カンパリ

「そういえばあなた、覚えているかしら? あの時にあなたがおっしゃってたこと」

 彼女は、電車の手摺に捕まりながら重たそうなスーツケースを不安定に引き寄せた。

 平日の正午に近い時間帯。乗客も疎らな車内のシートはがら空きだ。けれど、彼女は細い両足で踏ん張って立っており、ロックの掛かっていない大きなスーツケースの取っ手を骨張った白い手でしっかりと握りしめる。

 車窓を眺めながら再びコスモス色の口を開いた。

「私、忘れられないのよ。一時だって忘れたことはないわ。あなたとの大切なロマンスですもの。でも、きっとあなたは忘れてしまったかしらねぇ。あなたにとってみれば、ちっぽけなことですもの。あの頃のあなたには、私以外にも思いを寄せられている女性が何人もいたものね。私は毎日不安で仕方なかったわ。あなたの言葉を、ほんとうに信じてもいいものかしら? って」うふふふ、と上品に笑う彼女。

 首に巻いた春の野原の色合いをした柔らかそうなスカーフが彼女と一緒に微かに揺れる。

 彼女が見つめているのは車窓の外。通り過ぎて行く景色だ。

 彼女は目を細めてしばらく眺めた後「いろーんなことがあったわねえ」と、寂しそうに呟いた。

 それからおもむろに移動してシートの端に腰を下ろす。

 スーツケースを大事そうに引き寄せると、ふっと溜め息を一つついた。

「集まりに行くのは久しぶりだわ。うふふ。皆様に忘れられていなければいいけど・・・どうして行けなかったのかしら・・・思い出した。そう。そうよ。家の用事が多かったからだわ。あなたと出掛けたりもしたものね。箱根は楽しかったわねぇ。また来年も一緒に行きましょうよ。そうだわ。来年は孫達を誘うっていうのはどうかしら。あの子達、最近はちっとも会いに来てくれないし。どうかしら? いいと思う? ほんと? じゃあ決定ね。日帰りだと疲れちゃいそうだから、泊まりがいいわよね。あの子達、温泉なんて年寄り臭いって言うかしら? でも、いいわよね。たまには孝行として付き合ってもらっても。皆で旅行なんて何十年振りかしら。嬉しいわ。きっと楽しいわね。私、今から楽しみよ」うふふふ、と彼女は幸せそうに微笑んだ。そして、ふと立ち上がって元居た乗車口に移動した。

 再び手摺を掴みながらスーツケースを引き寄せ、車窓を見つめて言葉を紡ぎ始める。

 先程から彼女の様子を見守っていた男は、まいったな、と目を閉じて天を仰いだ。

 無精髭が目立つ怪しい男は、特養(特別養護老人ホーム)でヘルパーとして働いている。

 特養に来る前は、有料老人ホームに長く勤めていたが、結婚を機に転職に踏み切ったのだった。

 今日はオフだ。

 嫁が仕事なので、一人で映画でも見に行こうかと思い立った。平日の空いた車内に乗り込み、車窓から差込む寒さが和らいだ穏やかな日差しに、うとうとと微睡むことを楽しんだ。そうして、少しして瞼を開けたら、彼女の姿が視界に入ってきたのだ。

 真っ白い髪をちょこんと団子にまとめ、よそ行きのトレンチコートを羽織る彼女は、彼が気目覚めてからかれこれ三回は同じ行動を繰り返している。

 スーツケースを持っているところを見ると、また無断で外出してきたのだろう。きっと大騒ぎになっているぞ。だが、と彼は思う。

 再びゆっくりとした動作でシートに移動する彼女。時々ふらつきながらシートに腰を落ち着けた。その様子を目で追う自分は、既に仕事モードだなと苦笑いするしかない。だが、俺は久方ぶりの連休初日。なんだ。

 見なかった振りをすればいいと、もう一人の彼が頭の後ろで囁いている。映画館のある駅は次だ。今更車輛を移動するのも面倒臭い。彼女から視線を逸らしてやり過ごせばいいか、と狸寝入りを決め込むことにする。すると、あぁ!と素っ頓狂な声が上がった。無視できない彼が目を向けると、慌てて立ち上がった彼女が扉の前で「どうしましょう、どうしましょう、どうしましょう」とパニックになっている。彼は溜め息をついた。ダーメだ。放っとけねーわ。やあれやれと腰を上げると、狼狽している老婆に近付いて「どうしました?」と声をかけた。

「お土産を買ってないのよ。どうしましょう。会の皆さんに。久しぶりに会うのに。どうしましょう。うっかりしてたわ。どうしましょう。もうここまで来てしまったから、今更引き返せないわ。どうしましょう」

「それは大変だ。お土産で買う定番があるんですか?」

「あるわ。おおありよ。幸福の会の皆様には、とらやの羊羹。いつも三十六本入りの詰め合わせ。それを五箱よ。いつもは近所の高島屋で注文するのに、うっかりしてたわ」

 彼女の発言から、二つの新事実を知った彼は小さく困惑した。

 まず、幸福の会は評判のよくない、というか悪徳として名高い信仰宗教だ。それに彼女が入会していたという事実。そして、二つ目がそこに彼女が貢いでいるらしい事実。とらやの羊羹は高額な手土産だ。それを毎回持参しているとは、金がいくらあっても足りない。あくまで彼の金銭感覚としてだが。確かに彼女は金持ちだったらしいが、あくまでも元だ。今は他の入所者と同じ身分で暮らしている。とらや羊羹の詰め合わせ五箱を買う金など所持していないはずだ。

 彼は、ワインレッド色をしたスーツケースに視線を泳がした。このスーツケースは、今の彼女の家財、全財産だ。もしかしたら、へそくりとして密かに溜め込んでいたのかもしれない。そうであっても、なけなしの金を宗教に突っ込むというのは如何なものか。彼の正義感が頭を擡げる。

「事情お察し致します。では、どうでしょう。確かこの線の終着駅、新宿にも、とらやの羊羹を販売する百貨店があったはずですよ。そこで求めてみては? ただ、ちょっとわかりにくい場所に店舗があるので、僕でよければ案内させていただきますが、どうでしょう?」

「そんな、悪いわ。あなたのご予定だっておありになるでしょうし。私のために、あなたに迷惑をかけたくはないわ」彼女はあれやこれやと丁寧な理由をつけて断ってきたが、彼は食い下がる。とうとう、彼女は折れた。

「私みたいなおばあちゃんと一緒にいたんじゃあ、あなたも恥ずかしい思いをするわ。どうぞ、少し距離を取って歩いてらして」施設の中でぴか一の品がいい言葉使いと気遣いは彼女の育ちの良さを表していた。

「構いません。どうぞ、お気になさらず。それより重そうですね。よかったらお持ちしましょうか?」スーツケースを指すと、彼女は露骨に嫌な顔をして「大丈夫です。お構いなく」と強ばった返答で撥ね除けた。

 彼女は警戒心が強い。施設でも、自分の持ち物、私物全て服から生活雑貨、タオルに至るまで絶対に職員に触らせようとはしない。具合が悪い時であろうが関係ない。清掃時に職員が少しでも無断で動かしたりしようものなら、金切り声で泥棒呼ばわりされる。なので、彼女は洗濯、掃除、ベッドメイクを全て自分で行う。

 一見すると手のかからない自立した入居者なのだが、彼女は問題児として判別されている。

 新宿駅に到着した。

 うんうんと顔を真っ赤にしてスーツケースをホームに降ろそうとする彼女に気付かれないように、彼は手を添えてサポートする。全財産が詰まったスーツケースの重量感は半端ない。

 人がごった返す駅構内。

 老婆は水に浮かぶ枯葉のようにあっちへこっちへと人に流されてガクガクとふらついている。確か膝を痛めていたはずだ。見兼ねた彼は彼女の手を引く。

 彼女は一瞬怯えた顔をしたが、大人しく彼についてきた。

「あなた、女性のサポートがお上手なのね」新宿駅の人ごみから解放され、彼女の手を離した時だった。

「うちの主人も上手なの。ねぇ。そうよね、あなた。若い頃はそりゃあプレイボーイだったのよね?」

 うふふふと少女のように笑う彼女。

 まるで、彼女の伴侶がこの場にいるかのような話しぶりだが、彼女の夫は、脳梗塞で入院してから、半身不随になり長年寝たきり状態だったと聞いている。

 確か彼女が施設に入所する三年前に癌を併発して他界しているはずである。

 彼女は病院に通い詰めていたらしい。

 亭主がなくなってしばらくは自宅で一人暮らしをしていたが、奇行や夜中の徘徊などを目撃した近隣住民が息子に知らせたことで一人では置けないと判断され、今の施設に連行された。

 入所者の誰も信用出来ず、打ち解けようとしない彼女は、常に独り言を呟いている。不安だったのだろう。

 にこりともしない意固地な態度もあって、職員の間では独り言ババアなどと侮蔑的なあだ名がついてしまった。だが、こうして他人として接している限り、ただの上品な老婦人だ。

「さっきもね、そのことを話していたのよ。ね、あなた。今度、家族で旅行に行こうって。うちの息子と孫達も誘ってね。楽しみよねって」嬉しそうな彼女に、そうなんですねーと温和な答えを返しながら、当直勤務初日から電話をかけてきた彼女の息子の怒鳴り声が苦々しく蘇ってきた。彼が当直入りして引き継ぎを受けていた時。何度も何度もしつこく鳴り響く電話の呼び出し音を聞いた時点で危険を察知できればよかったのだ。受話器を耳に当てる前に罵声が飛び出してきたので、彼は思わず受話器を落としてしまった。そのことでますます相手方の怒りがスパーク。その後はひたすら謝り倒し、結局なんの理由だったのかは最後までわからず終いだった。電話を切った彼に、古株の職員が遅まきながら忠告してきた。彼女の親族、特に息子は厄介だから気をつけて。母親からの通報や些細なことですぐに訴えると騒ぎ出すからと。遅ぇよ、と内心で毒突きながら、みたいっすねーと返した。

 とにもかくにも、徘徊、というより出奔している老婆をこのまま見過ごして、幸福の会とやらに行かせるわけにはいかないし、有り金はたいて高級羊羹を買わせるわけにもいかない。なんとか上手く誘導して、施設に連れて帰らなければ捜索願が出されることは必須だし、また息子の怒声を聞かなければいけないのだ。

「あの、腹減りませんか? もう昼ですし。とらやはここから数分のところにありますし。おれ奢りますんで、よかったら昼飯、一緒しませんか?」老婆が答えるより先に彼女の腹がなった。

「決まりですね」

 彼の案内で、二人は歌舞伎町のイタリアンレストランに落ち着いた。陽気なアコーディオンがかかる店内をハイカラな店ねぇと物珍しげに見回している老婆にメニューを渡しながら、友人が働いているんですよと彼が説明する。

「私、小さい文字が見えないのよ。だから、あなたにお任せするわ」

 彼女がメニューを返してよこしたので、彼は適当に注文する。飲み物はなににするかと聞くと、彼女はスーツケースを開けてガーネット色に輝く瓶を取り出した。

「カンパリって言うのよ。これを、ソーダで割っていただくことはできるかしら?」瓶を持ち上げて莞爾する彼女。

「相談してみますよ。それにしても上等なものをお持ちで」

 小柄な彼女に不似合いなボトル。恐らく洋酒だろうが、彼女の施設での持ち物として見たことはなかった。

「駅に向かう途中でね、車イスに乗った方が側溝に嵌って往生していたものだから」

「その方を助けたお礼というわけですか」

「却って気を使わせてしまったから申し訳なくてお断りしたんだけど、人生の一本だからって。ねぇあなた、そうよね? 意味がよくわからなかったけれど、差し出されたのがカンパリだったから思わず頂いちゃったわ」

 友人に相談すると、セルフで良ければと快承してくれたので、運ばれきたグラスに彼女から受け取ったカンパリを適当に注ぎ、別注したソーダで満たした。窓から差込む正午の日差しが、赤い気泡が踊るグラスを宝石のように彩っている。キレイな酒だなと思った。彼女も、その様子をうっとりと眺めている。そうこうしているうちに、ピザやカルパッチョを始め注文した品々がテーブルに並べられると、彼女はご馳走ねとはしゃぐ。

「あなたの大好物のアンチョビのピザがあるわ。よく二人で食べに行ったわねぇ。懐かしいわ」そう言いながら、ガーネット色をしたカンパリのソーダ割りを傾ける。いい飲みっぷりだ。

「カンパリ、お好きなんですね」

「ええ。主人とイタリアに旅行した時に、初めて飲んだの。主人と二人で太陽に向かって乾杯して。ね、あなた、そうよね? カンパリ・ソーダの透き通った真っ赤な色と、うがい薬なんて揶揄されている爽やかな苦味が、イタリアの空にも太陽にも国柄にもすごくよく合っていて、それ以来ずっと大好きなお酒の一つよ。これを飲めば、いつでもあの時のイタリアに戻ることができるもの」うふふふと幸せそうに笑う彼女。

 この人はこんなに笑う人だったのか。

 不機嫌そうにしている顔しか見たことがない彼は驚くと同時に彼女の心情を斟酌しようとする。

 不安感から頑に他人を拒み続け、空想の夫だけを話し相手に日々を過ごす。

 亭主がなくなって、独りぼっちになって、さぞかし寂しかったんだろう。

「おれも、カンパリ・ソーダ飲んでみようかな」

「そうしなさいな。イタリアを感じられること請け合いよ。ね、あなた。そういえば、ローマに着いた時に、あなたカメラを失くしちゃったのよね。覚えてる? あの時は大変だったわね。なんせ旅行のために奮発した高級カメラだったでしょう。結局、移動で使ったバスで見つかったから良かったけど。あの時のあなたの取り乱しようと言ったらもう。今思い出しても吹き出しちゃうわ。うふふふふ」そんな嬉しそうな彼女を見守りながら、運ばれてきたグラスにカンパリ・ソーダを作る。

 彼女の目には、夫はいつでもすぐ隣にいるのだ。

 生前、口がきけなくなってしまった最愛の夫に、色々と話しかけていたのだろう姿が容易に想像できる。

 返事がなくても話しかけることを辞めようとはしなかったのではないだろうか。

 話かけることを辞めてしまったら、夫が遠くに去っていってしまいそうな恐怖が、もしかしたらあったのかもしれない。彼女の空想の夫との対話は、その延長なのだろう。

 話しかけるのを辞めてしまったら、夫がほんとうに遠くに行ってしまうかもしれないから・・・

 二人はカンパリ・ソーダで乾杯した。

 彼は一口含んで、うがい薬と言われる所以を理解する。カンパリは正直、初心者の舌にとって美味とは言い難い味だった。苦味が先に立ってくる。だが、すぐに夏の午後に吹く一陣の涼風のような清爽さがシュワっと広がるのだ。邪魔な甘味が少ないので、料理との愛称もいい。なので、気付けばグラスは空になっている。気怠いアコーディオンの音と相俟って訪れたことはないが、イタリアを感じたような気になる。

「羊羹はいくつ買う予定なんですか?」頃合いを見て彼女に訊ねた。

「羊羹って、なんのことかしら?」

 覚えがないけどと小首を傾げる彼女を見ながら、彼は心でガッツポーズをする。記憶の切り替えに成功したのだ。これで悪徳宗教と高級羊羹の問題は退けられた。あとは、どうやって連れ帰るかだ。

 警戒心が強い彼女のこと。タクシーに無理矢理乗せて連れていこうとすれば大騒ぎになってしまうだろう。なにかいい手がないものだろうか。酔いが手伝って伴侶との会話も饒舌になっている赤ら顔の彼女の様子を伺いながら彼は知恵を絞った。せっかくの料理を心置きなく味わう余裕すらない。

「これから、どちらまで行かれる予定ですか?」

「どちらもなにも。世田谷の自宅に帰るんですの。主人がもうすぐ帰宅できると思うので、片付けないといけないんです」

 彼女が言う自宅が、彼女が最後に住んでいた家だとするなら、もうとっくに取り壊されている。現在は高層マンションが建っているはずで、彼女が帰る場所は残されていない。困ったなぁと彼は頭を掻く。

「世田谷ならぼくの行き先と同じですね。どちらの駅ですか?」

「駅名は・・・ええっと。ちょっと待ってちょうだい。今思い出すわ。ねぇあなた。最寄りの駅名なんだったかしら。あら、あなたも覚えてないの? もう。夫婦二人してダメねぇ」

「もしかして、府中ではないですか?」府中は彼女が入所している特養がある駅だ。

「府中? そんな駅名だったかしら? ねぇあなた。府中だったかしら?」首を傾げて思い出そうとする彼女。

 頼む。そういうことにしてくれ。なんせ今日は連休初日なんだと心で祈りながら、彼はカンパリ・ソーダを飲み、カルパッチョを口に運ぶ。炭酸で誤摩化されているとはいってもアルコール分は健在だ。

 微酔い気分の頭で、たまには妻と休みを合わせてのんびりイタリア旅行でも洒落込みたいものだなと考え始めた。

 看護師の彼の妻は、彼以上に多忙だった。

 お互いの当直が被ればいいが、ほぼすれ違いの生活に等しい。それでもやっていけてるのは、お互いに心身共にクタクタになるまで全集中しないといけない種類の仕事内容だからだろう。どちらも、人や社会に貢献している誇れる職種だ。・・・けれど。

 当直空けでフラフラの妻が、食べようとしてレンジで温めている間に寝落ちしてしまった冷凍食品を、同じく当直空けの彼が発見して再温めを待っている時などによく思う。

 けれど、これでいいのだろうか?

 妻はもうすぐ三十後半。いい加減に子どもだって欲しい。

 おれはいいが、妻はいつまでこの生活を続けられると思っているのだろう? 話し合おうにもお互いのタイミングが合わなければ何ヶ月も、下手したら半年以上先伸ばしになってしまう。

 目の前のやらなければいけない事だけに集中してしまうと、数歩先すら見えなくなってしまう。

 いいのか? このままで。

 いつのまにか思いに耽ってしまった彼を、老婆がじっと見つめている。その白みがかったガラス玉のように澄んだ瞳は、彼を畏縮させるには充分だった。酸いも甘いも知り尽くした人生を悟った者の眼差しだ。

 彼女はゆっくりと言葉を紡ぐ。

「私、府中には行きたくないわ。思い出したの。私たちは空港に行かなければいけないってことを」

「空港に行って、どうするんですか?」

「旅に出るのよ。決まっているじゃない。それ以外で空港に行く用事なんてないでしょ?」おかしなことを聞いてくる人もいたもんだと困ったような皺を寄せて苦笑いする彼女。

 どこまでがマトモでどこからが空言なのか。

「だから、親切なあなたともここでお別れね」きっぱりそう言うと、彼女はカンパリを一気に飲み干した。

「いえ、せっかくの縁ですから。よければ空港まで送りますよ。送らせてください!」思わぬ成り行きに、このままでは大変な事態に発展しそうな危機を感じた彼は慌てて懇願するように取りつく。

「まぁなんて親切な方でしょう。こんな老夫婦の身を案じて、お付き合いくださるなんて。ねぇあなた。若者の鏡ね。でも、私達は二人だけで大丈夫よ。主人は歳は取りましたけど、こう見えて若い頃は正義漢で通していたのよ。一度なんて我が家に入った泥棒をこてんぱんにしてやりましたよ。傑作だったわ」

 彼には見えない伴侶を振り返ってうふふふと可愛らしく笑う老婆。取りつくしまもない。

 困ったな。そんな彼の気持ちを知ってか知らずか、ほろ酔いの老婆はすっと立ち上がると「ご親切にどうも。ご馳走様でした。さようなら」と笑ってスーツケースを転がして出て行ってしまった。

 慌てて会計を済ました彼が外に飛び出した時既に遅し。膝を庇って歩く彼女の姿は、新宿の喧騒に溶け込んでしまっていた。

 とりあえず空港に向かうかと思い立ったが、彼女の言う空港が羽田なのか成田なのかすら聞いていないことに気付いた。

 施設に電話してみると、案の定大騒ぎになっている。

 彼女から息子を始めとした親族宛てに遺書のような手紙が届いたらしく、受話器越しでも電話が鳴り響いている音が聞こえた。苛立つ上司を相手に、ついさっきまで彼女と一緒だったと言えるタイミングを逃してしまった彼は静かに通話終了ボタンを押す。

 彼女はほんとうに伴侶と旅立つ準備をしていたのだ。

 それがわかってしまった今では、彼女の行動の全てが演技だったのではないかという気すらしてくる。

 家族は警察に捜索届けを出すだろう。警察は空港まで行くだろうか? 教えてやるべきだろうか逡巡していると息を切らした友人に肩を叩かれた。店に置き忘れていたカンパリのボトルを届けにきたのだ。礼を言って受け取ったボトルにはまだ半分以上カンパリが残っている。

 忘れ物を届けるという捜索の大義名分になるかもしれないかと赤い液体を太陽に翳すと、彼女の笑顔が見えた気がした。「おやめなさいな。親切な方」そんなことをやんわりと諭しそうな笑顔だ。

「やあれやれ・・・」

 おれは知らんぞーと溜め息をつきながら、瓶を降ろして濃度が増してきた青空を仰いだ。

 彼女と乾杯したカンパリの爽やかな苦味が口中に広がり、次いで妻の顔が浮かぶ。

 自分たちも彼女たち夫婦のように、穏やかに歳を重ねていくことができるだろうか?

 次に妻と休みがあった時には、これからのことを話し合おうと決意した。

 彼女の置き土産のカンパリ・ソーダを飲みながら。


「そういえばあなた、思い出してくれた? あの時に、あなたがおっしゃってたこと」

 麗らかな日差しが降り注ぐ車内に乗客はまだらだ。スーツケースに両手を乗せた彼女は、少しウトウトしながら終着駅を目指す。

「あの時よ、ほら。イタリアに旅行に行った時にカンパリで乾杯したじゃない? 私、一時だって忘れたことはないわ。あなたとの大切な記憶ですもの」

 ほうっと溜め息をついた彼女は視線を車窓の外に投げた。まるで、そこにかつての思い出が映し出され、それを順になぞっているような穏やかな顔つきをしている。

「死んでもいつも一緒だって」

 床に落ちた光の窓が、弧を描いて滑り寄ってくる。次々と訪れるそれは、彼女のくたびれた靴先を一瞬エナメルのように輝かせては消えていく。その様子を、目を細めて眺めていた彼女はゆっくりと瞼を閉じた。終着駅まで残りわずか。





 ※カンパリ

 ポピュラーな人気を誇る、イタリア生まれのビター系リキュール。名前の由来は、カンパリの創始者ガスパーレ・カンパリの出身地が平坦な農村地帯であり「野原の」を意味するイタリア語「カンパーレ」から来ている。度数は二十五度。宝石のような鮮やかな赤い色が特徴的である。カンパリの原料配合比率は、誕生以来門外不出となっており、ビターオレンジ果皮、キャラウェイ、コリアンダー、カルダモン、シナモン、ナツメグなど三十種類以上のハーブやスパイス類で構成されているらしい。1932年にイタリア国内で発売されたカンパリ・ソーダの小瓶が飛ぶように売れ、カンパリの人気は不動のものとなった。ビター系リキュールなので甘さは少ないが、ほろ苦味の中にハーブの風味を感じられ、女性からも好まれる傾向にある。

 飲み方としては、ソーダやオレンジジュースで割った「カンパリ・ソーダ」や「カンパリ・オレンジ」がスタンダードだが、カクテルもオススメだ。スイート・ベルモットと合わせた「アメリカーノ」や、ドライ・ジンを加えた「ネグローニ」「ルナ・ロッサ」「フレッチャロッサ」「マーノエマーノ」といった様々な飲み方がある。

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