり、最低な男に成り下がった。
でも、仕方ない。あなたを愛してるから、愛する人を辛くさせたくないのなーんて成りきっちゃって。
愛のために苦しみもまた、なーんて気取っちゃって。
冷静に考えれば、都合のいいだけの女なんだけど。まあ、その時は浸ってたのよね。完全に。
障害がある方が燃えるわなーんてバカ丸出しのこと思っちゃって。いいんだけど。
だけど、一つだけ許せないことがあった。
あなたが奥さんともセックスしてるってこと。
それ知った時、怒りと嫉妬であなたの家に放火でもしに行きそうな勢いだった。
あなたはすっかり調子こいて、世の中の不倫男の典型的な言動を繰り返すようになって、私が好きだったあなたの面影はすっかり形を潜めちゃったから、正直冷めたり萎えたりすることが増えていった。
それでも、不倫って、常に嫉妬や誰かと天秤にかけられているような気になってしまう代物だから、わかっちゃいても辞められないのよ。
まるで自分の女としての価値そのものを天秤にかけられているような気になってきて、勝負心や負けず嫌いの性質がやたらと呷られる。そんなことないのに。
あなたと別れることイコール自分を全否定される方程式ができ上がっちゃって、不安に駆られるようになったら末期。
それまで興味なかったくせに、急に離婚を強請るようになるのよ。
そうすると、あなたは不倫男の見本よろしく判で押したように冷たくなったわね。
今更なに言ってんだコイツ。面倒臭いことはお断りだってね。
口にしなくてもわかってたわよ。昇進して仕事も絶好調だったからね。
私は再び苦しみ出して、仕事も休みがちになった。
あなたは心配して何度も連絡してきてくれたけど、元凶があなたなだけになんの慰めにもならない。
彼女が現れ始めたのは、そんな時だった。
彼女って、誰だかわかる?
そう。あなたの奥さん。
最初に彼女が現れたのは、会社を欠勤した三日目の昼だった。
驚いたと同時にどうしてバレたんだろうって疑問に思った。
とは言え、玄関口で追い返したら不自然だから、とりあえず部屋に招き入れたわ。
だけど、彼女は終始笑顔を崩さずに私を労る言葉をかけてくれて、それが却って不気味なくらいだった。
一時間ばかりお茶して帰っていったけど、彼女がなんの目的で訪問してきたのかは不明のままだった。
再び彼女が現れたのは、それから一週間後の夜。
部屋に引き蘢ってマンダリン・ナポレオンを飲んでたら、いきなり襲撃されたの。
「良かったらどこかに飲みに行きませんか?」って。
あなたのことを聞いたら、今夜は残業で遅くなるって連絡が来たからって言ってた。
でも、おかしいじゃない。
もう20時を回ってた。
うちの部署は営業だからそんな遅くまで残業なんて有り得ない。
ピンと来たわ。
私は彼女の目を盗んで急いであなたに電話した。
案の定、留守番電話。
私で味を占めたあなたは、他の相手を作ってたのね。それが発覚して、怒りではらわたが煮えくり返りそうだった。
そんな私に気付かない彼女が更に迫ってきた。
多分、旦那のことで思うことがあって、それを誰かに聞いてもらいたかったのね。チョイスした相手が悪かったけど。
仕方なく出かけることにしたわ。
二人で新宿に繰り出して、朝まで梯子した。
彼女は帰りたくないと言うし、私も1人でいたらなにをするかわかったもんじゃなかったから、ちょうど良かったわ。
聞けば、彼女とあなたはお互いに仮面夫婦だって言うじゃない。
チャンスって思ったけど、時既に遅し。
あなたはとっくに他の女としけこんでて。腹立たしいったらありゃしない。
その後も頻繁に彼女と逢引するうちに、事情がわかってきた。
彼女はあなたの浮気癖を前から知っていて、だから妊娠してあなたを縛ろうと思ったみたいね。だけど失敗。
子どもにも見捨てられたのって泣いてたわ。可哀想に。
私は彼女にだんだん情が沸いてきた。
利用された者同士なにかできないかしらって私が思案し始めた時、彼女が告白してきたの。
「一目見た時から好きでした」って・・
もう気付いてるわよね?
そう。
私は、君の信頼する先輩。
会社での私は、だいたいアルマーニのスーツにネクタイ、リーガルの革靴がお馴染みの姿。
眼鏡を神経質に押上げたり、コーヒーはブラックだったり、女子社員に優しくしたりして社会に擬態している。
君が気付かないのも無理はない。
歌舞伎町を生業にする私の夜の姿は別人だからね。
東北出身の母の影響で元々体毛が薄く、加えて線が細いのと美脚なのが私の強み。
こう見えて、夜の世界では結構名の知れたホステスなのよ。
さすがに性行為で気付くかと思ったけど、君が部屋を暗くするのもアナルプレイも興奮する変わった性癖を持っていたお陰で長続きしたってわけ。
すぐにわかったわ。コイツ、純情そうに見えて案外風俗行ってんなって。
でなきゃ、あんなSM紛いのマニアックなセックス有り得ない。
あんな性玩具、素人が持ってるはずないわよ。まあ、私も楽しませてもらったんだけど。
でも、これだけは言っとく。
今となっては懐かしいけど、私、本気だったんだからね。
あなたを本気で愛してた。
あなたとなら、地獄に堕ちてもいいと思ってたわ。
でもね、今、同じ台詞をあなたの奥さんから言われている。
過去形を現在進行形に変えて毎日のようにね。
彼女、あなたがいないのをいいことに、毎晩夜ばいに訪ねてくるのよ。
困っちゃうわ。
私もカミングアウトしてない立場上、理由を話す訳にもいかないからって拱いてたら、襲われてしまった。
こんなに獰猛な肉食獣のような奥様をお持ちなのに満足できないなんて信じられないわ。
家に遊びに行った時の上品で大人しそうな様子とは大違い。
正直、ビックリしてる。
いえ、もしかしたら彼女も社会に擬態していた口なのかもしれないわね。
そう思うと、好感が持てるから不思議ね。
それに、随分と床上手なのね。私もうっかり男に戻っちゃうくらいよ。
増々、あなたの浮気性の原因が不明だわ。
そんな彼女の手練手管にすっかり魅せられてしまって、最近どっちつかずになっている情けない私。
彼女はすっかり押し掛け女房になってるけど、まだ私の本性には気付いてないみたい。
本当の私を知ったらさすがに出て行ってくれるでしょう。それを期待して放置しているわ。
あなたと離婚する気もないみたいだし。
あなたたち夫婦は、こんな壊滅的な状況であってもなにかの鎖で繋がれているみたいね。
もう関係ないけど。
だから、彼女もいつかあなたの元に戻ると思うし、あなたも彼女の元に戻るんじゃないかしら。
そう考えると、あなたたち夫婦に振り回される羽目になった私はなんなの? って不満だわ。
代金を請求したいくらいよ。
あなたがこれを読む頃には会社は退職しているはずだから、二度とあなたに会うことはないだろうけど、寂しくなったら歌舞伎町に来てもいいわよ。
もし彼女が離婚したいと切り出してきたら、すんなり受理して彼女の請求通りに慰謝料も払ってやんなさいよ。
元はあんたの身から出た錆なんだから。
じゃなきゃ私が社会に向かって全て暴露するからね。
元気でね。
ばいばい。
※マンダリン・ナポレオン
十九世紀初頭、ベルギーの家庭でマンダリン・オレンジの果実酒が作られ、その酒の存在を知った皇帝ナポレオン・ボナパルトが当時のパリの演劇界のスター女優マルス嬢との夕食の際に必ずこの果実酒をすすめていたため、マンダリン・ナポレオンと呼ばれるようになった。スペイン産マンダリン・オレンジ及びタンジェリン・オレンジを原材料にしているこのオレンジ・リキュールは第一級品に分類され、オレンジ・キュラソーよりソフトで爽やかな香りが特徴だ。世界百五十カ国で認められた「柑橘系リキュールの皇帝」である。
製菓材料として使用することが多いリキュールだが、トニックやシャンパンなどの炭酸で割って爽やかな風味を堪能するのも一興だ。
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