ルジェ・クレーム・ド・カシス

 解けかかった靴紐に気付いて屈む。

 どんなにきつく結んでも、ライブが終わると緩んでいることが多いブーツ。だが、外出する時に自然と選んでしまう俺のお気に入りだ。

 きゅっと結び直して立ち上がる。

 ライブ後の楽屋は、興奮冷めやらぬテンションに、無事に終わった安堵やミスってしまった落ち込みが少しずつ混じる騒然さ。見慣れた光景だ。

 俺はメンバーに向かって片手を上げた。

「お先に」

「え? 打ち上げ、行かないんすか?」立ち上がったのは、最近入った新米ギタリスト。

 まだ二十代なだけあって、爽やかで刺のある音を搔き鳴らす男だ。ジャズは初めてと言う割りには、しっかりと馴染んでいる。

「ん、ちょっとやぶ用がな」

「でも、毎回毎回やぶ用じゃないっすか。新年一発目のライブなんすから、たまには飲みましょうよ」

 ドラムとサックスが、いいからいいから、とギタリストの両腕を掴み強制的に座らせる。

 俺は、悪いねお疲れーと手を振って楽屋を後にする。

 廊下で腐れ縁のベーシストの男とすれ違った。

 担当楽器に似て寡黙が取り柄のようなヤツは、感情の読めない鋭い視線を投げてよこす。それを見て見ぬ振りでやり過ごし、逃れるように夜の街に転がり出た。染み付いた煙草の匂いのように、ギタリストの不満の声とベーシストの一瞥が纏わり付いているような気がする。ピースを加えた口から深い溜め息が漏れた。

 仕方ないだろ。どうせ、このあとの打ち上げで、同じ会話をして進歩のない演奏を労い合って親睦を深めるんだろ。嫌なんだ。いつまで経っても注目されない立場や馴れ合い。俺はもううんざりなんだよ。

 吐き出したピースの煙が、上弦の月に照らされた紫紺色の空を曖昧に白濁させる。

 今年で五十。社会人なら定年が見えてくる歳だ。長年コツコツと勤めてきて晴れてお役御免。だが俺は・・・音楽の道に入って三十年以上になるっていうのに、知名度がないどころか功績一つ残せていない。

 焦っている。

 いや、絶望の手前。というのが正直なところだ。

 引退していった過去のメンバーの顔が、次々と浮かんでは消えていく。

 どいつもこいつも家庭の事情っていう大層な理由を掲げて辞めていったっけな。無名とは言っても何十年も音楽で食ってたヤツが今更辞めたところでマトモな職が見つかるとは思えないと呆れたが、よもやこの歳になって自分が迷う事になろうとは思わなかった。

 こんなはずじゃなかったんだ。

 俺はとっくにレコード会社と契約してデビューしていたはずだった。そう、自分の人生設計内では。

 予定外だったのは、自分の作る曲が時代錯誤だということだった。

 オーディションに応募しても審査員に首を捻られるばかり。

 だからなんだ。いいじゃないか。これが俺の個性なんだ。でも、それだけじゃ通らなかった。どうしても予選突破ができなかった。そんなことを何十年も続けてこの様。不遇をかこつわけではない。むしろ拘泥せぬよう、うまく感情を切り離してきた。そんなところばかり極めてしまった己を哀れみこそすれ、愚かとは思わない。

 心のどこかで自分に落ち度や改善点などはなく、ただただ審査員の目がないだけなのだと思い込んでいた。思い込まなければ、足下が崩れ落ちるような気がするから。

 だが、引き際は肝心だ。特にこの世界は。

 趣味ならともかく、なまじ本腰入れてるとタイミングが難しい。そうやってズルズルしてきた。

 別に音楽が嫌いになったわけじゃない。食っていけないほど貧窮しているわけでもない。長年応援してくれるファンだってついているし、ライブハウスではそこそこの人気だ。そう。そこそこ。全てにおいて、そこそこなんだ。

 オレの演奏も、毎回のライブも、バンドのメンバーも、盛り上がりも。可もなく不可もなく。そこそこ。だけど、シビアな音楽の世界、それじゃダメなんだ。いかに注目されてメジャーデビューできるかどうか。極論を言うと、たったそれだけなんだ。それを夢見て活動していると言っても過言じゃない。

 才能があるヤツは速い段階で引き抜かれていく。何十年やっていても才能の欠片がなければ、レコード会社曰く芽は出ない。

 商売道具でもある細く長い指を広げる。

 ピアノを弾くために与えられた最高の手。それが子どもの頃から俺への褒め言葉だった。

 どんなに難解な曲もすんなり弾けた俺は、いつも称賛を浴び羨ましがられていたもんだ。

 指を一本ずつ折り曲げてゆっくりと握る。だけど、プロを目指す音楽の世界には、そんな経歴のヤツ腐るほどいたんだ。

 口にくわっぱなしのピースが、いつのまにか短くなっている。足下で擦り付けて投げ捨ててから、仰いだ夜空いっぱいに白い息を吐き出した。途端に身震いが起こる。

 正月飾りがちらほら残る街に、初詣帰りなのか晴れ晴れした空気を纏った群集が流れていく。

 今夜は冷えそうだ。さっさと帰ろうと、俺は黒いコートの襟を立て猫背になって駅への道を辿る。

 いくらか歩いたところで、ふと彼の耳朶を透き通ったピアノの音色が通り過ぎた、気がした。

 職業柄、音には敏い。だが、喧騒でごった返した街に、雪のひとひらのようなその旋律は、認識する間を与えず儚く溶けてしまった。

 幻聴かもしれない。

 そう思った瞬間再び音を拾った。俺の足は、自然と音色を追う。

 透明なその音は、途切れながらも続き、俺の一足毎に輪郭を持ち始める。

 誘われるままに裏通りにある古いビルを俺が目にしたのが合図だったかのように、ぷつりと音は消えた。

 陰気な影に覆われている厳めしいビルだ。俺は入り口らしき穴に立った。

 塗装がはげ落ちた天井の罅割れから、築年数が見て取れるようだ。

 入り口から差込む月明かりに照らされた階段の影や、チラシが一枚も挟まっていない整然とした集合ポストからは静謐な雰囲気が漂う。

 先程の音は、ほんとうにここから? 俺は階段を見つめて逡巡する。

 不法侵入という言葉が浮かんで消えたが、結局階段に足をかけた。

 上弦の明るい月に見守られながら吹抜けの廊下を進む。

 しばらく歩くと、開け放された扉があった。

 このクソ寒いのに。どこの酔狂な輩かと肩を竦めた瞬間、扉の奥に広がるベルベットのような闇の中、月の光が艶やかなグランドピアノの輪郭をなぞっているのが視界に飛び込んできた。

 なんて艶容で美しいピアノなんだ・・・気付くと俺は、吸い寄せられるように扉を潜り、グランドピアノの前に佇んでいた。

 周りは闇。

 壁一面に設えられた窓から差し込む月明かりが、ピアノの他には何も見えない部屋のだだっ広さを浮かび上がらせている。影に沈んだ部屋の四方に人の気配は感じられない。

 どんな音がするのだろう?

 興味を抑えられなくなった俺はピアノに近付き、慎重に蓋を開ける。そして、小鳥に触れるようにそっと鍵盤を押した。

 よく調律されたラの音が一つ部屋に響く。それは早朝の空気のように澄んだラだった。

 俺は余韻を味わう。もう一回押してみる。柔らかいタッチといい、素晴らしい。

 何度か繰り返しているうちに、弾きたくなってきた。俺は、イスに座ると両手を鍵盤の上にそっと置いてみる。指先が微かに震えているが寒いからではない。武者震いだ。こんな上等のピアノを弾くのは久しぶりだから。

 なにを弾こうかと考えて、ショパンの「舟歌」にした。この美しいグランドピアノに相応しい曲だろう。そして、俺はゆっくりと弾き始めた。

 弾き進めるうち、どこからともなく甘美な匂いが漂い始めた。

 ベルベットのような夜の闇に包まれた森の奥。月明かりを浴びて赤紫色に輝く美女が纏う香り。もしかしたら、この部屋の主はシルクのドレスが似合う女性かもしれない。この素晴らしいグランドピアノに似た艶容な美女が、わざと扉を開けっぱなしにして、俺のように耳の肥えたピアニストを誘う。月の光の下、美しい曲を弾かせるのだ。そうして、聞き終えると、美女はお礼にといって自らの体を・・・欲望塗れの想像が暴走して悦に入っている俺の指は、気持ち悪い生き物のように動いていく。

 曲に合わせた美女との妄想が中盤に差し掛かった時。彼女もといピアノのボディを、瓶のようなもので乱暴に叩く音が鳴り響いた。

「やめろやめろやめろ!耳が腐る!下手くそがっ!」

 いつからいたのか、俺に相対するピアノの屋根にガラス瓶を握った男がだらしなく頬杖をついている。

 男は、忌々しそうに俺を睨むと、お前はなんだ!と酒臭い声で怒鳴った。

「貴様は誰だ!盗人め!人の部屋に無断で上がり込みやがって!通報してやる!」

「申し訳ないです!俺、泥棒とかじゃありません。通りかかったら、美しいピアノが見えたもので、つい・・・」

 警察沙汰になったら大変だと慌てて詫びる俺を、男はどうだかなと鼻を鳴らして見据えた。

「大方、おれが留守になるのを見計らって入り込んだんだろう!」

「目的もなにも。留守だったらなんで扉を開けっ放しにしてたんですか?」俺はつい矛盾をついてしまった。

「ふん。おれが自分の部屋の扉を開けっ放しにしようとしまいと、貴様には関係ないだろうが。そもそも、開いているからという理由で無断で他人の部屋に入っていいわけがない。不法侵入というんだ。そういうのをな。常識もわからんのか。わからんから盗人なのだからな。この盗人野郎が!」男の剣幕はますます激しくなるばかり。

「それは・・・すみません。でも、俺はなにも盗んでませんよ」

「このインペリアル・セナトールの音を、盗んだろうが!」

 俺は唖然とした。

 インペリアル・セナトールだって?

 世界三大ピアノブランドの一つ。ベーゼルドルファーの最高級フラッグシップモデルじゃないか。確か現在、日本には三台しか存在しない。俺は、慌てて目を凝らすと左端の鍵盤を確かめた。ドからソまでの白鍵が黒く塗られている。インペリアルの特徴、8オクターブ分の九十七鍵ある証拠だ。

 ははぁーどうりであの音の美しさかぁー・・・俺は感嘆の溜め息をつくと同時に、そんな最高峰ピアノのボディを瓶で叩いた男の神経を疑った。

「さあ、返せ!今すぐ返せ!さもなければ通報してやる!」

 無茶だ。いくらフラグシップモデルの最高峰ピアノとは言っても、この男はなにを言っているんだ。先程の奇行にしても、アル中で狂っているのかもしれない。関わり合いになるのは危険だ。俺はジワジワと後退る。

「貴様が、インペリアル・セナトールの音を穢したのだ!素人が気安く触るな!」カチンときた。いや、俺はと否定しかけたところを、男にまさかとは思うが、と遮られた。

「ショパンの舟歌をクソの音でゴミみたいな駄作に変えやがって。プロ、じゃねぇよなあ?」

「・・・はい。違います」思わず隠してしまった。情けないが、プロのくせにとバカにされたら、プライドが傷付く上に、立ち直れそうもないだろう。男は、だよなあーと酒臭い息を撒き散らして下品な大笑いをした。

「おれぁあんな汚らしく下品なショパン、初めて聞いたぞ。そもそも音の出し方からしてなってねぇ!バイエルからやり直したほうがいいな!」話しながら酒瓶を呷る男の左手には指が三本しかなかった。

「・・・音の出し方が悪いって、どういう」「だーかーらーなってねーんだよ!なにもかも!てんでダメだ!てんでなってねぇ!姿勢からしてな!」俺が堪忍袋を押さえて問い掛けようとした言葉が遮られた上にショックを受ける。ダメだ。話にならない。俺は逃げ出そうと思い、両掌を見せながら扉の方に後退る。

「ショパンっつーのは!こう弾くんだ!」酒瓶を足下に置いた男は、鍵盤に指を乗せた。

 驚いた。

 先程までの男の乱雑な印象はどこへやら、透き通るような繊細な音が流れ出して、空気が、変わった。

 ・・・これだ!俺は、この音に導かれてここまで来たんだ。流れるような指の動き、男の表情は穏やかで品位すら漂っている。三本しかない左手とは思えない旋律はどこまでも静かに美しく、月の光に柔らかく絡まっていくようだ。これまでの人生で何度も聞いたはずのショパンが、新鮮な響きで俺の鼓膜に浸透してくる。

 素晴らしい音色。

 音のさざ波に心地好く揺られたまま永遠にこうしてここで聞き続けていたい。病み付きになる。そんな演奏だった。

「ブラボー!素晴らしい演奏でした!」男の演奏が終わると、拍手と共に感動が俺の口から飛び出した。

 男は当たり前だとばかりに鼻を鳴らすと、ぐいっと酒瓶を呷る。甘い匂いの正体は、男が飲んでいる酒らしかった。口許を拭った男は、目が合った俺に向かって怪訝な表情を浮かべる。

「なんだ貴様は。まだそこにいたのか? さっさと出て行け!」

 俺は追われるように退散した。が、帰り道でも三本指の男の演奏が耳について離れなかった。


 俺のうちは、母子家庭だった。

 母は、ヤクルトとスナックを掛け持ちして、一生懸命俺を育ててくれたのだ。

 俺にピアノの素質があるとわかった小学生の時。誰より喜んでピアノを習いにいかせてくれたのも母だ。後に、父の音楽の才能を受け継いだのだと聞いた。俺の父は蒸発したらしい。どこの誰なのか、詳しい素性は知らない。ただ音楽をしていた。それだけだ。それと、癌に侵された母が死ぬ間際に発した謎の言葉『ひじゃりさん』。


「左手が三本指のピアニスト? さぁ知らないなぁ」

 謎のピアニストと出会った次の日、知り合いのクラシックマニアに聞いてみたが、男が何者なのかはわからなかった。

 障害を抱えているにも関わらず、あれほどの腕を持つピアニスト。しかも、日本に三台しかないインペリアル・セナトールの内の一台の持ち主だ。誰か知っているはずだと、行きつけの楽器店にもあたってみたが収穫はなかった。

 一体あの男は何者なのだ? 謎は解けないままに時間だけが過ぎようとしていたが、俺の心に引っ掛かっていたことがある。

『なってねーんだよ!なにもかも!てんでダメだ!てんでなってねー!姿勢からしてな!』バイエルからやり直せと言われた男の痛烈な言葉だ。

 ったく、ふざけんなよ。俺はこう見えてもプロなんだぞ。それを。バイエルって子どもかよ。あのショパンのどこがいけなかったんだ。俺的にはけっこう上手く弾けてたほうなのに。ショーウィンドウに映った自分の姿を確認した。

 確かに猫背だ。

 だけど、今まで弾く姿勢が悪いなんて注意されたことなんて一度もないんだぞ。俺は間違ってない。あのおっさんの頭がおかしいだけだ。そうだ。きっとそうだ。そうに違いない。そうに違いないんだ・・・

 その日のライブ終了後、俺は楽屋に引き上げていくメンバーの後ろからやや遅れて歩くベーシストを捕まえた。

 唐突なことで、やや不審そうな顔をしたベーシストは、なに? と不機嫌そうに聞いてきた。

「いや、あのさ。俺ってピアノ弾く時、どんな感じ? なのかなーと」

「チューブマンみたい」それだけ言って去ろうとする。俺はその腕を引き止めて、いや姿勢とかさと食い下がる。ベーシストは心底面倒臭いと主張する皺を眉間に寄せて振り返ると「猫背」と吐き捨てた。

 ベーシストが去った後も、ガツンと頭を殴られたような衝撃が残る。猫背ってことは、そっか。やっぱ姿勢悪いのか俺は。長年やってたのに全く気付かなかったなんて。

 その夜、俺にピアノの基礎を叩き込んでくれた先生の元を訊ねた。久しぶりだねぇと驚く先生に、改めて基礎を見直したい旨をプライドをかなぐり捨てて伝える。先生は腕を組んで頷いた。

「いい機会かもね」

 基本に返ると成る程、俺のピアノを弾く姿勢はだいぶ自己流になっているのだとわかった。

 姿勢が安定しないと手に力が入りづらくなり、結果として音に多彩な表情をつけにくくなってしまう。俺はジャズをベースとした自由な曲作りをしていたので、クラシックの弾き方を知らず知らずのうちに湾曲させてしまったらしい。

 姿勢を正すと、ジェットコースターに乗っていたような視界が落ち着いてクリアになり、指の一つ一つに神経を集中できた。すると、音が変わる。練習音源を録音し、後で聞き返すと、何十回となく聞いている曲にハッとすることが出てきた。音の粒子の立ち上がりがスッキリとしていて、水滴が寄り集まってゆっくりと広がっていくように滑らかだ。俺の演奏はこんな感じだったのだろうか? 戸惑う自分に気付いて苦笑いしながら練習する日々が何ヶ月か流れた。

 ある夜のことだ。

 寒さが薄まった濡れ羽色の空には切った爪のように細い三日月がかかっている。

 俺はいつかのビルへと向かっていた。どうしても、あの酔っぱらい男に受けた屈辱を払拭したかったのだ。所謂リベンジ。裏通りを歩きながら、いつのまにか見ず知らずの父親のことを思い出していた。

 母親が亡くなってから、俺は母親が残した『ひじゃりさん』という名の音楽家を探した。

 『ひじゃり』という苗字だと思ったからだ。探しまくった。だが、見つからなかった。見つけたかった。俺の中で何かが見つけ出せと命じた。そのためにプロのピアニストを目指すようになったのかもしれない。プロになれば様々な情報が入手できる。こうして思い返してみると、なんとも健気なことだ。自分たちを捨てた父に会ってどうしようとしたのか。存在自体があやふやゆえに、憎悪の対象にもなりきれなかった父というもの。今となっては掠れてしまった感情の理解は困難だった。

 父が本当に音楽家だったのかすら怪しいと気付いたのは30代。

 バカげている。忘れようと決めた。それが、最近になって小さな泡のように浮かび上がってくる。

 ・・・だからどうした。それがどうした。俺には関係ない。

 いつかの扉は開いていた。

 以前と違うのは、開け放された部屋から光が溢れて出していたことだ。これは意外なことだった。

 俺はそっと中を覗き見る。

 いつかの男がいた。扉を背にピアノに寄りかかり、時々黒っぽい液体が入った瓶を呷っている。

 皺くちゃのシャツとスラックス。見えない旋律をなぞるように、ベートーヴェンそっくりの白髪頭が揺れている。甘い香り。今日も酔っぱらいだ。

 俺は怒鳴られるのを覚悟で扉を叩いた。が、気付かれない。再度叩く。強めに。男はヘッドフォンでもしているかの如く依然として気付かない。

 再三叩く。更に声をかける。

 男の頭の揺れが不自然な角度に止まる。来るか。俺は息を飲む。

 五分が経過した。男は壊れた人形のように停止したままだ。

 十分が経過した。痺れを切らした俺は一歩踏み込んだ。途端に、ピアノの音が鳴り響く。男が嵐のように弾き始めたのだ。

 男の八本の指に搔き鳴らされた音が部屋に反響しながら俺を音の渦に搦め捕っていく。

 川の流れのように荒々しい旋律に揉まれながら、見え隠れする物悲しさと切なさを感じる。かと思うと唐突に、柔らかく慈悲深い深い森のような空間に包まれるのだ。

 あぁ、細胞単位で連れて行かれる。桁違いだ。俺のピアノなんて。男の足下にも及ばない。初心者だ。バイエルだ。

 俺は、いつまでも感じていたい気持ちを抑えこんで、その場から逃げ出した。

 ダメだダメだダメだ。走り去りながら、己の身の程を初めて恥じた。解けた靴紐を踏んで転びかかった。まただ。肝心なところでいつも解ける。まるで己の未熟さのように思えてしまう。いくら満足していても、このままじゃいけないんだ。忌々しい靴紐を雑に片結びにした俺は再び疾走し始めた。


「最近、奏法変わったんすね。なんかあったんすか?」

 ライブ終了後、ギタリストが声をかけてきた。

 俺は、おかしいか? と慌てて聞き返してしまう。そのアクションが意外だったようで、ギタリストは眉毛を上げて目を見開いた。

「や、オレ、ピアノのことはよくわかんないんすけど。前と比べて格段に音が引き締まってるっつーか、埋もれてないっつーか、なんつーかいいと思うっす」そう言って視線を泳がせながらアッシュグレー色の頭を掻いた。

「そっか。サンキュー」己の短所を徹底的に見直し改善に取り組み続けている効果が出ているのが嬉しかった。

 左手三本男には敵わないと思い知った夜。

 それでも俺は、少しでも近付きたくて試行錯誤を始めた。

 自分の演奏映像を見直して、あらゆる角度から検証し、それを元に特訓メニューを組んだ。

 左手三本男の演奏は、真似できるような代物ではない。完成されている。完全に男の軌跡や人生そのものだった。あの男だからなし得られているのだ。あの音は、あの旋律は、左手三本男にしか奏でられない。唯一無二のものだ。だから、俺は俺にしか出せない音を、旋律を追求していくしかないと気付いた。

 俺の人生は大した物じゃないが、幸か不幸か人並み以上の苦労をしてきた。それがそのまま生かせるとは思わないが、酔いどれ男にしか奏でられない音があるように、俺にしか出せない音だってあっていいはずだ。そうやって半年。

 なかなか思い通りにはならない。が、その苦労が楽しい。こんなに音楽に熱中するなんて、いつぶりだろう。俺はどれだけ音楽に対して怠惰だったのだろうか。プロという肩書きに胡座をかいて進化しようとせず、諦めを言い訳に怠けていたのだ。いったい何様のつもりだったのだろうか。完全に井戸の中の蛙だった。

 自分なりの音が出せるようになった暁には、再びあの部屋を訪れ、あの素晴らしいインペリアル・セナトールを弾きたい。そして、あの酔っぱらいを唸らせたい。俺は、その日を目標に据えた。

 半年が過ぎ、一年が過ぎていった。

 俺は相変わらず鍛錬の毎日。

 バンドの人気が加速し、ライブに動員できる客数が増えるにつれ、俺たちは大箱のステージに立つようになっていた。俺にレコード会社からオファーが来たのはそんな頃。ソロデビューできるチャンスだった。だが、

 自分の演奏はまだまだヒヨッコだと感じていた俺は、二の足を踏む。

 未だ自分の思うような音が出し切れてはいない。そんな状態でのデビューは線香花火になってしまうのではないだろうか。

 確かに以前とは比べ物にならないレベルに上達はしていると自負しているが、足りないのだ。

 俺の脳裏には左手三本男の演奏がこびり付き、片時も離れなかった。

 あの音の渦。巻き込まれるほどの勢い。程遠い。手が届かない。まだダメだ。全然足りない。そう思った俺はレコード会社の担当者に断りの電話を入れた。

「本当にいいんですか? あなたの歳的に、これが最後のチャンスかもしれませんよ?」

「いいんだ。俺の目指す頂は別にある」

 担当者はしばしの沈黙のあと「そうですか、でも諦めませんから」と捨て台詞を残して電話を切った。

 俺の頭には左手三本男の演奏が鳴り響いている。

 目指す頂。それが、なんだかもわからないが。迷いはない。

 俺は男の部屋を訪れることしか考えていなかった。

 そうして更に一年が過ぎた。

 バンドの人気は鰻上りで、今やジャズインディーズバンドと言えば一番にバンド名が出るほど認知度が高くなったのだ。

 俺の鍛錬は相変わらず続いている。

 実は、二、三日前の夜に意を決して男の部屋を訪れた。

 けれど、扉は閉ざされていて、冷たい木枯らしが吹き抜けていく以外の音は皆無。

 たまたまタイミングが悪かったのだ。そういうことにした。

 それから数日後の初雪が振った夜。再び訪れた。

 しかし、扉は壁画なのかと錯覚してしまうほど頑固に閉ざされたまま。ピアノの音は疎か、雪に音を吸い込まれた冷えた夜気に包囲されただけだった。それから何度訪れても、同じ景色だ。

 まるで、初めっから部屋などなかったかのように。美しいインペリアル・セナトールも、酔っぱらい左手三本指男の素晴らしいピアノの音もなにもかもが、俺の世界から忽然と消えてしまった。

 俺は少なからず動揺した。男が消えてしまったということは、俺の目標が閉ざされたのだ。

 俺は、左手三本男に思い知らせてやりたかった。幻などではない。俺は今でも男の旋律をこんなにハッキリと覚えているのだから。

 腑に落ちない俺に関係なく容赦なく月日は過ぎ、ビルは取り壊されてしまった。

 目標を失った俺はしかし、独自の音を追い求める作業を止めることはなかった。

 左手三本男が天才だったのは言うまでもない。俺は天才ではない。だが、凡人は凡人なりに、なにかを突き詰めたい。それだけだ。

 断り続けていたレコード会社の担当者が、痺れを切らしたように日に何件もの着信を入れてくるようになった。どうしても契約をしたいと言う。

 左手三本男の喪失感を抱えていた俺は、とても混乱し迷っていたのでダラダラと保留にしていた。

 そんなある日。

 リハーサル最中のこと。

 鍵盤に向かう俺の鼻腔を甘酸っぱい香りが掠めた。

 忘れるはずがない。

 この香りはあの男の・・・俺はタイミングを見て周囲を確認する。

 まさか。こんなところに、左手三本男が現れるはずもない。バーカウンターを併設している会場。照明は落とされていない。けれど、顔馴染みのスタッフばかり。あの男らしき人物はいない。

 香りは強くなる。どこだ? どこから漂ってくるんだ?

 ふっと横を見ると、ベーシストが演奏の合間合間になにか飲んでいるのが目についた。ゴブレットには黒っぽい液体。おい、と声をかける。

「それ、なに飲んでんだ?」

 ベーシストは不愉快そうな皺を眉間に寄せて、無精髭だらけの口につけていたグラスを離す。次いで目の前に掲げて検分するように眺め始めた。

「キール」

「その甘酸っぱい匂い・・・」

「白ワインにクレーム・ド・カシス」言葉少なに切り上げると、ベースのチューニングを確かめ始めた。

 左手三本男は、ずっとキールを飲んでいたのか。甘酸っぱい香りに、いつかの月夜の光景が懐かしく炙り出された。

 今となっては幻になってしまった八本指をした天才ピアニスト。

 あの夜、インペリアル・セナトールと共に現れたあいつが、三本しかない左手で俺を殴ってキールの香りを纏った転機を突きつけてきたのだ。俺は足下に視線を滑らせた。変えた靴紐はもう解けることはない。

「おい!そこ、もっと左!左に寄せて!違う!わっかんねーかなぁ、左だよ!ひじゃり!」

 照明の位置を修正していたスタッフの怒声が響いた。俺ははっと息を飲みながら顔を上げた。

 声の主は、よく日に焼けた彫りの深くて毛深い男。どうやらこの会場の責任者らしかった。

 ひじゃりは、左? そういえば、母の出身地は沖縄だ。全てが繋がった気がした。 

『ひじゃりさん』もしかしたら、あの男がそうだったのかもしれない。そうでなくても、そうであって欲しい。俺は、そんなことを巡らせながら、エフェクターの効果を確認するために屈んでいるベーシストのニット帽に声をかけた。

「なぁ、その、その酒さ・・・」

 名前が出てこず、グラスに向かってグルグル指を回している俺を一瞥したベーシストが、細い目を少しだけ見開いて面倒臭そうに立ち上がると、それと同じグラスを指した。

「迷子になってたジイさんがくれた」

「おい、そのジイさん、指全部あったか?」

 強い口調で問い質す恰好になってしまった俺に、冷やっとした眼差しを向けながら「あったけど、なに?」と答えるベーシスト。その眉間には不審さと不機嫌さを適量で混ぜ合わせたような皺が寄っている。

「いや、ならいいんだ。サンキュー」

 気まずさを隠そうとして視線を泳がせる俺を、ベーシストはじっと凝視し続けている。

「それで、ジイさん大丈夫だったのか?」

「途中まで送ったから」

「あぁそっかぁー・・・」沈黙。

 尻窄まりの意味のないやり取りをしているうちに、言いたかったなにかは行方不明だ。

 ベーシストの微動だにしない達観した視線に試されているように感じた俺は、小さな子どものように足踏みしたり頭や頬を無駄に掻いてみたりと、緊張を落ち着かせようと試みた。いや、その前にどうして俺は、この腐れ縁相手に緊張なんてしているのだろう。柄にもないなと、今までの俺なら即シャットダウンするところだ。俺はずっと一人でも平気だったんだから。

 入れ替わりの激しいバンドメンバーに必要以上の情なんてない。

 馴れ合い。労い合い。付き合い。どれも嫌いだった。

 孤独こそがより良い曲を音を産み出す源だと信じていた。だけど、

 違ったんだ。

 俺は、真に孤独であるということが、どういうことなのかを理解していなかった。

 そのくせ孤独を気取って自ら孤立していたんだ。あの男に出会ってようやく気付くことができた。

 孤独と孤立は、全く別物なのだ。

 父かもしれなかったあの三本指の天才ピアニストは、間違いなく孤独だった。

 真の孤独によって研ぎ澄まされた美しい音。そして、この世のものならざる旋律。

 紛れもなく天才だった。

 俺は天才にはなれない。

 そして、孤独にも、なれそうにない。

 バンドでの活動を生業にしている俺を取り巻いている環境を振り返ってみれば、なんだかんだといつだって騒がしい。

 俺は一生かけてもあの男のような音は出せないかもしれない。だが、

「明日、本番跳ねたら、飲みに行かないか?」

 口から出たのは採りたてのセロリみたいにシャッキリとした調子だった。自分の声じゃないみたいだと一瞬戸惑う。煙草に火を点けたベーシストが答えるより先に、通りすがりのギタリストが「行く行くー!」と元気いっぱいに手を上げて飛び込んできた。

「やっと、全員揃って打ち上げできるっすね!」ギタリストの言葉に、思わず頬が緩んだ自分がいた。

 内ポケットに入れたスマホが振動している。胸の鼓動が速くなっているのは、きっとそのせいだろう。





 ※ルジェ・クレーム・ド・カシス(リキュール・ド・カシス、クレーム・ド・カシス・ド・ディジョン)

 カシスとはベリー類の黒すぐりのことで、別名「ベリーの王様」と呼ばれるほどビタミンやポリフェノール、ミネラルが豊富で、中でも4種類のアントシアニンが含まれていることで知られる。1841年に、ラグート社が、ブルゴーニュ地方の丘陵には繁茂するカシスの実に注目して開発した。芳醇な香りと爽やかな甘さ、バランスのいい酸味を併せ持つ。フランスでは果実系リキュール生産量の40%以上を占め、別枠で取り扱われているほど生産量が多く、老若男女から愛されるリキュールである。アルコール分最低15度以上で1ℓ当たり400g以上の砂糖を含むものがクレーム・ド・カシスと表記でき、さらにブルゴーニュ地方コート・ドール地区産のカシスのみを原料にしているものはクレーム・ド・カシス・ド・ディジョンと区分される。なお、果実味が溶け込んでいるため開栓後の酸化に極端に弱い。

 度数が調整できるカシスリキュールは、ソーダやオレンジジュース、グレープフルーツ、ウーロン茶、ミルクなどで割った居酒屋でもお馴染みの「カシスソーダ」や「カシスリッキー」「カシスオレンジ」「カシスグレープフルーツ」「カシスウーロン」「カシスミルク」が一般的だが、他にも、「カシスモヒート」やワインと割る「キール」「キールロワイヤル・カーディナ」なども人気のカクテルである。更に、テキーラと組み合わせた「エル・ディアブロ」や「パリジャン」「オーロラ」といったバリエーションも見逃せない。また、シロップ感覚で、アイスにかけても美味である。

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