ペパーミント・ジェット27
ことの起こりは、ある冬の早朝だった。
俺たち兄弟が白い息を吐きながら段ボールでできたマイホームから這い出して、かじかんだ手で薬缶を持って水飲み場に向かう途中。そのジイさんに出会っちまった。
ジイさんは車イスに乗ったまま死んだようにぐったりと項垂れていた。兄貴がいくら呼び掛けても微動だにしないから、オレは凍死してるんじゃないかと思ったんだ。だけど、違った。兄貴が必死に背中や腕を擦り続けたらジイさんはやっと瞼を押上げたんだ。死んでなかった。
「なにか食わせてくれえー」がジイさんの息も絶え絶えの第一声。つまり、飢えてたらしい。だけど、なんだって寄りにもよってホームレスばかりが集まってるこんな公園に来たのか。ホームレスなんて、その日の食うものにすら困るような身の上なのに。街中で倒れた方が、親切心に溢れた行政や生活に幾分かの余裕が残っている一般人が見過ごさないと思うから、よっぽどよさそうなもんなのになとオレは不審に思った。
だけど、人のいい兄貴は、ジイさんに俺たちが蓄えた僅かな非常食を恵んでやろうとしている。だからオレは反対したんだ。こんな得体の知れないジイさんなんて放っときゃいいだろ、オレたちに他人を助ける余裕はないと意見した。ところが、兄貴は「生きているうちに、許されているうちに、善き人たれ」とかマルクス・アウレリウスの名言をバシッと返してきてさ。明日は配給のある曜日だから、まぁいいけど。お人好し故に親から継いだ会社を潰してしまったというのに、兄貴は親父の遺言を頑に守っているんだ。
昔っからそうだった。オレより数百倍、頭脳明晰、博学才穎なくせして、情と涙に脆くて、簡単に騙される。それがいいところでもあるけど、こっちは側でハラハラし通しだ。素直な兄貴らしいけど。
ジイさんが兄貴の作ったカップラーメンにがっついているのを見守る優し気な笑顔。オレには真似できない。
カップラーメンを食べ終わったジイさんは、ありがとうありがとう助かったとお礼を言い始めた。そもそもなんでこのクソ寒い朝にあんなところで往生していたのか、オレは聞いたんだ。だけど、ジイさんはそれには答えずに、車イスの後ろに手を突っ込んで緑色のひょうたんみたいな変な形の瓶を取り出した。お礼だから受け取ってくれと言って兄貴にそれを押し付けてきたんだ。妙だなって思った。
こんなもの持ってたんなら、どうして行き倒れてた? ジイさんのごり押しに負けて、困った笑顔で渋々それを受け取る兄貴は、ジイさんに対して微塵も不審感を抱いていないみたいだった。
公園の入り口が急に騒がしくなったのはその時だ。
パトカーが止まっていて、不機嫌そうな顔をした警察官が数人こちらに向かって歩いてくるのが見えた。ホームレス連中の誰かが、なにかやらかしたんだとオレは他人事として眺めてたんだ。ところが、警察官たちはオレたちのところ目掛けて来るじゃないか。なんでだって思った時には、兄貴が逮捕されてた。銀色の手錠をかけられ困惑した顔の兄貴と目が合ってお互いに首を傾げた。
オレは「兄貴がなにをやった?」って警官に問い掛けた。そしたら、警官はジイさんを指差して「捜索願が出ている行方不明者だ」と言う。「お前たちが誘拐したんだろう」と勝手な濡れ衣を着せてきた。おいおいおい。
もう一人の警官がオレにも手錠をかけようとして近寄ってきた。兄貴が「弟は関係ない。オレが勝手にやったんだ」と叫んで、ジイさんにそうだよな? と同意を求めた。状況についていけてないのか唖然としているジイさんは兄貴に言われるが侭に、赤べこのようにコクコク頷く。おいおいおい。なんでだよ。兄貴はジイさんに親切にしただけだ。と言うか、なんで警察も、行方不明者のジイさんがここにいるってわかったんだ?
オレは真実を訴えようとしたが、それを兄貴が目で制した。『言っても無駄だ。オレは大丈夫だから』
結局オレは連行されていく兄貴の後ろ姿を見送ることしかできなかった。ジイさんも耄けたまま連れていかれちまったんだ。それが今朝までのこと。
人生で初めて入った留置所の牢屋の床は、冷たかった。
畳が敷いてあるのも関わらず冷気が這い上がってくるようだ。
俺は壁に寄りかかって窓を見上げた。白く曇った冬空からは、今にも雪が舞い落ちてきそうだ。弟はさぞかし心配していることだろう。怒髪衝天の弟を想像していると、腹の虫が情けない声を出した。朝のコーヒーを飲み損ねたことを思い出す。老人の介抱をしてたから、それどころじゃなかった。でも、おじいさん、元気になってよかったなぁと安堵する。
先程、別れた老人の姿が浮かぶ。狼狽しているようだったけど、きっと今頃、家族と再会できていることだろう。よかったよかった。それにしても、抜き差しならないこの状況はどうしたものか。老人が俺の無実を証言してくれればいいのだが、会話のは端々から認知症が入っているのが窺えた。信倚するには心ともない。
はてさて、どうしたもんかなぁ。
しばらくすると、銀色のトレーで昼食が差し出されてきた。
白い飯にみそ汁と、揚げ物にお浸しなどの副菜が揃った豪華な内容に正直驚いてしまった。牢屋に入っていたほうが、飯には困らないんじゃないのか? じわりと滲みた欲望に負けそうになる。ホームレス仲間に聞いたところによると、刑務所では三食の飯はもちろん、無料で医療を受けられて、職も与えられ、僅かながらも給金が支給されるらしい。至れり尽くせりだ。それゆえに、万引きやスリなどの軽犯罪を繰り返してわざと捕まる年寄りもいるのだとか。保険も戸籍もないに等しいホームレスにとっても、まさに天国。悪くないかもしれないと僥倖を味わいながら箸を動かしていると、弟に申し訳ない気持ちが込み上げてきた。
弟は食べ物にありつけているだろうか?
蓄えていた食料の半分は老人に食べさせてしまったが、まだ弟の分くらいは残っていたはずだ。この空模様だと更に気温が下がりそうな気配がするから、温かいものを食べて、今日を生き伸びて欲しいと願わずにはいられなかった。一緒にいてやれなくて、ごめんなぁ。
食べ終わったトレーが下がると、今度は毛布が差し出されてきた。
ありがたいと感謝しながら広げて体に巻き付ける。肌触りはゴワゴワだが分厚くて温かい。
窓を仰ぐと、灰色の雲行きになっている。今夜は雪が降るかもしれないと不安になった。家を補強しなければ。雪で圧し潰されてしまう。弟が空模様に気付いてくれればいいが・・
満腹感と温かさから瞼が重くなってきた。
俺が不甲斐ないばっかりに、弟にはいつも心配をかけっ放しだ。あいつには本当に悪いことをした。
俺の意識は遠退きながら過去に遡及していく。
親父から譲られた会社を倒産させてしまったのも、俺の責任だ。せっかく弟が苦労して取ってきた新規の取引先までふいにしてしまった。借金の肩代わりをしてしまった俺がいけなかったんだ。だけど、あの人は苦しんでいた。会社を危険に曝すことになりそうだと予測ができたが、見捨てることができなかったんだ。
困っている人は助けろというのは親父の遺言だ。だけど、弟は完全にとばっちりだった。取引先の娘さんと入籍間近だったのに。俺が弟の人生を台無しにしてしまったんだ。可哀想なことをした。
弟はまだ五十に手が届かない歳だ。まだ間に合う。せめて弟だけでもまっとうな生活に戻してやりたい。だから、俺はご破算になったかつての弟の相手に会いに行った。弟のことをまだ愛しているのなら、もう一度考えてみて欲しいと頼んだ。
けれど、彼女の反応は絶望的なものだった。
まず俺のこの姿に対して不快感を露にしていたし、弟のことを出しても冷ややかな瞳に変化は見られなかった。弟に紹介された時には穏やかで優しい女性だと感じたが、社会格差はそれぞれの人格を凌駕するらしい。それは、社長時代に付き合いのあった人間にも言えることだ。弟だけでも世話をしてくれないかと尋ねていった時にも、親父や俺に世話になっている関係上あからさまな態度こそ見せぬが、食い下がると苦笑いをしてやんわりと追い返されてしまった。
見返りを求めて親切にしていたわけではないので詮無いことだが、人の無情さが身に滲みてなんとも虚しい。
だが、なんとかして弟だけでもこの生活から脱出させてやりたい・・
雪が、降るかもしれないな。
警察は一度捕まえたものは簡単には釈放しない。兄貴が今日中に戻ってくる可能性は低いだろう。
オレは、ビニールシートを広げて家の補強をし始める。
ぱらっと降る程度ならいいが、万が一にも大雪になるようなら生死に関わる一大事だ。
家の補強を終えたオレはお湯を沸かしてコーヒーを入れる。今日はどこにも行かないほうがよさそうだ。空腹感が限界に達したら、残っているカップラーメンに手を付けようと決める。
兄貴は飯を食ったのだろうか?
牢屋は臭い飯が出るというが、少なくとも残飯よりはマシだろう。この生活を始めてから二回冬を乗り越えた。無知識未経験だった最初の年は本気で凍死するかと思ったが、兄貴と二人で協力してなんとか凌ぎきった。
そうだ。オレたちはいつだって二人でやってきた。
ガキん時からずっと二人で助け合って生きてきたんだ。
多忙で不在が多かった親父と、体が弱くて寝込んでばかりいたお袋を支えながら二人で家事を分担してこなして。成人してからは兄貴は親父の会社に、お袋が死んじまったタイミングでオレは家を出て報道の仕事に就いた。だけど、昼夜関係ない激務でオレは体を壊して実家に戻ってきた。落ち込むオレに兄貴は、神様か誰かがうちの会社で働けって言ってんだと励ましてくれたんだ。その頃の親父の会社は右肩上がりで、猫の手も借りたいほどの忙しさだったから、色々と事情を知ってる身内のオレは大歓迎だったのだろう。
実家でお袋と枕を並べて静養して元気になったオレは、親父の会社で営業として一から学びながら働くことになった。なんだかんだとあの時代が絶頂期だったのかもしれない。オレは兄貴と、まるで虫取りでもするような感覚で新しいお得意先を次々と開拓していった。
楽しかったなぁ。
話術に長けたオレと説得力のある兄貴。オレたちは向かうところ敵なしの最強のバディだった。だから、親父が倒れた後も二人で会社の経営を続けていけたんだ。兄貴の親父譲りの人の良さが仇になって倒産しちまうまで、それはそれで充実してたと思う。紛い成りにも共同経営者として会社を切り盛りしてたっていう経歴が残ったんだ。誇らしいことだとオレは思ってるけど、兄貴は歳のことを気にしているからなぁ。
ああ見えて意外と世間体を気にするタイプなんだってホームレスになって初めて知った。オレはホームレスだろうがなんだろうが、兄貴と生きていけりゃあ別に構わないんだが、兄貴はなにかにつけてオレに謝ってくる。
すまないとか、俺のせいでとか、残飯が多めに手に入ったホクホクの帰り道にそんなことを言うもんだから、正直萎えるんだ。オレはなにも気にしてないのにさ。
オレは、どんな暮らしでも、どんなにどん底でも、少なくとも兄貴っていう家族と一緒なんだ。悲しくも怖くも情けなくもない。ホームレス生活を始めた当初は色々慣れなくて、マジかあって挫けそうになることも多かったが、でもさ周りを見てみろよって言いたいね。他のホームレスやホームレスじゃないにしても一般人でも家族も恋人もいない独り身のなんと多いことか。毎日を孤独に過ごして、孤独に死んでいくんだ。ホームレスが襲撃される事件だって頻発してるが、全部独り者ばかりが狙われてる。
家族に見限られたのか捨てられたのか、それとも自分が捨てたのか。そもそも帰るところがないのか、詳しい個別の事情は知らないけど、独りぼっちほど寂しいことはない。
オレたちだけだぞ。兄弟二人で助け合って生活してるのなんて。だのに、兄貴はそこは見ないんだなぁ。
人に親切にしてこうなったんだから、自分がした親切に後悔なんてして欲しくないんだけどなぁ。
オレがいるから兄貴はそんなことを思っちまうのかな?
とにかく、オレは兄貴には普通の生活に戻って欲しいんだ。
チャラついた専門卒のオレと違って、国立大を卒業している兄貴はとにかく頭がいいし、六十になった今でもまだどうにかなると思うんだが。だけど、世間ってもんは冷たいんだな。兄貴が親切にしてやってた幾つかの会社の役員を尋ねて兄貴の雇用を頼んでみたが、どいつもこいつも虫けらでも見るような顔しやがって。オレがもう少し若ければぶん殴ってやるところだ。ちゃんと、顔は洗って汚れの少ない服で行ったんだが、ダメだったらしい。
自分たちが困っている時には、揉み手の低姿勢で近付いてきてたくせに、これが現実だ。
それでも、どうにかしてやりたいなぁ。コーヒーを飲み終わったオレは、暇なので筋トレを始めた。勤め人時代から欠かさずやっている習慣だ。筋肉自体は衰えてしまったが、筋トレをしていると気持ちが落ち着くので好きだった。そういえば、あのジイさんはどうしたかなぁ。家族に会えたんかなあ。ジイさんがくれた鮮やかな緑のボトルはみかん箱のテーブルの上に鎮座している。ジェット27と読めたが何味なのか不明だ。まぁいいや。きっと兄貴が知ってるはず。釈放されたら一緒に飲んでみるか。
寒さで目が覚めた。
自分がいるのがどこなのか、一瞬戸惑ったがすぐに思い出す。ここは留置所。俺は無実の罪で逮捕されたんだ。見上げると窓の外は闇に染まっている。どのくらい寝ていたのだろうかと己の神経の太さに驚く。
金属がぶつかるような音がして、銀色のトレーに盛られた弁当スタイルの夕飯が差込まれてきた。ハンバーグだった。空腹を感じた俺は再びがっつく。冷えてはいるが真っ当な食い物だ。しかし、これじゃあまるで豚だなと箸を動かしながら己を揶揄する。肥えはしないだろうが、生かされている状態。監視されているという視点を変えれば保護されていると言い換えることもできるから一概に悪くはないのか。
弟はどうしているだろうか?
飯は食ったのだろうか。気になって仕方がない。なんせ、ホームレスとなってからは、常に一緒に行動し、離れたことはなかった。今回が初めてだ。些細なことで喧嘩をすることはあったが、丸一日不在にすることはまずなかった。不在にするような用事もないしな。だから、余計に弟がどうしているかが気にかかる。雪対策はしたのだろうか? 俺は目の前にある半分残ったハンバーグをじっと見つめた。これを持って帰ることができれば・・しかし、突然のことだったので当たり前だが、タッパは疎かビニール袋すら持ってきていなかった。せめてパンがあれば良かったのになぁと肩を落としながら、明日には出れる心算でいるがその約束はどこにもない。
あの老人は、俺の無実を証言してくれただろうか?
ここは段ボールハウスより居心地はいいが、やはり弟がいないのは頂けない。かといって、弟に犯罪を薦めたくはない。犯罪者はホームレスより下だ。刑務所は確かに衣食住が保障されている。だが、人としてそれだけは避けたいし、弟にもそうなって欲しくはない。だが、熱血タイプの弟のことだ。もし、俺がこのまま投獄されるとなれば、自分も何かしらの軽犯罪を犯して刑務所まで乗り込んできそうな気配がする。俺たちの身分上、弁護士を雇うことはできないから法廷でやりあうことはできないだろうから。そうなったら困ったもんだ。確か拘束時間は72時間ほどだったはず。なるべく早目に解放してくれるといいのだが・・
深夜、寒くて目が覚めると雪が降ってきていた。
紙屑みたいな雪だったので積もる心配はなさそうだが、それにしても冷える。ホームレスになって何度か雪は経験したし雪に閉じ込められたこともあった。けど、ここまで冷えを感じはしなかった。兄貴がいないからかなぁ。
抱き合って寝てるわけでも、寄り添って暖をとっているわけでもねーのに、なんでかな。二人でいる時に感じなかった冷えが襲う。なんだかな。これが孤独ってやつなのかもなぁ。だとしたら、ホームレスにしても一般人にしてもお一人様はやっぱしんどいな。誰もいない寂しさだけじゃなく、寒さにまで耐えなきゃならん。そりゃあ、死んでしまうわ。オレもこのままボッチ続いたらヤバいな。話し相手もいなくて、朝から晩まで来る日も来る日も一人で暮らしていけるんかなぁ。兄貴がいたって過去があるから正直言って、孤独感が増すだろうしなぁ。自信ねーな。時の流れが今感じてるよりはるかに遅くなるんだろうから、それが辛くて毎日親父とお袋の墓参りに行っちまうかもしれん。終いには墓場に居すくかもしれん。それって、もう幽霊みたいなもんだなぁ。生きてんだか死んでんだかわかったもんじゃねーなぁ。つか、兄貴いつ帰ってくるんだろう?
このまま、兄貴の罪が晴れなくて刑務所にぶち込まれたらどうすっかなぁ。オレも行こっかな、刑務所。そこらに歩いてる小学生をちょっと拉致するとか、万引きとか銀行強盗とかなんか適当な軽犯罪して捕まったほうが早いよな。きっと。あーでもダメだ。それきっと、兄貴に怒られるやつだ。兄貴だけじゃなく親父にも怒られるだろうな。犯罪なんて人として最低なことはするなって、いつも言ってるからなぁ。オレは別に目的のために手段は選ばない派だから別に構わないんだけど。オレのこういうところ、くそ真面目な兄貴は嫌いだから、いっつも怒られるからな。むー・・・止めとくかぁ。じゃあ、どうするか。あ、ジジイだ!
あのジイさんのところに出向いて、ジイさんの家族に無実を証言してもらうほうが手っ取り早そうだ。なんか痴呆入ってるっぽかったから、ジイさんが覚えているかが若干不安なんだが、これしかねぇ。うし。明日の朝いちからジイさん探しを始めよう。とりあえず、考えがまとまったのでオレは再び冷えた寝床に這いずりこんだ。
明日の朝、凍死してませんようにと祈りながら。
翌朝、朝飯が差込まれる音で目が覚めた。
看守に今の状況を訊こうと思っていた俺は寝過ごした己を責めながら、朝食に手を付け始めた。
弟の好物の塩鮭だ。箸が止まる。鮭だけでも持ち帰れないものだろうかと考えを巡らす。鮭をほぐして白米に入れ込んで握り飯のようにすればいいのではないかとポケットを漁るがなにも見つからない。それもそのはず。ここの入れられる前に、身体検査をされて怪しいと思われるものは全て提出させられたのだ。四つに畳んだ新聞紙の切れ端などなんの役にも立たないだろうが、その時に没収されたことを思い出す。困ったなぁ。俺は看守に声をかけてなにかをもらおうとしたが、看守は鼻の頭に皺を寄せただけで無視された。だが、この鮭はなんとしても持ち帰りたい。どうしたものかと腕を組んで思案しているとズボンの後ろポケットがほつれていたことを思い出した。
これだ!俺は早速ズボンを脱ぐと、後ろポケットを挽き出して破いた。それから、鮭をほぐして白米で包んで握り飯にするとポケットのキレイな方の布地で包んで、ズボンの右ポケットにしまった。左ポケットにはパック牛乳を入れる。これでよし。満足して顔を上げると、眉間に皺を寄せた看守と目があった。なにか言われるかと慌てて視線を逸らせたが、看守は特になにも言ってはこない。その日の午後、俺は出所した。
徘徊が日常茶飯事だった老人の家族は、まさかこんな大事になるとは思っていなかったらしく、諸々の手続きに手間取ってしまったようだ。なにはともあれ、俺は晴れて娑婆に戻ってこれた。弟のことが気になった。
ポケットから例の鮭握りを取り出して、大切に抱えた。きっと弟は朝飯がまだだろうから、これを喜んで食べてくれるだろう。弟の喜ぶ顔を想像して頬が緩む。
住居を構える公園の入り口辺りに人集りができていた。パトカーが止まっている。またか、と嫌な予感に駆られた。いったい今度はなんだ? 野次馬を押しのけて公園内に入る。警官が複数とその後ろに広げられた青いビニールシート。俺の足が止まる。
あそこは・・
俺たち兄弟が住居を構えていた場所だ。体中から血の気が引いた。昨夜は雪がちらついたほど気温が下がったのだと、電気屋の店頭に並べられたテレビに映ったニュースで知った。まさか・・!
俺の手にした鮭握りがガタガタと震え始めた。重たい足を引きずるようにしてビニールシートで覆われた場所に向かう。警官が、なんだあんたと言って行く手を塞いだ。
「弟が・・」それしか言えなかった。だが警官はそれだけで察したらしく、すんなり道を空けた。
俺はビニールシートを捲った。懐かしさすら感じる俺たち兄弟の段ボールハウス。ビニールシートでしっかりと補強されている。俺は手をつくと、入り口から中を覗きこんだ。人が横たわっている。毛布に包まって後ろを向いているので弟かどうかはわからないが、ここに寝ているのだから間違いないだろう。ああ・・・なんてことだ!
俺は弟の亡骸に縋って泣いた。俺が老人を助けたばっかりに、弟を失うことになるなんて!
公園の入り口が騒がしかった。
なんだ、なんだ? ぴょんぴょん飛び上がるとパトカーが見えた。げ。またかよ。今度はなんだよ。オレは別ルートから公園内に侵入することにした。近所の野良猫しか知らない獣道。そこを通ればオレたちのハウスまで近道できる。今の季節は、そこまで葉が茂ってないから音もそんなしない。結局、昨夜は寝れなかったので、朝まで筋トレや走り込み、素振りなどをやって時間を潰した。それから川縁のジョギングに出て、そのまま近辺でジイさんの聞き込みをして今帰ってきた。聞き込みの収穫はゼロ。このままじゃヤバい。警官の後ろ手から回り込んで、住処の裏手に出た。入り口の前に青いビニールシートがかかっている。誰だか知らないが、オレが留守にしている隙に雪が吹き込まないように親切にシートで覆ってくれたらしい。シートが足りなくて入り口だけが剥き出しだったからな。それにしては、覆い方が雑だ。誰だよ下手くそ。アレ、中に誰かいるぞ。兄貴なわけないだろうと思ったオレは四つん這いになって中に声をかけた。なるべく脅すような低い声でだ。
「おい、ここが俺たち兄弟の家だってわかって入ってんのか?」
入り口で踞って毛布の塊を抱えていた背中がビクっと跳ねた。ゆっくりと振り向くその顔。なぜか泣きっ面の兄貴だった。オレはほっとして笑った。
「兄貴!早かったんだなぁ。心配したぜ。なんで泣いてんだ?」オレがいなかったからかと思ったのも束の間、兄貴が抱いていた毛布の塊を見て仰天した。それはこの公園のホームレスのボスを気取っていた嫌味なレゲエジジイ。虚ろな半目に口を開けて、死んでいるのが一目でわかった。三つ編みにしたフケだらけの汚らしい髭先までカチカチに硬直している。どうしてこいつが俺たちの住処にいるんだ?
「おまえ・・良かった!俺、てっきり・・」
「おいおい兄貴、しっかりしてくれよ。一日ムショで過ごしただけで、オレとレゲエジジイの区別もつかなくなっちまったのか?」まったく勘弁してくれよなーと文句を言うと、兄貴はすまんすまんと笑った。まあいいけど。それにしても、どうしてレゲエジジイは俺たちの家で寝ている上に死んでんだ? 迷惑極まりない。
よく見ると、レゲエジジイの側には空の紙コップ。腕には、あのジイさんがくれた緑の酒瓶を抱いている。開栓された瓶の中身は半分にまで減っている。コイツ・・オレが走り込みに出た隙を狙って、これを飲みに来たんだな。大方、寒くて眠れないから酒でも飲もうと思って各テントを覗いてたんだろう。ちょうどオレが留守にした間に、これを見つけて一気に飲んで、急性アルコール中毒にでもなって死んだんだろう。アホなヤツだ。普段から、人の食料を盗んだり勝手に物を使ったりと、えげつないジジイではあったが、最後までどうしようもない死に方だな。オレは軽蔑と呆れを込めた目でレゲエジジイを眺めていたが、頭に大きな同情の水瓶を持つ兄貴は痛ましそうな目で見ていた。
まあ、なにはともあれ兄貴が戻ってきてくれて安心した。オレは、レゲエジジイがしっかと抱いていた酒瓶を引き剥がしにかかる。これは兄貴があのジイさんにもらったもんだ。オレ達だってまだ飲んでねーのに、先に飲んでんじゃねぇよ。やっとこ取り戻すと、兄貴はレゲエジジイを入り口から外に引き摺り出した。
警察はホームレス相手だと事件にすらしない。野良犬や野良猫の死骸と同じだ。オレたちと関係ないことを話すと、それ以上は特に事情徴収もせず、面倒臭そうにレゲエジジイをグレーの納体袋で包んで引き上げていった。
弟が颯爽と現れたことで、俺が抱き寄せていたのが他人だとわかった。同時に安堵した。
「なに泣いてんだよ!」といつもの調子で片眉だけを上げて聞いてくる懐かしい弟。
「まさか、オレだと思ったの? それ」おいおい、しっかりしてくれよなーと笑う。元気そうだ。
俺たちの住処で死んでいたのは、この公園のボスを自称する通称レゲイジイさん。弟の推測では、昨日の老人絡みの一件を見物していたレゲエジイさんが弟がいない隙に勝手に入り込んで飲んで死んだのではないかと言う。多分間違っていないだろう。だが、人形のように冷たく堅くなっているレゲエジイさんを間近で見た時、可哀想な人だなと思った。いつも横柄でカースト意識が強かった人だったから、どういう経緯でホームレスになっていたのかは最後まで知ることはなかったが、神経質な性格や勘定に長けているところを見るにきっと、元々はきちんとした立場の人間だったのではあるまいか。余程のことがあったのだろうと憶測する。家族は彼を迎えに来てくれるのだろうか。来て欲しいが・・そうして、横で酒瓶からエメラルドグリーンの酒を紙コップに次ぐ弟を見た。
俺たちも他人事じゃない。明日は我が身だ。
「お、これ、ハッカの匂いがするぞ。ペパーミントの酒っぽいな。オレ飲めっかなぁ。ミント苦手なんだよなー」
弟の言葉を聞いて、俺は左ポケットからパック牛乳を取り出した。俺の体温で若干温められた牛乳を酒が入ったコップ注ぐ。若葉色の酒はたちまち翡翠色に変わった。
「グラスホッパーもどき」俺が言い終わる前に口をつけた弟がうめえーと歓喜した。
「あと、これ。どうせ飯、食ってないんだろ?」潰れた鮭握りを差し出す。
「食うの忘れてたわ。よくわかったな。超能力者かよ!」とおにぎりを受け取ってがっつく弟。
「なんか、この握り飯、兄貴臭えな。もっとマシなもんで包めなかったのかよー」と笑顔で文句を垂らす。
「それしかなかったんだ。仕方ないだろ」
「嬉しいけどさーちゃんとした鮭なんて何年かぶりだわ」うめえーと連呼しながら味わっている。俺はそんな弟の姿を横目に、グラスホッパーに口をつけた。クリーミィなハッカのキャンディーのような懐かしい味がする。母が好きでよく舐めていたハッカの飴を思い出した。それを舐めていた母はだから、吐息がハッカの匂いだった。久しく墓参りに行っていない。明日、墓参りに行こう。今回の色々を墓前で報告しよう。そんなことを考えていると、入り口に人の気配を感じた。
「あのぉ、すいませぇーん」間延びした女性の声だ。
こんな吹き溜まりに何の用かと、俺は返事をすると四つん這いになって外に這い出た。
眼下に広がる宝石箱のような夜景を目の当たりにしたオレは、だが今でも信じられない。
兄貴とグラスホッパーを味わっている時に訪ねてきた小綺麗な恰好をした女性は、誰もが一度は耳にしたことがある超有名企業を経営する男の孫娘だと名乗った。そんな雲の上の人種がこんなところに何の用だろうとオレは耳を澄ましていたが、兄貴と女はヒソヒソと話していたので聞き取れなかったんだ。少しすると、兄貴が青い顔で入ってきて、ちょっと行ってくると言って女と一緒に出かけた。オレだけ蚊帳の外だ。仕方ないから筋トレをして兄貴を待つことにした。でも、夜になっても兄貴は戻ってこなかった。嫌な予感が過り始めた頃、黒服の男たちが現れたんだ。男たちは、オレに必要な物だけ持って付いて来いと、公園の入り口につけた黒いリムジンの後部座席を示した。いやはや、さすがにビックリしたよ。
「いや、やめとく。オレ汚い恰好してるから、シート汚しちまうよ」そう言って辞退しようとすると、どこからかビニールシートを引っ張り出してきてリムジンのシートをすっぽり覆った。これならいいだろうと言うので、渋々乗車。オレが臭いからって理由をつけて窓を全開にさせて、なにかあればいつでも窓から飛び出して逃走できるように配慮した。リムジンが着いた先は、デカいビル。見上げるとビルの上方に企業ロゴが見えた。兄貴を拉致していった女の所属する会社だ。立派な車寄せを前にオレはビビった。黒服に降りろと言われたが、さすがにこの恰好で踏み入るような場所じゃない。それを伝えると、黒服は誰かに電話し始めた。リムジンのドアが閉まり、オレは別の場所に連れて行かれた。青山通りを通過して到着したのは一軒の豪邸だ。黒服に背中を押されて跨いだエントランスにはシャンデリアが輝き、赤い絨毯が敷き詰められている。なんだここは?
戸惑うオレを数人の男女のメイドが包囲し、二階へと連行される。オレは風呂で垢を落とされ、髭を逸られ、散髪された。歯磨きをして身なりが整え終わると、用意されたスーツと革靴に身を包み階下へと降りる。スーツを着るのは久しぶりだったが、袖を通すと自然に背筋がすっと伸びるから不思議だ。ビニールシートが取り払われたリムジンの後部座席に座って、再び先程のビルへと向かう。今度は大丈夫。昔取った杵柄か動作の一つ一つに気を払いながら受付を通ってエレベーターに乗り込む。そうして通されたのが、ここ。
見晴らしのいい応接室だ。
弟が到着したと知らせがあったらしい。
俺は彼女との話を中断して、下の階の応接室に向かう。
弟はきっと、なにがなにやらわからずに混乱をきたしていることだろう。俺だってそうだったんだ。無理もない。応接室には、夜景をバックにして佇むスーツ姿の男がいた。かつての弟そのものだった。
「驚いたろ」と声をかけると、振り返って爆笑する弟。清潔感が漂うさっぱりした顔をしていた。
「兄貴、そのまんまかよ。オレ、気後れしたから、着替えさせてもらっちゃったよー」
弟が俺の恰好のことを言っているのだと気付くまで時間がかかった。確かにそのまんま来てしまった。慌てていたから仕方ない。なんせ、ことは急を要した。
彼女の祖父であるこの企業のボスは、かつて小さな町工場を経営していた。うちの親父とと旧知の仲で、俺もよく知っている。ところが、その町工場が地上げ屋の策略に嵌って破産させられてしまい、それを助けようとした親父はヤクザから目を付けられてしまう。それでもなんとかしようとした親父は工場に残っていた借金の肩代わりを引き受け、当時出せるだけの財産を全て彼に持たせて夜逃げさせたのだ。当時のうちの会社は景気が良かったので、そこまでしても取り返せるだけの目処があったのだ。その後、借金を完済し、地上げ屋に二度と彼と彼の家族に近寄らない誓約書を書かせ、その分の金まで払った。親父が死ぬ気で助けた相手だった。その彼が先日息を引き取る間際に残した遺言書に、うちのことが書かれていたというのだ。
親父が死んだ後、うちの会社が倒産したことを風の噂に知った彼は、今こそ親父へ恩を返す時だと、長年俺たちの行方を探していたらしい。警察や行政にも依頼して捜索していたが、ホームレスになった俺たちは見つからず、仕方なく遺言をしたためた。俺たちを見つけた暁には、俺たちを会社に迎え入れて戦力になってもらうようにと。
彼には息子がいなかったこともあったのだろう。
そんな折、俺が警察に逮捕されて、名前や生年月日など諸々を含めて個人情報を取られた。その情報が警察からリークされて孫娘が訪問してきたというわけだ。そこまでを簡単に説明し終えると、弟がつまりと切り出した。
「オレたち、ここで働けるってこと?」
「そういうことらしい。だが、今の俺たちが果たしてこの会社の戦力になれるかどうかが」
「兄貴なら大丈夫だろ。鈍ら刀になってても打ち直せばいい」
「おまえこそ。筋トレを継続していた甲斐があったな。スーツが恐ろしく似合う」そこかよと笑って突っ込む弟。先程から弟に向けられた孫娘の熱い視線にはまだ気付いていないらしい。
「そう言えば、コレ、忘れずに持ってきたぜ」そう言って、弟はジェット27を持ち上げた。
「そうだな。せっかくだから、これで乾杯といくか」
「グラスホッパーで頼むよ。お嬢さんも一緒にどうだい?」
「ではぁお言葉に甘えていただきまぁす。グラスホッパー好きなのでぇ」
孫娘はのんびりした言葉からは、想像し難いキビキビした動きでヒールの音を響かせて応接室の端に設えられたバーカウンターに近付くと、シェーカーを取り出し次いでメジャーカップとホワイトカカオリキュールとクリームを並べていく。その手つきは慣れたものだった。
「本格的だね。それに材料がよく揃っていたもんだ」と弟が感心すると、孫娘は頬を染めながら、こう見えて元バーテンダーだったんですぅと答えた。カクテルグラスが三人分。彼女がシェカーを振っているのを眺めながら、俺は弟に向かって口を開いた。
「なぁこのジェット27をくれた時におじいさんが言ってたこと、覚えてるか?」
「いや。わかんね。なんか言ってたのか?」
「ああ。人生に活路を見出す一本をって」
「へぇージイさん上手いこと言ったな。その通りじゃん」
そう言って満足そうに笑う弟の背後に広がる夜景の空を一筋の流れ星が走り抜けていった。
※ペパーミント・ジェット27
口に含めば清涼感を、胃に入れば消化促進を促すペパーミント・リキュールのトップを走り続けるジェット27。南フランスに住むジェット兄弟によって開発された。科学の才能に恵まれた兄のピエールと経営の才能を持つ弟のジャン。緑色の石油ランプ型をしたユニークなボトルに赤いラベルとキャップのデザインを思いついたのはジャンだ。27とは当時のアルコール度数だったが、現在は21度に変わっている。原料のミントは南フランス、イギリス、モロッコ、ポーランド、日本のものなどを使用。フレッシュで上質な風味はミントキャンディーを思わせる。そして、ジェット27と言えば「グラスホッパー」。バッタと名付けられたこのカクテルは、ホワイト・カカオとクリームを合わせてシェイクしたチョコミントのようなまろやかな味が特徴で女性人気も高い。また、美しい色合いを楽しむならジンと合わせた「青い珊瑚礁」もオススメだ。
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