ヒーリング・チェリー・リキュール

 最近、足の調子が悪い。杖をついて歩くなんて年寄りめいたこと。情けない。

 冷たい北風に吹かれて帰る道すがら、オムツ足りるかしら、と不安になった。確か、一週間前にドラッグストアで安売りしていたのをまとめて買ったはずだ。けれど、義母は最近失敗が多い。どうしようかと迷った末に引き返した。よたよたと歩を進めながら、どんよりと視界が黒ずんでいくのを感じた。最近いつもだ。医者にはストレス性のものだと言われた。一番どうにもできない種類のものじゃないか。

 五年前、長年闘病生活をしていた義父が亡くなった。そのあたりから、夫の帰りが遅くなり始め、遂にはたまにしか顔を出さない存在に成り果てる。余所で家庭を作ったらしいが、離婚を持ち出さないところを見ると、籍より何より親の面倒をみるのが嫌なのだろう。義母は、義父の在命中から認知症を発症し、葬儀の際にもまともに喪主を努めることができなかった。そんな義母の様子をさすがの夫も気付かなかったはずはないだろうが、特に触れもせず全てを私に任せっ放しにしている。そのための嫁の籍だとでも思っているのかしら。冗談じゃないわ。杖をつく手に力が入る。私の人生はあんたら親子の世話役のためにあるんじゃあないのよっ!

 お金にがめつい義母は、ヘルパーを必要最低限でしか呼ばない。嫁の私がいるからだ。

 あたしが若い時分にはねぇと始まるのが義母の口癖。

 病気に倒れる前の義父は、仕事もできたが女ったらしで義母の苦労が絶えなかったと聞いている。同居していた義父の両親からは責められるわ、一人息子は非行に走るわで、気の休まる暇がなかったらしい。持ち前の気丈な性格で、なんとかやりくりしてきただけに、こうなってしまうと尚更質が悪い。なんせ、自分はしっかりしていると思っているのだから。

 大荷物を抱えてやっと帰宅すると、外出前に掃除していったはずの廊下に物が散乱していた。義母がなにか探したのだとわかる。私が嫁に来た時には、あんなに整理整頓に煩い姑だったのに。

『使ったものを元の場所に戻すなんて、小ちゃい子でもできることができないのはどうしてかしらねぇ。あなた、今までどうやって生活してきたの?』なんて、嫌味とセットで大袈裟なくらいの溜め息をつく。ついていた。だけど、いざこんなとっ散らかった状況になってしまったら、むしろ私がズボラで良かったじゃないのさと苦笑いをする。キレイ好きで神経質な嫁なら大変よ。こんなの見ただけで卒倒しちゃうでしょうね。

 散らばる物を踏まないように気をつけながら買ってきたものを運ぶ。義母は、こたつに入ってテレビを見ていた。どうやら必死になって探している途中で探していたもののことを喪失したらしい。

「・・・ただいま帰りました」

 義母がテレビに向けていた視線を私に滑らせてきた。そして、この人、誰だったかしらと記憶を探っているような無表情な顔をする。思い出せれば返事をするが、思い出せなければテレビに戻る。いつものことだ。

「お腹が、減ったわ」私が誰だか、そこまでは思い出せなかったようだ。けれど、思い出せないことが恥ずかしいと思っている義母は、相手にそれを気取られないように違うことを返してきた。

「お昼ご飯の時間ですね。すぐ作りますから、少し待っててくださいね」

 会話が成立したことにほっとしたのか、義母は小さく息をついて再びテレビに目を向ける。義母が見ているのは古い水戸黄門だ。お年寄りってほんとに時代劇が好きよねぇと肩を竦ませながら台所に入る。

 簡単におうどんでもいいかしらと冷蔵庫を覗き込みながら考える。

 思い返せば最近うどんばかりだ。義母が食べるそばから忘れるのをいいことに完全に手抜きの食卓だった。いいじゃない。うどんは手軽だし、上に乗せるのをアレンジすれば取れる栄養だって変わるんだから。

 ただでさえ、食事の用意以外で手間がかかる毎日だ。

 上手に手抜きしなきゃやってられないんだから。鼻歌をうたいながらコンロに鍋をかける。沸騰したら鰹節を入れてダシとうどんを投入。火を弱めている間に、義母にお茶のお代わりを注ぎに行く。

「この人、誰だったかしらねぇ」

 お約束のお銀の入浴シーンを見つめながら呟く義母。

 その横に散らばる物達をさりげに元の場所に閉まっていく。やり過ぎは厳禁だ。それを見て思い出した義母がまた騒ぎ出すかもしれない。

 台所に戻りうどんを丼に移す。義母は卵は生派だ。三つ葉とネギを添えて居間に運んでいくと、待ちくたびれたのか義母は眠ってしまっていた。やれやれ。幼い子どもってこんな感じなのかしらと溜め息をついて、義母の前にうどんを置いた。

 私達には子どもがいない。それはそれは散々義母に叱責を受けた。『こんな尻の冷えた女なんて選んできて』と、義父にも嫌味を言われたものだ。どちらかに問題があったわけではなかったが、病院に行こうが何をしようが頑として妊娠しなかった。それもあって、夫は帰らなくなってしまったのだろうことがわかる。だって。仕方ないじゃない。こればっかりは。どうしようもないわよ。子育て経験もないので、子どもに還っていく義母を目の当たりにしても別段落胆することはない。人の人生はオメガ型だというし、こんなもんだろうと割り切れる。

 義母は、なかなか起きない。うどんは冷めてしまうが、レンジで温めなおせばいいかと、ぼんやりテレビを見ていたが、そのうちふっと壁のカレンダーに横滑りした。

 ・・・もうすぐ二人の命日だわ。

 チエコとヨシエは女学生時代からの大親友だ。

 成人してそれぞれ嫁いだ後も、誘い合って三人でよく遊びに行っていた。

 ハッキリ物を言う勝ち気な性格のチエコ。

 明るく染めたショートカットに赤い口紅をキリッとひいて、いつも素敵なショールを巻いているおしゃれさん。旦那の暴力に堪え兼ねて息子さんと二人で逃げ出してきてからは、小さなスナックを経営していたけど、二年前に膵臓癌が見つかってあっと言う間に逝ってしまった。

 穏やかで温厚な性格をしていたヨシエ。

 ふくよかな体型に合った優しい色の服を着ていて、髪にパーマをあてることをかかさなかった。ヨシエも旦那の浮気が原因で振り回されて、旦那の実家から相当嫌がらせをされたと聞いている。心優しいヨシエは精神的疲労が祟って入院。そこで乳がんが見つかって、何度か手術をしたけど転移が早くてダメだった。チエコが亡くなって、ちょうど一年後。娘さんから連絡があった時には、どうしてもっと見舞いに行かなかったのだろうと己を責めた。折しも義母の行動や言動に認知症の影がチラつき始めたそんな時期だったのだ。だけど、そんなことは言い訳にはならない。たった二人の大切な親友を相次いで亡くしてしまった喪失感は、なにを理由に掲げたところで少しも埋まってはいかなかった。二人の苦労や不運な道のりを知ってはいても、一人で取り残されてしまった悲しみが大きかった。私はこれから、なにを支えにして生きていけばいいの? 一年そこらでは答えは見つかっていない。

 そんなことを考えていたからだろうか。その夜、二人の夢を見た。

 夜の帳が降り始めた青山通りを、三人並んで歩いていた。女学生だった頃から通っていた懐かしい骨董通り。ひっそりと灯るバーの立て看板。馴染みの店へはビルの地下二階にある。二人は相変わらずお喋りで、久しぶりに大笑いをした。そう。いつだって二人と一緒に大声で笑い飛ばしていれば、大抵の問題はどうだっていいと思えた。気に病むようなことじゃない。ちっぽけなことよ。そう、思えた。

「なににするー?」と、オバさん三人、メニューに顔を寄せ合ってきゃあきゃあ言いながら注文を決める。

 この店に怖々足を踏み入れた初日、なにを頼んでいいのかわからなかった私達に初老のバーテンダーは『今の気分をおっしゃっていただければ、そのイメージで作りますよ』と言ってくれたのだ。

 その日は、長年奥手だったヨシエのファーストキス記念日だったので、そんなようなことを話した。すると、バーテンダーは『キスをしたのはどんなシチュエーションでした?』と妙な質問をしてくる。浮かれているヨシエは物陰でぇと解説し出した。バーテンダーは真剣な顔で聞き終わると承知しましたと言って、カクテルを作ってくれた・・・アレ? なんて名前のカクテルだったかしら? チエコ達に訊ねようと思って二人を振り返ると、ついさっきまで隣に座っていたはずの二人が消えていた。初老のバーテンダーが静かに氷を削っている。

「あら、ねぇ二人はどこに行っちゃったのかしら?」私の問いにバーテンダーが笑顔を向ける。

「お客様は最初からお一人でしたよ」

 タンスが引っ掻き回される音で目が覚めた。枕元の時計を見るとまだ三時だ。義母がなにかを探しているらしい。上着を引っ掛けて義母の寝室に向かうと、寝小便でもしたのだろうか、滲みのついたシーツと布団の横に脱いだオムツが放り出されている。義母はというと、濡れたままのパジャマ姿で引き出しを開けたり閉めたりしていた。おかしいわおかしいわ、とブツブツ呟いている。

「お義母さん、どうしました?」

「ないのよ、ないの。どこにもないの」

「なにが、ないんですか?」

「なにがないも、ないものはないのよ」ダメだ。聞いても無駄だなと思い、とりあえずシーツを新しいものに換えて布団を押し入れから出した。濡れているものは、明日洗うつもりでお風呂場に運ぶ。タンスを探し尽くしたらしい義母は、今度は押し入れにかかろうとしている。さすがにそれは面倒なことになると思ったので、スッキリしましょうねーと言って、簡易便器に義母を座らせた。濡れているズボンを脱がせて、ウェットシーツで股を拭いている間も義母は珍しくおとなしい。自分の体は疎か下着すらも畳ませなかったかつての義母ならありえない姿だ。

 ふと顔を上げると、義母が置いて行かれた迷子のような顔をしている。

 日に日に、欠けていっているんだわ。あんなに気丈な人だったんだもの。平気でいられるわけがないわ。

 義母自身も不安で不安で仕方ないのだろう。だから、失くしてしまった何かを、一生懸命探すのね。それを見つけられないと、自分が消えてしまうような気がするから・・・

「お義母さん、なにか温かいものでも飲みましょうか」

 放心している義母を居間に誘う。あの悲しい夢のあとでは、自分も眠れそうにない。

 こたつをつけて義母を座らせて、台所で牛乳を温める。鼻歌を口ずさみながらハチミツを取り出そうとして、ふとチャイが飲みたくなった。義母にはホットミルクだけのほうがいいだろうか? 考えた末、シナモンがかかった熱々のチャイを二つ居間に運んだ。義母はよだれを垂らして眠っていた。毛布を持ってきて肩からかけると、一人チャイを啜る。

 今日はヘルパーを頼んである。あと、数時間後には玄関のチャイムを鳴らすだろう。

 そうしたら私は大きな花束を二つ買って、港区にある納骨堂にいる二人に会いに行く。帰りにあのバーに寄る時間があるかしら? そんなことを思い巡らしながら、徐々に薄くなっていく空の色を眺めていた。


 平日の午前中ということもあり、納骨堂には静謐な空気が漂っていた。

 私は、引き出された二人の戒名に手を合わす。チエコがここを希望したと息子さんに聞いたのもあり、ヨシエはお参りに来るたびに、あたしも絶対にここに入るわと息巻いていた。娘さんによってその願いが叶ったのだろう。羨ましいことだ。私はどうだろう。私が死ぬ時に遺言を実行してくれる家族なんて、いない。

 無縁仏になるのかしら。

 自分が死んだあとのことを考えるとぞっとした。

 そもそも義母はまだいるのだろうか。もし、生きているのなら誰が面倒をみるのか。老人施設に入れるとしてもタダじゃない。なにをするにしても、お金はかかる。妹夫婦と一緒に離島で穏やかに暮らしている年老いた母に迷惑はかけたくない。だから、可能なら私もパートに出たいのだけど。自分のお墓代くらいは自分でどうにかしたいし。パンフレットをもらって青山へと向かった。

 抜けるような青空が眩しい。日差しをたっぷり浴びながら歩いているだけで幸福な気持ちになってくる。鼻歌をうたう。そういえば、これはなんの曲だったかしら? 記憶を手繰るが引っ掛かってこない。いやあねぇ、これじゃあお義母さんを責められやしない。

 スパイラルビルに差し掛かった辺りで、車イスの老人とすれ違う。その拍子に、財布のような小振りな入れ物が足下に落下してきた。老人の持ち物らしいと咄嗟に判断した私は、拾い上げて踵を返したが、思いのほか車イスのスピードが早く、表参道の入り口でやっと捕まえることができた。

「ひろってくれた!ひろってくれたのか!」

 オーバーリアクションで話す老人を見つめながら、この人も認知症なのかしらと不思議な親しみが湧いた。

「うれしい!うれしいなー!ありがたい!ありがたいなー!そうだ、おれい!おれいをしなくちゃ!」道行く人全員が振り返るぐらいの大声で、老人はストレートな感情を表現し続ける。通行人にジロジロ見られて段々気恥ずかしくなってきた。

「お礼だなんて、そんな。いいんですいいんです。気にしないでください」それじゃと言って去ろうとする私の手を掴んだ老人は、車イスにかけた大きな袋を弄って、一本の黒い瓶を取り出した。

「ヒーリング・チェリー・リキュール!人生に寄り添う一本を!」

 そう言って瓶を押し付けたかと思うと、車イスはあっという間に走り去ってしまった。

 一体なんだったのぉー? 握らされたボトルをいくら眺めても答えは書かれていない。かといって、置いていくこともできないし。仕方ないわ、溜め息をついてバッグにしまった。

 まだ、あるのかしら?

 不安を裏切るように骨董通りに懐かしい灯りが見えた。心が躍る。まるで若返った気分だ。飴色のカウンターと、蝋燭の灯りのような暖かみのある照明。トランペットの切なく間延びした音楽が迎えてくれた。変わってないわ。けれど、バーテンダーは変わっていた。だいぶ若い男性だ。あぁこの人じゃあダメだなと、落胆したがせっかく来たのだからとカウンターに座る。

 当たり前よね。もう随分来ていないし。分厚いメニューを開く。カクテルの数がとても多い。オリジナルなのか、カクテルの下にはバーテンダーのものらしきコメントが書かれている。いちいち読んでいたら夜が明けてしまうだろう。パラパラと捲って、ファーストキスの文面で目が止まる。

『ファーストキスをされた日に、初めてご来店されたお客様のためにお作りしたのが思い出深いカクテルです』

 私は、年若いバーテンダーにそのカクテルを頼んだ。次いでに聞いてみる。

「あの、以前いらっしゃった初老のバーテンダーの方はもう?」

「ああ、あれは私の父です。肝臓をやってしまいましたが、今も時々店には立ちますよ」と、爽やかな笑顔を向けてくる。これは、私のようなオバさん連はくらっといってしまうだろうな。チエコとヨシエがいたら大騒ぎだ。

「お待たせしました。キッス・イン・ザ・ダークです」

 出された華奢なグラスには、アメリカンチェリー色の液体。一口飲む。キツい。そう、この味。あの時、いの一番に飲んだヨシエが思わず卒倒しそうになったアルコール度数の強さ。色々思い出す。

 結局ヨシエは、そのキスの相手と結ばれることはなかったんだけど。今もこうして、私とこのバーで彼女の思い出が息づいている。もう一口飲む。甘さとビターな香りが嫌いじゃない。飲んでいるうちに思いついた。

 そうだわ。今度、お義母さんも連れてこようかしら。

 あんな家の中だけじゃあ息が詰まっちゃうわ。気晴らしも必要よ。

 そもそも義母は酒が飲めるのだろうか。それすら知らない。戸籍上とは言え、残されたもの同士、二人きりの家族なのだ。

 そんなことを考えていたら、急に家にいる義母のことが心配になってきた。

 以前は社交的な性格だったが、相手の情報を思い出せなくなってしまったためか、めっきり人見知りになっている義母はヘルパーが嫌いだ。

『知らない人が来たの。怖かったわ。あの人、絶対泥棒よ』と私が帰るなり報告してくる。どうやらまだ私は安心できる相手だと認識してくれているらしい。これを飲んだら、大急ぎで帰らなくちゃ。

『そうそう』どこかからチエコの声が聞こえたような気がした。頭がふうんわりしている。アルコールが廻っているんだわ。

『お土産も忘れないようにね』ヨシエ。ごめんね。私、ほんとはチエコの最後に立ち会ったのが、辛くてしょうがなくて、だからあなたに会いに行けなかったの。やせ細っていくヨシエを見ていられなくて。どうにもしてやれない自分が情けなくて。一人で置いて行かれる恐怖を感じたくなくて。だから、避けていたの。ごめんね。

 ごめんねヨシエ。

「『大丈夫』ですよ」二人の声と被った低い声。

 チェイサーを差し出していたのは、いつかのバーテンダーだった。一気に老人になってはいたが、間違いない。彼は穏やかな眼差しで、ナプキンを差し出した。いつの間にか泣いていたらしい。年若いバーテンダーは消えて、グラスは空になっている。

「すみません。みっともないところをお見せしてしまって・・・あのお会計を」慌てて顔を拭いて鼻をかんだ。

 音楽が切り変わった。母親が赤子をあやすような優しいピアノの音。しっとりと芯の強い女性の声がなぞるメロディーには覚えがある。彼女がよく口ずさむ鼻歌。そう、思い出した。カーペンターズだ。三人でよく聞いたカーペンターズのレコード。まだ見ぬ未来の自分に思いを馳せていた女学生時代。そうよ。カーペンターズ。再び涙が頬を伝っていくのを乱暴に擦る。

「チェリー・リキュールがちょっと効き過ぎたみたいですね」バーテンダーがそう言ってトレーを持ってくる。

「チェリー?」

「このカクテルに使われているリキュールです」にっこりと微笑むバーテンダー。その笑みすらも懐かしい。

「サクランボのお酒だったのね。あ、じゃあ、これもそうなのかしら?」先程の老人からもらった瓶を見せる。

「ああ、そうですね。これはヒーリング社のチェリー・リキュールです。一番スタンダードなものですよ」バーテンダーはそう言って、酒棚から同じボトルを取り出してみせた。

 あの老人は、どうしてこれを? 人生に残る一本をとか言っていたけど・・・

「もしよければ、これ、もらっていただけませんか? もらったものなんですけど、家に持って帰ってもカクテルを作れないし、家ではお酒を飲めるような余裕もないので。新品みたいなので、お店で使っていただければ・・・」

「そうですか・・・では、こうしてはいかがでしょう? お客様の名前でリザーブしておくというのは?」

「リザーブ? 私の名前で?」

「ええ。お客様が来店されたら、このリザーブされているリキュールを使ってカクテルを作らせていただきます」

「あら、素敵。そうして頂けるのなら、ぜひお願いしたいわ」

 こんな青山のバーに自分の名前が書かれた酒瓶をリザーブしておけるなんて、なんだか通っぽいとはしゃぐ私に向かって、バーテンダーはかしこまりましたと恭しくお辞儀した。

「では、ここにお名前をお願いします」差し出されたプレートに、私は自分の名前の他にチエコとヨシエの名前を書き込んだ。それを受け取ったバーテンダーは目尻に優しげな皺を寄せていた。

「あの、今度、母を連れて来てもいいでしょうか? 母は認知症なので、もしかしたら大声を出したりして、ご迷惑をおかけするかもしれないんですけど」

「ぜひお連れ下さい。いつでもお待ちしております」

 お礼を言って店を出る。グレーの空には気の早い満月がかかっていた。

 「Close To You」を口ずさみながら今夜の夕飯は、義母の好物ホワイトシチューにしようかしらと考えて渋谷に向かう。

 お土産には、ふくさ餅を買って帰ろう。きっと喜んで食べてくれるだろう。





 ※ヒーリング・チェリー・リキュール

 世界的にも知名度が高く、バーの品揃えとしても外せないデンマーク産のチェリー・リキュール。1818年、ピーター・フレデリック・サム・ヒーリングによって、コペンハーゲンで創製される。ピーターは、以前働いていた雑貨店の夫人から家伝のチェリー・リキュールの作り方を教えてもらっており、それを作って販売したところたちまち人気に火がついた。原料となる自家農園産のチェリー(さくらんぼ)は、デンマークでは昔から栽培されてきた甘味が強く大粒の食用チェリー、グリオットと呼ばれる品種の系統。それを収穫後、一部は種を除いて発酵させてチェリーワインに、残りを種ごと粉砕後、中性スピリッツに浸けて蒸留。種ごと粉砕することにより、甘やかなビター・アーモンド香が添付される。アルコール度数十四%、ダーク・ガーネット色とも称賛される濃厚なこの酒は、チェリーならではの甘味に、ワインのような繊細で華やかな風味が特徴である。

 トニック・ウォーターで割る、チェリーリキュール本来の味をシンプルに味わえるチェリー・トニックという飲み方の他、ジンと炭酸でさっぱり飲む「シンガポール・スリング」や、ジンとベルモットを加えた辛口の「キス・イン・ザ・ダーク」。ウイスキーと合わせる「ハンター」そこにベルモットとオレンジジュースを加えた「ブラッド・アンド・サンド」。日本生まれの「チェリーブロッサム」などのカクテルがある。また、「ムース・オー・タピオカ」や「タルト・オー・スリーズ」といったお菓子にも使用される。

 余談だが、ピンク・レディーがアメリカ進出した時のデビューシングル曲のタイトルも「キス・イン・ザ・ダーク」である。カクテルにかけたのかどうかは不明だが、「キス・イン・ザ・ダーク」の意味を改めて想像させる味のある曲であった。

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