クレームド巨峰紫
今日の夕飯、どうしようかしら?
西日が差込む居間で、取り込んだばかりの洗濯物に手をつけながら考え始めた。
とりあえず、アイロン掛けしなければいけないワイシャツやハンカチをまず除ける。
確か、このあいだ買った特売の豚ロースの薄切り肉があったはずだわと、手にした夫の靴下をくるっと畳む。続いて、自分のと娘の淡い色の靴下をくるくるっと畳む。
今夜は豚しゃぶなんかどうかしら。バスタオル、フェイスタオル、手ふきタオルの順に畳んでいく。
ロースなら脂身も少ないし、野菜もとれるわ。夫の下着に取りかかる。愛用しているグンゼのブリーフに小さな穴を発見した。繕わないといけない。これもアイロン用衣料同様に脇に除ける。
この間、ワイドショーを見ていたら最近よくテレビで見かける若い女優が、豚しゃぶをレタスで巻いて食べていると公言していたから、レタスも用意してみようと思いついて、自分と娘の下着を丁寧に畳む。
ヘルシーだから、あの子もきっと喜んで食べてくれるわ。ブラウスに伸ばした手をふと止めた。
昨夜は、夫の誕生日だったので、うっかり夫の好物のトンカツを出してしまったのだ。
降りてきた娘は、鼻に皺を寄せて穢らわしいものでも見るような目でトンカツを睨むと、脱兎の如く階段を駆け上がっていった。娘なりに父親の古稀を祝おうとしたらしく、階段に小さなブーケが落ちていた。
溜め息をついてブラウスを掴むと、手早く畳んで娘のトレーナーを引き摺り出す。
主役である夫の希望を優先してしまったが、やはり無難に鍋などにすればよかった。トレーナーを大切に畳む指先に後悔が滲む。昨夜、久しぶりに真正面から見た娘の顔は、また痩けていた。
台所の蛍光灯の下、肉が刮げ落ちた頬と落ち窪んだ目が影を纏い、骸骨を思わせた。明らかに痩せ過ぎだ。
それは夫も同様に感じたことだろうが、その後二人きりで寂しくトンカツをつついている時には触れてこなかった。娘のダイエットは今に始まったことではないが、最近尋常ではない痩せ方をしているのが気になってしょうがない。お菓子や炭酸飲料だけを苛々しながら排除していた学生時代が可愛らしく思える。今の娘は、カロリー以前に食物と分類できるものは、水やお茶以外ほぼ手をつけようとはしない。
最初の頃は、我慢しているのが表情やお腹の音でわかった。が、最近では、空腹自体を感じていないようなのだ。拒食症という言葉が浮かぶ。
数ヶ月前に突然、苦労して就職した念願の勤め先を退職してきたことと関係があるのだろう。
突然の事後報告だったため、なんと答えていいのか狼狽える自分に代わって夫が「おまえが決めたのなら、私たちに異存はないよ」と言った。謝るでも泣くでもなく、然りとて清々した顔をするでもなく、眉間に僅かな皺を寄せて空虚な瞳で両親を見返してきた娘。その後からだ。
思うようにいかない就活と不採用の通知にノイローゼ気味になった娘は、ストレスが高じて過食に走り出した。
それまで避けていたジャンクフードやお菓子、飲料水などを積極的に摂取し、けれど太る恐怖を捨て切れず嘔吐する。その繰り返しで、終いにはそれを食事全般でやるようになってしまった。
また一つ溜め息が漏れる。畳み終わった娘の服や下着をひとまとめにしてソファーの上に乗せた。
いつのまにか西日は陰り、居間を暮色が染めている。
強ばる膝を庇ってよっこらしょと立ち上がると、台所に行って冷蔵庫を開けた。
買ってきたばかりの食パンが一袋、消えていた。それからソーセージとスライスチーズと牛乳。
娘が大量に食べて吐くようになってからは、なるべく手軽に食べられるインスタント食品を始めとしたジャンクフードやお菓子、菓子パンなどは極力置かないようにしていたのだが、とうとう、食パンにまで手を出し始めたらしい。冷蔵庫内から隣にあるトースターに視線を滑らすが、使った形跡は見当たらなかったので、なにもせずに冷たいままで食べたのだろう。
今朝まではあったから、今日の、昼頃、恐らくお隣に回覧板を回しに出た隙を見て食べたようだ。お隣の老人の長話にダラダラと付き合ってしまったことが悔やまれた。この分じゃ今夜は降りてこないだろうと肩を落とす。豚しゃぶは変更を余儀なくされた。さすがの娘も生肉には手を出さないので、置いておいても大丈夫だろう。
ソーセージは、生のまま食べたのかしら? 冷凍庫から鮭を二匹取り出しながら、ふと心配になった。小さい頃からお腹が痛くなりやすかった娘は、夏にアイスクリームを食べただけで下痢を起こすくらいデリケートな体質だ。それなのに、いくら加工されているとはいえ、火を通していないソーセージだなんて。お腹にある時間が短いし消化される前に出ちゃうから大丈夫なのかしら。そんな憶測をしながら夕飯の仕度を始めた。
娘は遅くできた子だった。
妊娠を諦め始めた四十後半になって初めて授かった念願の女の子。元気な泣き声を上げて産まれてきて、小さな手で大人の指を握りながらにぱっと笑う愛らしい赤ん坊だった娘は、低体重だったのが嘘のようにミルクをたくさん飲んですくすく育ち、周りから食いしん坊と笑われるくらいにご飯の時間をなにより楽しみにしていた。幼い娘に食べる楽しさをもっと味わって欲しくて、色んな料理を勉強して作っていたあの頃。
娘は幼稚園の頃からかけっこが得意で、小学校に上がると更に運動能力が高まり、中高一貫して陸上部に所属していた。特に長距離で才能を開花させ、県大会や駅伝にも選手として何度も出場し、その時に授与された表彰状やトロフィーは今でも大切に飾られている。
娘の大会や駅伝の日は、夫婦揃って早起きし、カロリーや栄養が計算され尽くしたお弁当や食事を用意して、娘を送り届けた足でそのまま応援に立ち回るのが恒例の楽しみだった。
娘を溺愛していた夫は、普段の物静かな性格はどこへやら、出場している本人よりも騒がしく一喜一憂し、長年連れ添っていた妻をその都度唖然とさせた。
夫譲りの控え目で生真面目な性格をしている娘は、どんなに優秀な結果を残しても決して浮かれることはない。もっといいタイムを。もっと上を目指しているようだった。そんな娘が、希望の進学先として提示してきたのは経済大学だ。夫婦が意外に感じたのは、娘はてっきりそのままマラソンで生きていくのかと思っていたからだった。
さすがの夫も動揺して、この時ばかりは、娘の意思を確かめるための言葉を口にした。
「いいの。ここで」娘の意思は堅く、ぶれなかった。
鮭の焼け具合を確かめながらグリルの火を弱めた。コンロの上では、雪平に満たされた出し汁の中で小さなサイコロ型の豆腐がクルクルと踊っている。青菜を探すために野菜庫を開けた。
大学生活の最初のうちは、順調だった。
小松菜を取り出す手が止まる。野菜庫にひっそりと眠る夫の楽しみ、好物のあんこ玉。小ぶりの箱の中は昨夜、夫が一つ食べたそのままの数が揃っている。あんこ玉が夫の唯一の好物だと知っているので、さすがの娘も手はつけないのだろう。それとも見つけられていないのか。
ほっと胸を撫で下ろして野菜庫を閉めた途端、これじゃあまるで娘に怯えているようじゃないのと自身に対しての憤りが込み上げてきて激しく首を振った。娘だって苦しんでいるのだ。
大学三年生になったあたりから、娘は急に体型を気にし出すようになった。
マラソンで鍛え上げられた体型を維持していた娘は、太っているわけでも筋肉質なわけでもなく、むしろ標準よりスリムに見えるくらいだったのだが、それでも頻りに太っているとブツブツ言いながら脹脛を揉むのだ。
娘はジャンクフードとお菓子断ちをすると宣言し、次の週辺りに飲み物の制限が始まった。ヘルシーと呼ばれる食生活を実践し、毎日の生活に半身浴や運動を取り入れた。マラソンを辞めて、運動不足ではないかと危惧していたので、いい機会だとその時は応援していたが、生来が生真面目な娘は減量を追及し、どんどんのめり込んでしまったのだ。
雪平の火を弱め、鮭の火を止めながら深い溜め息をつく。
あの時、止めていればよかったのかしら・・
もしも、なんて一度でも脳裏を過ってしまったら、後悔ばかりが数珠繋ぎに出てきてしまう。だから、彼女は無視するように努めている。いくら後悔したところで現状は変わらないからだ。
小松菜を洗って切ってから雪平に投入する。小松菜に火が通ったところを見計らって味噌を溶く。あとは、残り物の筑前煮があるから、夫が帰宅したタイミングで温めて出せばいいだろう。
大学生時代に、娘の定期入れから、男の子の写真が覗いているのを見かけたことがある。なかなか整った顔立ちの男の子だった。娘の思い人なのかしらと、見なかった振りをしてそっと定期入れに戻した。そういえば、あの時以来、あの男の子の写真を見た記憶がないわねと、洗っていたまな板から時計へと視線を移す。
いつの間にやら八時を回っている。
夫の帰宅時間はいつも決まって七時だ。珍しく残業でもしてるのかしらと水道の蛇口を捻って、手を拭きながらスマートフォンに手を伸ばすと、家の電話がけたたましく鳴り響いた。
「はい、もしもし」
早口なのに妙な慇懃さを感じさせる相手は警察だと名乗った。
「免許証を確認させてもらいました。こちらの名前と風貌、お宅の旦那さんで間違いないですか?」
「・・ええ、はい。うちの主人が、なにか?」
「駅の構内で突然倒れられたそうです。病院に運ばれましたが、お亡くなりになられました。医師の診断では突発性虚血心不全だということです。遺体確認をしていただきたいのでー」急激に相手の声が遠くなっていった。
夫が亡くなった? 嘘よ。そんなの嘘に決まってるわ。そんなわけない。うそうそうそうそうそ・・
階段が軋む音がした。見上げると暗闇に紛れて骸骨のように変わり果てた娘が、こちらの様子を窺っている。その姿が一瞬死神に見えた。見えてしまった。幸せな家族を引き裂く死神に。視界が霞んでいく。電話の向こうの声が戻ってきた。今度はやけに大きく響いてくる。
「もしもし? もしもし? 奥さん? 聞いてますか?」
夫の葬儀は、お茶漬けをかきこみようにサラサラと進む。
告別式だけの簡素な形にしたこともあるが、なにより眼前を自動的に流れていく映像つきの時間に、彼女の意識が追いついていけてなかった。まだどこかで、これはなにかの間違いだと思っている。あそこの棺の中で冷たくなって横たわっているのは夫によく似ているけれど、きっと全ては夢かなにかで、目を覚ましたらいつものように夫は生きて動いているのではないか。きっとそうだ。そうに違いない。そうじゃなきゃダメよ。自分自身に言い聞かすように何度も何度も同じ言葉を脳内で回転させることに無意識の全てをつぎ込んでいた。
夫の入った棺を霊柩車へ移乗させるために式場の外に出ると、うろこ雲が広がる青空の下を赤とんぼが飛び交っているのが、彼女の霞んだ目に鮮やかな手触りを持って飛び込んできた。
美しい世界が、彼女の強ばった両頬を温かい水で洗い緩めていく。
そんな神々しくも感じられる秋晴れの元に骨と皮だけの哀れな姿を曝してしまった娘は、喪服の肩を小さく震わせながら、喪主である母親の後ろに佇んで静かに涙を流している。伸びっ放しになった髪を後ろでまとめていて前髪もないので余計に顔の骨張った輪郭が露になっていた。そんな娘に、参列した夫の会社の仲間や友人、親戚が怪訝な一瞥を容赦なく投げつけてきた。彼女は怯える娘を庇ってやることすらできない。
事件は火葬場からの帰り道で起きた。
骨壺を抱いた娘が、脱水と貧血を起こして車道に倒れ込み、乗用車に轢かれそうになったのだ。
間一髪で乗用車が止まったからよかったものの、そうでなければ娘は夫の後を追うことになっただろう。意識が朦朧となっていても骨壺だけはしっかりと胸に抱えて震えながら踞っている娘に駆け寄った時、平手打ちを食らったように彼女の意識が覚醒した。
あたしがこの子を守ってあげなければ!
数日後、届いた仏壇の設置もそこそこに、嫌がる娘を神経内科がある病院へ引っ張って行った。
思いのほか、混み合った明るい雰囲気の待合室に拍子抜けしながらも、待つこと二時間。一通りのカウンセリングを受けた後、今後の通院計画や普段の生活で気をつけることを説明され、必要に応じて服用できるように安定剤が処方された。
娘は始終体を震わせており、医師の問いに答える久しぶりに聞く娘の声は隙間風のように掠れていた。厚めの生地でできたズボンの上からでもわかる骨そのものの太さしかない足の上に乗った不安げに握られた骨張った拳からは、かつてのような生命力は消え失せ、代わりに異質な匂いが漂っている。冷たく硬直した夫の体から発散されていた匂いと同じ種類だとわかって、背中を冷や汗が伝う。どうして今まで気付かなかったのかしら。
夫が冷たくなった体だけを残して、永遠に動かなくなってしまった恐怖がフラッシュバックしてきて動悸を誘発する。辛そうに顔を歪めて俯き続ける娘。どうにかしなきゃ。この子まで失うなんて、耐えられないわ。
会計を済ませて病院のエントランスから外に出る。
「お昼はどうしようか」歩きながらつい口からこぼれた。真っ白い蝋人形のような顔に皺を寄せて母親の後をついてきていた娘が、外の眩しさに目を細めた瞬間、いきなり横倒しになった。
「ああ!すまない!すまない!だいじょうぶかあー!ケガはないかぁー!わるかった!ごめんなさい!」
叫び声に振り返ると、手をついて横向きに倒れた娘に向かって車イスに乗った老人が取り乱した様子で謝っていた。娘に駆け寄って声をかけると、大丈夫と呟いて服の埃を払い出したので対してことないとわかって安心した。老人は、人を轢いちまったと連呼しながらパニックになっている。
「大丈夫ですよ。怪我もないですし」と声をかけるが、老人はすまないすまないと繰り返すばかり。
「ソラがまぶしかったから、ついメをつぶっちまったんだ!こんなことになるとはおもわなかったんだ!」あああぁぁーと絶望して両手で顔を覆う老人。皺と滲みだらけのその手を白く細い手が包んだ。娘の手だった。
「落ち着いて。ホラ、あたし大丈夫」
老人がはっと娘の手を握り返して顔を凝視した。あぁまただと思った。この老人も他の人間と同じように、娘の顔を見て不吉なものを見たような不愉快極まりない顔をするのだろう。とっさに二人の間に入ろうと踏み出した。
「おじょうちゃん、ツラいことがたくさんあったんだねえ。じぶんをけずって、ひっしにしのいできたんだねえ」不憫だなあーと老人が子どものように泣き出した。娘は老人に手を握られたまま、どうしていいかわからずオロオロと困っている。
「大丈夫。あたし大丈夫だから」
必死に訴える娘の言葉に、老人の泣き声がおいおいと被さっていく。そうしてしばらくして、やっと泣き終わった老人は車イスの後ろから紫色の瓶を一本取り出すと、娘の手にそっと握らせた。
「これは、おじょうちゃんにぶつかっちまったおわびだ。なにもいわずに、うけとっておくれ」
でも、と心細気に母親を振り返る娘と目を合わせて思案する。
「人生をやり直す一本を!」
唐突にそう叫んだ老人に二人が視線を戻すと、さっきまでいたはずの老人の姿が掻き消えている。
「あれ? え、うそ・・」周囲をいくら見渡しても、老人らしき人物は見当たらない。狐につままれたような気分になった二人は、紫と書かれた瓶を同時に見下ろした。不思議なこともあるものだ。
「・・帰ろっか」
どちらからともなく、帰路についた。
紅葉し始めたポプラ並木を歩いている時、娘は少し先を歩いている母親の手に目がいった。爪が短く切られた母の手は、いつも温かくて皺くちゃで乾いている。子どもの頃よくつないだ手だ。片手は、父のゴツゴツした大きな手とつないでいた。もう父はいない。優しかった父とは二度と会えない。数日前の父の誕生日の夜が浮かんで、後悔に締め付けられる。あのブーケ、ちゃんと顔見て渡せたらどんなに・・翌朝、ありがとうと書かれたメモが置いてあったことを思い出して泣きたくなった。あれが最後の父とのやりとりだったのだ。
いつも陰ながら応援してくれる父が大好きだった。それなのに、自分は・・最後まで親不孝だった。足が止まる。娘が立ち止まったことに気付かない母が、少しずつ遠ざかっていく。引き止めようとしても声が出なかった。
待って・・
待って・・おかあさん!
後ろを歩いているはずの娘の気配が途切れたことに少しして気付いた母は、急いで振り返った。娘は一メートル以上先で立ち竦んでいる。顔面蒼白で項垂れる娘の姿が今にも崩れてしまいそうに見えて、慌てて娘の元に走り寄った。娘は苦痛に顔を歪めている。やはりどこか怪我していたのだと思い、タクシーを拾おうと提案した。
「・・お かぁ さ ん」噛み締めた唇を僅かに開き、絞り出すように言葉を発する娘。
「大丈夫よ。すぐに、」慣れないスマートフォンを操作しようとする母の手を娘が握ってきた。思いのほか力強いその手はぶるぶる震えている。片方の手で娘の手を包んで擦りながら、思い返せば、夫が亡くなってからずっと娘は怯えるように震えていることに気付いた。この子も不安で仕方ないんだわ。
『自分を削って必死に凌いできたんだねえ』老人が言っていた言葉を思い出す。娘は、夫に似てあまり多くを語らない子だ。だから、油断していた。そして、気にしなかったのだ。娘がこんな状態になってもなお。愚鈍な母親。親失格だ。震えながらも必死に握ってくる娘の手は、赤ん坊だった頃となにも変わっていないのに。己の未熟さに嫌気を催しながら苦々しく唇を噛んだ彼女は、娘の手を引いてゆっくりと歩き出した。
庭に植わっている梅の蕾が、白く膨らみ始めたのが夜目にもわかる季節になった。
娘の通院は地道に続いていた。
けれど、目を見張るような劇的変化は見られない。
食べることに関しては、一進一退の状態。けれど、以前よりも母娘の会話が増えたことが喜ばしかった。僅かだが夫の遺族年金が入ってくるので、贅沢せずに暮らせば娘にゆっくり付き合うことができそうだ。焦らせるような言動は一番いけないのだと主治医からもキツく注意されている。娘はそれでなくても神経質で生真面目なので、その性格が裏目に出ているのだとも。他人を介して娘について学んで認識し直している。情けないことだと思う。
誰より一番近くにいた親の立場であるくせに。娘の苦しみ一つ見えていなかったのだ。
子どもの意思を尊重するのと、なにも聞かずに放置するのとは違う。
子どもが人知れず悩んでいたり苦しんでいるのを見抜けてこその親の存在なのではないか。子どもは様々な問題行動を起こして、自らの身を削ってなんとか親にわかってもらおうとする。そもそも、普通に生活できなくなっている時点で気付かなければいけなかったのに、完璧に親失格だ。娘が患う摂食障害や鬱病の理解を深めるその都度、自責の念が立ち上がってくる。だけど、ダメだ。それを娘に気付かれてはいけない。娘は更に不安になって自分を虐げるだろう。弱気になると途端に夫に縋りたくなってくる。もう夫はいないし、それじゃいけないのだ。大丈夫。あたしはあの子の母親。大丈夫。結果を急いではいけない。
夫が亡くなって半年後、娘が四十歳の誕生日を迎えた。
卓上コンロで湯気を立てる水炊きを二人でつつく。水炊きは娘が手伝ってくれた共作。ゆっくりではあるが、少しずつ確実に口へと食物を運ぶ娘。その様子を見て安堵の息を密かについた。母親が常に一緒にいるからなのか、娘の無駄食いや嘔吐が劇的に減っていたのだ。
『いい時と悪い時を繰り返す、それがこの病気の特徴です。だから長期戦なんだ。気を抜かないでください』
主治医の警告は心得ているつもりだ。だが、目の前の現状が嬉しいのは事実だった。つい浮かれて口を滑らす。
「実は、ケーキもあるのよ。ゼリーだけど」
「食べられるかな・・」浮かない顔を向ける娘。
「無理しないで。食べられたらで大丈夫だから」
「そっか・・でも、」がんばると蚊の鳴くような声で締めくくって俯いてしまった。ふと、自分はいつもこうやってこの子に我慢を強いてきたのかもしれないと思い当たった。選択肢があるように見せておいて、実は相手の親切心や配慮を軽んじることができない優しさや律儀さを利用している。
「なんだか、お母さんもお腹一杯になってきちゃったわ。ごめん、ゼリーは明日でもいい?」
母の提案に娘はほっとしてこくこく頷いた。
「代わりに、アレ飲んでみたい。いいかな?」珍しく提案する娘が指した先には、夫の仏壇に供えた紫色の瓶。
「ブドウのリキュールなんだって。ソーダとかで割るとおいしいって」
「じゃあ、飲んでみましょうか」
確かお父さんの晩酌用の買い置きにーとシンク棚を探すと未開封の炭酸水を見つけた。娘が仏壇から持ってきたリキュールの蓋相手に苦戦している。蓋を捻るために必要な余力がないのだ。ギブアップした娘から瓶を受け取って蓋を開けると赤紫色な液体をグラスに注ぐ。巨峰の芳醇な香りが広がる。巨峰を潰しているのを目の当たりにしているような新鮮な芳香だ。
「うわぁいい匂い・・」深呼吸を繰り返す娘を微笑ましく見遣りながら、グラスをソーダで満たしていく。
「おいしそう」
娘の前にグラスを置いた第一声がそれだった。何度も匂いを嗅いで興奮している娘。久しぶりに見たそんな無邪気な姿に目尻が熱くなる。いつまでも、そのままの純粋さで生きていって欲しいと願った遠い日。それが叶わず、荒波に揉まれながら、この子は独りぼっちでどれだけのものを削ぎ落としてきたのかしら。
夕食後、居間のソファーで眠ってしまった娘の額にかかった髪の毛をそっと払ってやる。
慣れない体にリキュールのアルコールが覿面に回ったのもあるが、最近の娘はすぐに眠ってしまうのだ。それが、まるで着実に死に向かっているように思えてしまい、気が狂いそうになるのを必死に耐える。
娘の皮だけの頬を撫でる。かつてのふっくらと健康的な曲線を持った娘の顔は、彼女の作った食べ物によって作られていた。娘はこうなることで抗議をし続けていたのだろう。ずっと、気付かなくてごめんね・・こぼれた涙が頬にかかり、娘が嫌そうに少し顔をしかめたので慌てて立ち上がって片付けをしに台所に撤退した。
そう、悲観に暮れている暇はない。洗い物を終わらせると、娘を起こして寝支度を整えさせてから部屋へと送る。規則正しい生活リズムは回復への第一歩だ。アルコール度数が低いとはいえ、お酒を飲んでしまったので、用心して入浴はせずにシャワーをさっと浴びる。もう高齢に足をつっこむような歳なのだ。無理は禁物。飲酒してお風呂で亡くなったなんて、この歳になれば珍しいことではない。万が一にもそんなことになったら、あの子はいったいどうなるの? 想像するのも恐ろしい。自分はまだまだ頑張らなければいけないのだ。
意気込みも新たに寝室に上がり布団を敷いていると、娘が入ってきた。
「一緒に、寝ちゃダメ?」遠慮がちに聞いてきた。
「ダメな理由なんてないわよ。早く入りなさい」そうして入ってきた娘の冷たくなった手足を擦る。くすぐったいのか笑い声を上げて身をよじる娘。それを抱きしめた。久しぶりに腕に抱いた娘は骨張って細く、今にもポッキリと折れてしまいそうだ。鼻の奥が痛くなった。
「・・おかあさんの、手」不意に娘が母の手を握り、目の前にもってきた。
「ふふ。もう滲みだらけのシワシワよ。おばあちゃんの手ね」途端に娘の元気がなくなった。
母親の腕の中深くに顔を潜らせて、黙り込んだ。暫くするとくぐもった声で話し始めた。
「・・おかあさん、あのね」耳を澄ませていないと聞き逃してしまいそうなほど、喘ぐような小さな声だ。
「あたし・・会社落ちこぼれ ちゃってね」うんうんと大きく頷く母。
「それが 原因で、失恋 した の・・」最後は涙声だった。娘は堰を切ったように泣き出した。
ああ、やっぱりそうなのだ。なんとなくそんな気配はしていたが、聞いて逆に傷つけることになってしまったらと敢えて沈黙を守ってきた。でもこんなことなら、もっと早くに聞いてあげればよかったわ。戦慄く娘の背中を肩を、よしよしと擦り続けながら後悔が胸を染めていた。
「・・おか あ さ あ、あたし も ダ メか なあ こ、こん なで よ よんじゅ になっちゃ」
「大丈夫よ。大丈夫。どうにかなるから。やり直せるから、大丈夫よ」
そうだ。生きてさえいれば人生は何度でもやり直せる。生きてさえいれば、どうにかなる。だから、大丈夫。それしか言えなかった。そうするしかないと思ったから。どうにかしていくしかないのだ。誰も助けてなんてくれない。これは、娘と自分の試練なのだ。だけど、きっとまだ間に合う。今からならまだ、どうにかなる。娘の独白を聞きながら希望を見出した。間違ってない。この子は大丈夫。生きていける。だから、大丈夫を繰り返した。けれど、娘の泣き声は止むどころか増々大きくなっていく。
「・・ごめ な さい ! おかあ さ ん ご めん な さ !」娘がしがみついてきた。
「いいのよ、いいの。大丈夫だから」大丈夫だから。それを何度も繰り返した。娘を落ち着かせるために、自分に言い聞かせるように。気付くと娘を落ち着かせるために子守唄を口ずさんでいた。赤ん坊の頃から寝かしつける時に歌っていた「椰子の実」。
「名も知らぬ 遠き島より 流れよる椰子の実一つ 故郷の岸を 離れて 汝はそも 波に幾月ー」
しばらくすると娘はぴーぴーと寝息を立て始めた。その顔をそっと拭う齢八十五の母は、まだ死ねないわと唇を噛み締める。
「一緒に、やり直しましょうね」縮こまっている娘の両手を包み込む。
なんとしても、なんとかやっていくしかないのだ。この子と二人で生ききってみせるわ。
そんな二人を夫の写真がそっと見守っていた。
※クレームド巨峰紫
日本が誇るブランド、サントリーが生んだ国産巨峰を贅沢に使ったリキュールである。高級ブドウが原料となっているだけあり、まるで濃厚なブドウジュースのような香り高く芳醇な味わいが特徴的だ。拘りのラベルには、源氏物語画帖から若紫のかな文字が書かれた和紙と、落款のモチーフが組合わさった和の趣きが詰め込まれている。
非常にカクテルにしやすいリキュールであり、シンプルに巨峰を味わえるソーダやトニック、レモンスカッシュ、シャンパンなどの炭酸と割ってもよし、オレンジやグレープフルーツ、パイン、クランベリーなどのフルーツジュースと合わせてもいい万能さ。日本人に好まれる味を追及した究極の葡萄リキュールと言えるだろう。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます