ワニンクス・アドヴォカード


 鶯が美声を張り上げ始めた頃に、一通の手紙が届けられた。差出人不明の手紙だ。開封すると、漆黒のクロユリが転がり出てきた。



  拝啓、突然のお手紙、失礼いたします。

 先日行われた殺人事件の初公判にて、被告の弁護人として奮闘していたあなたの発言の一部始終を傍聴席で拝聴していた身といたしまして、どうにも納得がいかない点が多々ありましたので、一言もの申さなければと慮外ながらこうして筆を取った次第です。

 あなたが関わっている今回の殺人事件は、某有名企業に勤めていた事務職の男性が、六本木のスナック勤務の女性に堕殺されたという内容のもの。

 あなたは、ホステス女の弁護に従事していますね。

 私が申し上げたいのは一つだけ。

 加害者の弁護なんて、よくそんな非道なことをお引き受けになりましたね。

 金さえもらえれば、善悪関係ないということですか?

 あなたは、被害者に対しての憐憫の情などは持ち合わせていないのですね。

 人殺しの悪人に味方をするなんて、人として、弁護士として恥ずかしくないのですか?

 その胸に、正義を意味するヒマワリを象った弁護士バッジをつけているくせに、悪の弁護をするなんて。

 弁護士の名に恥ずべき行為ですね。

 いったい、正義とはなんでしょう?

 誰に対してのものなのでしょうか。

 被害者男性と女性との間には関係性などはなく、偶然すれ違った赤の他人同士。

 それなのに、男性が睨んでいるように見えたという一方的なくだらない思い込みから、男性の後をつけ、隙を見て橋の上から突き落としたという残忍さ。

 この加害者の身勝手な行いによって、一方的に搾取されて失われた、なんの罪もない被害者の人生と尊い生命。

 この事実を、あなたはどうお考えなのですか?

 それなのに、あなたは自分勝手な女の味方をするのですね。

 人を殺めた女の人権を守ろうとするのですね。

 被害者の人権はないのですか?

 負けてください。

 世のため人のために負けてください。

 あなたは、最低です。

  敬具



                ※




 梅雨前線が頑固に居座り続けている頃、二通目の手紙が届いた。今回は、瑞々しい紫陽花が同封されていた。



  再啓、先日行われた開廷を拝聴しました。

 警告のお手紙を差し上げたにも拘らず、あなたの言動に変化は微塵足りとも感じられませんでした。

 重ねて申し上げます。

 悪に味方するあなたは、最低です。

 勝手ながら、あなたの輝かしい経歴を調べさせていただきました。

 二十代で弁護士になられてから、刑事事件や民事事件を中心にした裁判を手がけてきたのですね。

 齢七十にして現役の弁護士として活躍されていらっしゃる。

 あなたが関わった過去の刑事裁判では、被害者を救った事例が幾つもおありになりました。

 誠に素晴らしいことだと思います。

 そんなあなたがどうして今回、加害者の弁護を引き受けたのか疑問です。

 あなたは、被害者男性の経歴はご存知ですか?

 母子家庭で育った苦学生。そんな例えがピッタリの男性です。

 奨学金をもらって行った大学を出てから苦労して念願の大手企業への就職を果たし、昇進こそ叶わなかったものの、事務職の長として責任をもって仕事に取り組んでいました。

 私生活では、大学から付き合っていた女性と入籍。

 二人の子どもに恵まれ、小さいながらマイホームを持てました。そこに高齢の母親を呼んで、家族仲良く平凡な幸せを築いていました。そう。あなたの家庭のように。

 偶然にも被害者とあなたの家庭環境は、随分と似通っていますね。

 自分の家族に置き換えれば、被害者家族の気持ちを想像しやすいのではないでしょうか?

 もしも、あなたが不条理な理由で惨殺されてしまったとしたら、残されたあなたの奥様や子ども達は嘆き悲しむのではないですか。

 ちょっとすれ違っただけの赤の他人である加害者に、彼の生活を壊せる権利などありはしないのです。

 被害者男性が、なにをしたというのですか?

 残業続きで疲労困憊しており、目つきが虚ろになっていた彼には、なんの落ち度もありませんでした。

 誰でも疲れたら、ぼんやりすることくらいありますよ。

 再三の問いかけになってしまいますが、被害者と加害者、正されるのはどちらだと思いますか?

 あなたの判断は間違っています。

 どうか、辞退されることを切に願って止みません。

  敬具



                     ※




 入道雲が描かれた空の下、油蝉が鳴き喚く頃、三通目の手紙が届いた。便箋を開くと、白いクロタネソウの花がこぼれた。



  拝啓、先日、住宅街の一角で偶然あなたをお見かけしました。

 あなたは、町中を通行中に車イスから転げ落ちて負傷している老人に出会いましたね。

 老人を見かけたあなたは、慌てて走り寄ると、周囲にいた通行人に声をかけ、協力して助け起こした。

 申し訳ない申し訳ないと動転している老人に対して、始終優しく声掛けをし、車イスに乗せた後も付き添うあなたの姿を遠目に拝見して強烈な違和感を覚えると共に戸惑いが広がりました。

 その親身な様子からは、悪を擁護している者であるという事実が微塵もうかがえませんでした。

 ただの善良な初老の男性、いえ、手助けした通行人を労ると同時に礼を言うあなたからは、紛れもない人間の鏡気配すら発していたのです。

 老人と接するあなたは、太陽のような眩しい笑顔をしていました。

 正直言って、混乱しています。

 皮相的な見方をしていたのかもしれないと激しく動揺している次第です。

 あなたのように親切な方が、どうして殺人者の弁護をお引き受けになったのですか?

 私にはわかりません。

 ですが、人は画一的なものでは決してなく、善と悪を等しく宿す生き物です。

 善と悪の判別は、あくまで人間社会の独自のルールや法律に乗っ取ったものに過ぎず、弱肉強食の厳しい自然界で生きる生物としての行動と考えると、さして不自然なことにはならないのかもしれませんが、人間として捉えた場合には、誰にも必ず光と影があるといいます。

「ルシファー・エフェクト」という言葉はご存知ですか?

 状況が人格を変えるというものです。

 特に社会的なモラルや権利、圧力などに左右されやすく、個人が持つ人格や性格、知性、理性などがどんなに優れていようとも関係ないのです。

 そういった多角的な目で見ると、あなたが善良過ぎる一面を持っていようが、やはり関係ありません。

 重要なのは、あなたが従事している内容です。

 再三申し上げます。

 負けてください。

 被害者の名誉をこれ以上、穢さないでください。

 もう、充分じゃないですか。

 打ちのめされている被害者家族を、今以上の深淵へと突き落とさないでください。

 法は正しく行使されるべきです。

 救うべきは弱者です。

 今一度、慮っていただきたい。

  敬具



                  ※




 高く澄んだ青空を背景に庭の柿の実が熟し始めた頃、四通目の手紙が届いた。開封すると柔らかい香りと共に金木犀の小さな花が幾つか見えた。



  拝啓、度重なる無礼な手紙を、どうぞお許し下さい。

 先日の公判にて、事件の真相が明かになりましたね。

 まず、真犯人が現れたことに驚きました。

 真犯人は無職の四十代男性でした。

 数日前に勤務態度が悪いという理由から、派遣先を首になり、むしゃくしゃしていたとのこと。

 電車で偶然乗り合わせた被害者男性が、スマホを取り出す際に鞄の中から食み出した社員証を見て、異様に腹が立ち、駅から後をつけて殺害したと供述していました。

 後から調べたところ、犯人はかつて、被害者男性が勤めていた企業に面接に行って不採用となった経験があり、そのことで恨んでいたと主張しているのです。

 そんなことで。

 そんなくだらない理由で。

 その企業に働いていたという理由だけで、無関係な人間の命を奪ったのです。

 自分がしたことは、仕方ないことであって、運命としか言いようがないなどと宣い、反省の欠片も見られない一貫した加害者男の言動を見ていると憎しみが込み上げてきます。

 果たしてそんな不条理極まりないことが許されていいものなのでしょうか。

 そんな一時的な苛立ちの標的にされるためだけに、被害者は生きていたのではないのに。

 被害者が社会や企業に揉まれながら、どんなに扱き下ろされても、不当な扱いを受けても、ストレスマックスになっても我慢して必死に生きていたのかなんて、なにも知らないくせに。

 たかだか、自分の人生が思うようにいかなかったくらいで。

 その代償を他人に求めるのは間違っています。

 道を歩いていて、足下を横切ったアリに腹が立ったから踏みつけたくらいの感覚で人を殺していいわけない。

 それは完全なる悪です。

 そして、あなたが弁護されていた被告人は、犯人の妻でした。

 犯人でもある夫を庇っていたのですね。

 殺人犯じゃなかったなんて・・・

 あなたはそれをご存知の上で弁護されていたのでしょうか?

 真犯人を炙り出すため。いえ、もう真犯人はとっくにわかっていた上で、必死になって夫を庇う健気な妻の心情と正義との間に板挟みになりながら、彼女を庇い続けていたのですか。

 被告人席で泣き崩れる妻の横で、あなたは苦虫を噛み潰すよりも苦渋に満ちた顔をしてました。

 結局は彼女の希望を弁護しきれなかった己の矛盾や正義に向けての表情だったのか、それとも、単純に妻の願いも虚しく飄々と出廷してきた犯人である夫に対してのものなのか窺い知れませんが、被害者家族にとってみれば、証拠証言共に揃った疑いようのない真犯人が現れて逆に救われたのではないでしょうか。

 あなたの弁護は、犯人の妻の無罪を訴えつつも、真犯人である夫を法廷に引きずり出したのです。

 頭が下がる思いでいっぱいです。

 そうとも知らずに、何ヶ月にも渡ってあなたを中傷する内容の手紙を出し続けていたなんて。

 度重なる無礼な言葉、なんとお詫び申し上げていいのやら。

 今は、真犯人を憎むよりまず、あなたにしてきた自分の心ない行いに対して心底後悔しております。

 吠影吠声。我ながら愚かでした。

 誠に申し訳ありません。

  敬具



                  ※




 年が開け、穏やかな日差しに誘われて明るい色を身に纏った野山をモンシロチョウが舞い、木々が芽吹き始めた頃、最後の手紙が届いた。赤いハシバミの花が同封されていた。



  拝啓、先日ひょんなことから、あなたが引退なさったと知りました。

 あの事件の判決が下った日を最後に、弁護士バッジを返上したのですね。

 誠に申し訳ありませんでした。

 これまでにあなたにした無記名での度重なる無礼な手紙に、さぞお心を痛めておられたと思います。

 形はなんにせよ、私はあなたを傷つけていた立派な加害者だったのですから。

 深くお詫び申し上げます。

 本来ならば、二度とあなたの人生に関わるべきではないでしょう。

 ですが、あなたが辞した今、私があのような行動に出た理由を、どうしても知ってもらいたいと思い、逡巡しながらも筆を取りました。


 薄々勘づいておられるかと思いますが、私は被害者の妻です。

 殺害された夫は、物静かでおとなしかったのですが、とても気だてがいい人でした。

 努力家で、それが時として裏目に出てしまうほど、稀に見る純粋な性格をしていました。

 人に頼られることが多く、常に誰かが夫に相談を持ちかけてきていたのです。

 夫は、嫌がるでもなく一生懸命に相手を助けようといつも奮闘していました。人の相談に乗ることはある意味、夫の趣味みたいなものだったのかもしれません。

 私はそんな彼と家庭を築けてほんとうに幸せでした。

 誰かを助けようと頭を悩ます夫を、一番近くで支えられる存在でいようと自分自身に誓っていました。

 それなのに、突然いなくなってしまったのです。

 私達が育んできた全てを壊されて奪われました。あいつに。犯人に。

 あんなに善良だった夫が、なにをしたというのでしょう?

 人の悩みを解決することに喜びを見出していた夫が、あの男になにか危害でも加えたとでもいうのでしょうか?

 納得がいきませんでした。

 変わり果てた夫の遺体を前に、その現実を受け入れる前に、犯人に対しての憎悪が沸き上がってきたのです。

 先に断っておきますが、私は喧嘩っぱやいほうでは決してありません。

 親切の塊のような夫の影から怖々と周りを伺うウサギのような臆病な性格でした。

 ところが、あの時の私の脳裏にあったのは復讐の二文字だったのです。

 被告人が女性だと知ったときから、ますます復讐の炎は燃え上がりました。

 そして、あなたです。

 犯人を毅然と弁護しているあなたの姿に怒りを覚えました。

 この弁護士はいったいなにをしているのだろうかと、憎悪が渦巻きました。

 この世でただ一人のかけがえのない夫を私から奪った人間を、どうして守ろうとしているのかと、恨めしさで息が詰まりそうでした。

 その結果が、あの先走った手紙です。

 誠に申し訳ありませんでした。

 手紙の文面にあなたへの憎しみを打っ付けていた愚かな私は、一方的な思い込みによって夫を殺害した犯人の心理状態と大差なかったのだと気付きました。

 知らないうちに私は加害者になっていたのです。

 まさに、いつか例えにした「ルシファーエフェクト」。

 自分自身が陥っていたなんて、情けない限りです。

 私はあなたへ手紙を書くことによって、自分の中に眠っていた凶暴性や残虐性を理解しました。更に、愚かさや不甲斐なさ、人として恥ずべき行為を己の正義において躊躇することなくやってのけました。

 夫が知ったらさぞかし悲しむことでしょう。

 私はこれから、夫の遺骨を胸にお遍路に旅立ちます。

 それが終わりましたら、出家して尼となる予定です。

 そんなことをしたところで、所詮は自分の慰めであって、あなたを傷つけた償いになるわけではありませんが、そうせずにはいられません。

 なぜなら、あなたは最終判決が下ったあの日、私たち家族に向かって深々と頭を垂れられたのです。

 悪質な手紙で、あなたに過度な負担を強いてきた私には、それを受ける資格などないというのに。

 ごめんなさい。

 申し訳なさと後悔で胸が苦しくなった私は背を向けてしまいました。

 私には、正義を貫いたあなたの顔が直視できませんでした。

 申し訳ありません。

 本来ならば、こんな書面などではなく、直接お会いして謝罪すべきなのですが、私にはその勇気がありません。

 申し訳ありませんでした。

 どうかお許しください。

 お体をお大事にされてください。

 いつまでもお元気で。

  敬具



 読み終わった手紙を畳んだ彼は、グラスを引き寄せた。

 それは、かつて老人からもらったものだ。卵色をしたリキュール。それを炭酸飲料で割っただけのものだ。アルコール度数も低く、まったりとした味がデザートのようだったので、すっかり気に入ってしまった。

 縁側で愛猫と戯れながらパッチワーク作りに精を出している妻を眺めながら、老人が言っていた言葉を思い出した。

「人生を労う一本を!」



 ※ワニンクス・アドヴォカート

 特殊リキュールの中でも、クリームや卵を使ったリキュールは、乳液状をしているため「イマルション・リキュール」と呼ばれる。カクテルにも広く使われている人気勢力の先導役を努めてきたのが、このオランダ生まれのエッグ・リキュール、ワニンクス・アドヴォカートである。オランダ語で『弁護士』の意味を持つこの卵酒。飲むと舌がよく回るようになって、弁護士のように弁舌爽やかになるという由来から来ている。ワニンクス社の工場では、材料として使用される年間600万個の卵が、30万羽もの鶏によって生みだされているらしい。見渡す限り鶏鶏鶏。卵卵卵。さぞかし圧巻の眺めであろう。

 この格調高い卵酒を使ったカクテルとしては、セヴン・アップなどの炭酸で割った爽やかな「スノーボール」や、チェリーブランデーとソーダを合わせた「バタフライ」などが知られている。いずれも飲みやすく優しい味わいが特徴だ。

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