カルーア

 彼女は、いつも自由奔放だった。

 彼女の武器は、ダンスをするために生まれてきたようなしなやかな骨格と肉付きを有する柔軟な体と、彫りの深い外人のような顔。加えて艶やかで長い黒髪だ。

 それを、海にたゆたう海藻のように靡かして踊る彼女の情熱的な姿を目にした誰もが、彼女を崇拝した。

 彼女は、天才的なダンサー。

 素晴らしい。神がかっている。全ての賛辞をその身に浴びながらも、決してぶれない彼女。

 おれが彼女と出会ったのは、六本木のクラブだった。

 それも、真夏の金曜日。一番混雑する夜だ。

「すごい子いるよ」

 顔馴染みのバーテンダーがそっと目眴せして顎をしゃくった先に広がるフロアが、一瞬ステージに見えた。

 かかっているのは、Hardwell & Steve Aoki feat. Kris kiss「Anthem」。スピード感溢れる一曲だ。

 ごった返したフロアの中心が丸く開け、その真ん中でシルクのように黒い髪が生き物のように舞い動いている。

 必要な筋肉だけで構成されたしなやかな獣のような美しい肉体の残像から、それが女性だとわかった。

 彼女のいる場所だけが無重力空間なのではないか、そう錯覚するほど軽やかな踊りだ。高いジャンプ力と爪先より小さな着地面、それを支える強靭な体幹と優れたバランス感覚が飛翔するような動きを可能にしていた。

 まるで映画でも見ているような気分だった。その場にいる誰もが一目で彼女に惹き付けられた。

 ドロップで勢いが加速する音とシンクロする動き。いや、動きが音そのものだ。ホバリングのように、あまりに速過ぎて静止しているようにさえ見える。そして、曲は終わり、いや、おかしい。ここはクラブだ。客を踊らせるためにDJが音楽を途切れさせないように繋げていく。演出じゃあるまいしとDJブースを見上げると、若いDJは背中を向けてフィニッシュした彼女を凝視したまま時を止めている。

 全員の視線を身に纏った彼女は、すました顔をして振り向くと、猫のような足捌きでバーカウンターに近付いてカルーアミルクを頼んだ。

 我に返ったDJが慌ててレコードを回す。Bob Marleyと共にほっと胸を撫で下ろすような活気と喧騒が、フロアに戻ってきた。誰もがついさっき目撃した衝撃をうまく処理しきれずにいるのが、知らん顔でカルーアミルクを飲んでいる彼女を窺う好奇の目と興奮を押さえ切れない声に現れていて、それはおれも同様だった。

 一メートル先で一息ついている彼女から視線を逸らせずにいる。

 漆黒色をした絹糸の束のような髪を頭頂で一つに結い、臍の出たタイトなチューブトップとストレッチパンツ姿の彼女は、あんなに激しく動いていたにも関わらず汗すらかいていない。その独特の居住まいは、研ぎ澄まされた刃を連想させた。どんなに人を切っても、一振りすれば血飛沫を弾き錆や曇りなく怪しく美しい。特別な種類の人間だ。本能的にそう察知したおれは、遠巻きに彼女を見守ることに、要するにファンになったのだ。

 彼女はその晩、何度となくフロアをステージに変えた。

 名のあるダンサーなのだろうと誰もが思ったが、いくら検索をかけても該当する人物が見つからない。これは、もしかしたら、有名になる前の貴重な原石なのかもしれないと、彼女のダンスを目にしたおれを含んだ誰もが、宝物を見つけたような密かな喜びと己の幸運に胸を沸かせた。

 彗星のように突如現れた彼女の正体はなんなのか?

 六本木中のクラブに出没し、様々なジャンルを踊りこなす彼女は、クラブ人や客の間で一躍時の人に祭り上げられたのだった。


 ある夕立に洗われた短夜。

 おれはイベントの仕事帰りにくわえ煙草で、涼風を堪能しながら公園の中をぶらぶらと歩いていた。

 近所にあるこの公園は、サイクリングロードやグラウンド、小さな池などがあり、けっこう広大な敷地を有している。朝夕には犬の散歩をする住人やランナー達が途切れることはないが、夜ともなれば虫やカップルの微かな声がするだけの比較的静かな時間を過ごすことができるお気に入りの場所だった。

 空が開けた草原が広がる一角もあるので、星空もキレイに見れる。そこで缶ビールを一本飲むのが、仕事だった日のおれの習慣になっていた。その晩も、そのつもりで歩みを進めていた。

 等間隔で並んでいた公園灯が切れ、木々を抜けると星明かりの下、誰かが踊っている。

 遠目でもわかった。風に舞う長い髪、流れるような動きと軽やかなステップ。彼女だった。

 どうしてこんなところにいるんだ? と、思う間もなく、おれの銘柄とは違う煙草の匂いが風に乗って漂ってきた。目を凝らすと、彼女から少し離れた草原に誰かが寝っ転がって煙草を吸っている。

 直感で男だとわかった。それも、彼女の踊りに全く興味がない男だと。ちくっと小さな嫌悪が胸にささる。

 彼女は、異性や好意や性欲などとは無縁の芸術という名の超人の領域で生きていると勝手に思い込んでいたおれは、男のその無関心さが許せなかった。

 おれの怒りをよそに、踊り終わった彼女は男の傍らに横たわる。煙草を投げ捨てた非常識な男が、待ってましたとばかりに彼女の上に覆い被さってきた。その首筋に陶器のような両腕を絡ます彼女。

 やめろ!

 おれは知らずに叫んでいた。ご両人が何事かと顔をこちらに向けるより先に、踵を返して走り出す。

 二人より先に驚いたのは自分自身だ。なんだ? どうしておれはあんなことを・・動揺が納まり切らぬまま帰宅した。

 翌金曜の夜。

 昨夜の後悔を引きずりながらも足はクラブへと向かっていた。無性に踊りたかった。

 まずは、アルコールを入れようとカウンターで、口を開きかけた時。

「あの人、逃げちゃった」

 おれの隣で、心地いい夜風が吹き込んできたように空気が動いた。振り向くと、彼女が頬杖をついてこちらを見ている。

「ごめん。なんて言っていいか・・」

「うそ」

「え」

「帰ったのは事実だけど」

「だよな」

「慣れてるから」

「帰るのが?」おれの問いに、彼女は一回もったいぶった咳払いをする。

「ひかれるのが」

「惹かれる?」

「冷めるって」

「バカげてる」

「って?」

「そいつら、どうかしてるよ」

 憤慨するおれに向かって、彼女は莞爾として笑う。それから、おれの頭を指差してそれいいと言った。

「ブレイブ?」

「ドレッド。こだわりは緑のとこ」

「いいね。すごく。よく目立つし」

 だから彼女は、昨夜叫んだのがおれだとわかったのだ。ずっと引っ掛かっていた妙な違和感が解決した。

「君もやったら? 髪長いから迫力出るよ」

「そうしたいのは山々だけど、踊ってて、顔とか体にぶつかったらSMみたいになっちゃうからなぁ」

「確かに、ちょっとした鞭感ある」自分の編み込みを摘みながら重さを確かめるおれに向かって、あたしカルーアミルクと注文する彼女。おれはバーテンじゃないと笑うと、昨日の今日だからと言う。

「了解」

 そうして、おれと彼女は知り合った。おれ達は色んなことを話し、一緒にクラブやバーを梯子した。

「格式ある旧家なの、うち」

「お嬢様?」

「でもないよ。メイドさんはいたけど」

「秋葉原の喫茶店でしか見たことないな」

 だから彼女の踊りはあんなにも大胆なくせに、時々はっとするくらい優雅な部分を垣間見せるのかと納得した。

「今時、家柄とか身分とか貴賤上下に拘るなんてバカげてる。ほんと嫌で、それで」怪しい雰囲気になってきた。

「ちょっと待って。今いくつ?」おれの問いに、答えるのを躊躇しているような一瞬の間があった。

「十九」

「むー未成年じゃん」おれは彼女が手にするカルーアミルクを指す。

「いいの。今月で二十歳だから」

「生活、大丈夫?」

「そういう現実的な感じ? 嫌い。心配なんてされたくなーい」唇を尖らす様子は、まるで子どもだ。だが、強がりを言っても所詮は未成年。大都会で生きていくには、誘惑や危険があり過ぎる。

「でも、君はキレイだし、目をつけられやすい」

「そこらの無知な芋娘と一緒にしないで。どれだけ人の裏表見て育ってきたと思ってるの? 目をつけられたら、逆にそれを利用してやるんだから。見てなさいよ。思うままに生きてやるから」

 そんな彼女の相手は、常に変わった。

 豪語していただけに、怪しげな様子の男を連れてくることはなかったが、高齢に足を突っ込んでいるだろう見た目の相手は何度か見かけた。彼女は男の家を渡り歩くことで生計を立てているらしい。いつからか彼女がクラブに連れてきてはバーカウンターに置き去りにしていく男と談笑するのが、おれの小さな日課になっていた。だが、彼らと話せば話すほど、おれは疑問を抱かざる負えない。彼らが蠱惑されているのは彼女の芸術性ではなかった。彼らが献身的になってしまうほど彼女に見出していたものは、踊っていない彼女が頻繁に見せるあどけなさや、思わず守ってあげたくなるような危うさだ。コイツらには彼女の素晴らしさが見えていないのだと、おれは驚愕を隠し切れない。だが、彼女にとってはそんな男のほうが都合がよかったらしく、我が侭放題好き勝手に振る舞っていた。まるで、相手の包容力を試すかのように。その結果が、短期間での別れである。

「恋なんて炭酸飲料の泡みたいなものだから、問題ないの。口に入れた瞬間は刺激的なんだけど、喉元でパチパチって弾けちゃったらお終いでしょ。だから、あたし炭酸って嫌い」彼女の持論は言い得て妙である。

「あたしは自由よ!だから、思うがままになにをしてもいいの!」人生おーかちゅーと笑い転げていた二十歳になったばかりの彼女。彼女のダンスは、プロですらも真っ青になるレベルにまで磨き上がっていた。だが、ダンスで生きていく難しさはここからだ。

 歌や楽器、演技やお笑い、絵画や手品、大道芸などならば大手プロダクションや事務所にスカウトされて契約となり大々的に売り出されるが、創作ダンスのように実際に見ないとわからない芸術は、娯楽の中では特に舞台やDVD、ネット配信が中心になる。同じダンスでも、バレエやヒップホップ、社交ダンスやフラダンス、ジャズダンス、フラメンコなどとも異なる彼女の放縦なダンスは稀有な存在でもあったので余計だった。

 時に幻想的に、時に嵐のように見る者に圧倒的な映像を焼き付ける彼女の天才的なダンスを、全ての人に知ってもらいたい反面、このまま知る人ぞ知る孤高でマニアックな存在のままでい続けて欲しいという傲慢な欲望が交差して、おれは偽善者だなと心底うんざりする。

 おれはいつの間にか、彼女が自分と同じところで留まっていて欲しいと願うようにすらなっていた。おれと同じ、人生に敗北した者たちの吹き溜まりに。その吹き溜まりの中を照らす光になっていて欲しいと。そんな御都合主義な夢想を抱いていることなど噯気にも出さずに、あたかも彼女の無限の可能性を見守る友として接している。

 かつてはプロのブレイクダンサーになることを夢みていた。

 親に無理を言ってダンスの専門学校に通い、めきめき頭角を表したブレイクダンスの才能は、スクール内では誰よりも突出しており、すべからくおれの前には早い段階から光り輝くプロへの道が出現していた。それなのに、

 配達のバイト中に起きたトラックとの接触事故によって、その輝かしい道は消え失せてしまったのだ。事故の際、運悪く利き足を巻き込まれて重傷を負ってしまう。恐怖の眼差しを滑らせた先、膝から下が不自然な角度に曲がり白い骨が飛び出していた。それでも、粉々になったわけではない。歩けるレベルまで持っていくことはできるとの医者のお墨付きもあり、その時点では諦めていなかった。

 自分の体に自信があり、若かったのもある。

 松葉杖をつきながらのリハビリ生活を経て、一年で完治に漕ぎ着けた。

 けれど、意気揚揚と帰館した己のステージだと信じていた場所で、おれの足は、かつてのように軽快なステップを踏むことができなかった。負傷した足を庇っての体幹が失われた臆病な動作から生まれるリズムは、絶望的。

 仕方ないよ完治したばかりだもんと励ましてくれる顔のどれもが気の毒そうな笑顔を浮かべていた。それは、落選者に向けられる笑顔なのだと知っていた。かつての自分も、脱落者にその困ったような笑顔を向けたのだ。それでも、血のにじむような努力を続けていれば、きっと元通りとまではいかずとも、同レベルにまでなんとか引き上げられたのかもしれない。けれど、人一倍プライドが高かったかつてのおれは断念した。

 つまり、くだらない自分のプライドに負けて、ダンスから逃げたのだ。

 専門学校を辞めたおれは、好きな服のブランドの募集広告を見つけて滑り込んだ。そこでなら、自分は成功できると踏んだのだ。ところが、根っから服好きな本気の奴らに囲まれていつまで経っても村八分。ダンスの世界と同じ、プロを目指す奴らが切磋琢磨を繰り広げていた。あ、無理だなって思っちゃったんだよな・・・

 気付くと、暗闇に覆われた窓の外から雨だれの音が聞こえていた。

 一つの季節が終わっていく侘しさを感じる雨だ。おれは上半身を起こすと、煙草をくわえて火を点けた。

 雨は嫌いじゃないが、足の傷が疼くのにはいつまで経っても慣れない。

 こんな雨の晩だったからな。おれの人生が暗転したのは。

 煙を吐き出しながら彼女のことを思う。そして、かつての自分を彼女に重ねているのだろうかと自問する。

 おれは、彼女の他者の追従を許さない圧倒的な才能に嫉妬している? まさか。じゃあ彼女に、おれが諦めた夢を見出している? かもしれない。それなら、応援すべきなのに、いったいなにが痞えているというのか。


 ロサンゼルスに移住するのだと彼女が言い出したのは、年末も差し迫る頃。

 例の如くフロアをステージに変えて一通り沸かせた後、カルーアミルクを飲みながら嬉しそうに報告してきた。

「けっこう有名な振り付け師みたい。あたしの専属になりたいって」

「君をプロデュースしたいってこと?」

「わかんないけど、楽しそうだから。とにかく行ってみるつもり」

 にっと笑ってカルーアミルクを飲み干した彼女の口の端にはミルクがついている。数々の男たちを魅了してきた幼さの残る挙措。彼女はおれと違って、無限の可能性に満ちているのだなと否応無しに突きつけてくる。

「・・行くなよ」考えもしなかった言葉が口から漏れて、自分でも驚いてしまった。

 彼女の顔が、幸せの絶頂の笑顔から虚ろな真顔に切り替わり、ガラス玉のような無機質な目でおれを見つめる。

「あなたから、そんな言葉聞きたくなかった」

「・・ごめん」

 おれは、バイバイと言い残して店を出ていく彼女の後ろ姿を、見送ることもできなかった。

 彼女は年を明けるのを待たずに渡米したらしい。

 それからの彼女の足取りは、海外メディアやネットの情報から容易に追うことができた。

 彼女をスカウトした振り付け師は世界的にも有名な人物だったようで、彼女は鮮烈なデビューを飾ることになる。世界中が注目する若手の監督がプロデュースする映像とダンスが一体になった巨大なプロジェクトにダンサーとして抜擢された彼女の存在は瞬く間に世界中に知れ渡ることになったのだ。それを皮切りに様々なビッグイベントや舞台に出演。破竹の勢いは止まらないままに二十年余りが過ぎたのだった。

 おれはというと、日雇いのイベント系の仕事を辞めて、スクール時代の友人が立ち上げた、イベントや撮影などにダンサーを派遣する仕事を手伝うようになっていた。得意先が増え、会社も軌道に乗り始めて余裕が出てきたので、若手ダンサーを育てるスクールを開校する計画が最近浮上していた。

「おまえ、校長な」と、友人から丸投げ同然で任命された。要は、友人のアイデアに頼った楽な立ち位置で傍観してねぇで、てめぇも頭絞って努力しろということらしい。

 そんな折、彼女が主演する映画が日本でも公開されることを知った。

 彼女は、初日の舞台挨拶のために来日する。

 結局、最後まで彼女に対して中途半端な押し付けの希望や想いを抱いていた自分がみっともなくて、彼女に連絡を取れずにいた。それでも、彼女の発信する情報やインスタなどはこまめにチェックし、彼女絡みのイベントや映像が閲覧可能であれば何度でも見た。これ、一般人にやってたらストーカー行為なんだろうなと思いつつ、あくまでファンとしての応援だからと言い聞かす。あの日の言葉は忘れよう。おれだって彼女を自分の所有物にできるなんて始めっから思ってなかった。彼女は誰か1人の所有物になるには壮大過ぎる。だけど、元気な彼女を一目見たい。久しぶりに会いたいと思ったおれは、血眼になって初日のチケットを探し始めた。

 舞台に現れた彼女は、すっかり大人の女性に変貌していた。

 おれがよく知っているあどけない少女ではない。体の線が出るタイトな服装はそのままに、中身だけが成熟した美しい女性になっている。わかってはいたが、事実を目の当たりにしたおれは少なからず戸惑った。英語の比喩を散りばめた言葉を発する声もしっかりしている。彼女は成長したのだ。舞台上での監督との会話内容から彼女がバツ三になったことを知った。彼女の元夫は、この映画にも携わった名のある演出家。七十代の旦那ということで年の差婚だと騒がれた。おいおい、四十路にもなってまだそんなことをやっているのかよと自然と苦笑いが漏れる。見た目は変わっても、相変わらずだなぁとどこか安心している自分がいた。

 その晩、おれが送った花束に仕込んだカードに気付いた彼女がクラブに現れた。

「また、愛想尽かされたみたい」

 お馴染みもカルーアミルク片手に上品な笑みを浮かべる成熟しきった彼女。そこに離婚したことへの後悔や悲観は一切ない。聞けば、向こうは結婚だの離婚だのは日常茶飯事で大体そんなものらしい。

「結婚も炭酸の泡みたいなもんだった。恋と同じね」

「むーそんなもんかぁ」

「これ、Aretha Franklin」彼女が顎をしゃくる。店内にかかる音楽のことを指しているらしい。

「好きなの?」というか知ってるんだと目を向くおれに笑いかけながら、ふふんと鼻を鳴らす彼女。

「カッコいい声と歌だもん」彼女もきちんと歳を重ねたのかと感慨深い。

「ねぇ、なんでカルーアミルクなのか、教えてあげよっか」と、グラスを持ち上げて話題を変える彼女。

「夜の公園に、おじぃちゃんがね、いたの」タイミングよく「Do Right Woman, Do Right Man」に曲が変わる。

 それは、彼女がまだ十代の頃。

 踊る楽しさに目覚めた彼女は、両親にダンススクールに行きたいと持ちかけたらしい。けれど、猛反対された挙げ句、低級なことを覚えてくるからという理由でそれまで通っていた共学から名門女子校へと強制的に転校させられたのだった。それでも、彼女のダンス熱は冷めなかった。

 同じダンスでもバレエは教室に通うことを許されたので、稽古の時間を親に内緒で早目に設定し、帰宅までの時間は公園に行って連絡を取り合っていたダンス友達に教えてもらった練習に打ち込んだ。バレエで鍛えられるバランスと体幹は、全てのダンスに共通した基本だ。どんどん上達していくのが実感できて楽しくて仕方なかったと、彼女は当時を振り返る。そのうちに、夜こっそりと抜け出して公園で踊ったりもしていたようだ。それが家族にバレて軟禁されたりもしたらしい。老人と出会ったのはそんな頃だった。

 イヤホンから流れる音楽が途切れたタイミングで、乾いた拍手が聞こえた。

「じょうずだねービックリしちゃったよ」

 感動を言葉にしようとして車イスから身を乗り出す勢いの老人。両頬に手をあてて、すごいを連発している。

 そんなに感情が昂ってくれるなんてと嬉しくなった彼女は、見ててと言うと、もう一曲踊り出した。

 老人は食い入るように踊る彼女を見つめ、そして終わると拍手をして、車イスの後ろからなにかを取り出した。

「うつくしいものをみせてくれた、おれいだ」

「受け取れない。だって美しいとか、買い被り過ぎだし。あたし、素人なんだよ」

「うつくしいことに、ワケはいらない。おじょうちゃんのおどりは、すばらしい。サァ、うけとっておくれ」

「でも・・」躊躇する彼女の手に老人は一本の瓶を押し付けたそうだ。

「人生を自由に羽ばたいていく一本を!」

 老人が高らかに叫んだのと強い風が吹いたのが同時だったらしい。巻き上がった砂が目に入った彼女が再び瞼を開いた頃には老人の姿はなかったのだという。幻かとも思ったが、手元に残った黒っぽい瓶がさっきまで老人がいたことを証明していた。黒いボディに外国の街並が描かれた黄色いラベルが鮮やかな瓶は酒だった。

「それが、カルーア」

 彼女が話し終わるのと同時に計ったようにしてまた曲が変わった。「Respect」だ。我慢しきれなくなった彼女が立ち上がる。

「で、家出したんだ」

「そう。人生に羽ばたいたってわけ」

 自由にねとおれが付け加えると、これからもねと彼女は満足そうに笑って曲に合わせて踊り始めた。

 どうやら、彼女の勢いは当分失速しそうにない。



  ※カルーア

 コーヒーリキュールの代表格。メキシコ高原地方で採れるアラビカ種が原料になったカルーアは、アメリカン・コーヒーとエスプレッソの中間といったバランスの取れた味わいを楽しめるリキュールである。全体的なコーヒーの爽やかさに加えてバニラ香や糖蜜の甘い味わいが人気の秘密ともいえるだろう。そんなカルーアのの誕生は謎に包まれている。1930年代にはすでにメキシコで作られていたようだが、いつ、どこで、誰が作り出したのかは不明なのだ。ラベルにその謎を解く鍵が隠されているとも言われている。

 カルーアと言えば「カルーア・ミルク」と言われるほど爆発的な人気を誇る飲み方だ。特に、オーストラリアと日本ではカルーアのスタンダードな飲み方として知られる。他にも、ウォッカと合わせた「ブラック・ルシアン」といったカクテルもある。コーヒーババロアの材料に使えば、ちょっと粋な大人のデザートの出来上がりだ。

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