コアントロー

 葉桜から降り注いでくる新緑色の日差しが眩しかった。

 総合病院前のコンビニから一歩踏み出した彼女が目を細めて額に手をやると、道路から立ちのぼる逃げ水に揺らいで近付いてくるバスの姿が見えた。

 土曜日の午後。バスを待つ人影は疎らだ。

 コンビニで買い物をすることに体力を使い切ってしまった彼女は、ふらつく足取りでバス停に近付く。

 急激な暑さにやられたわけではない。

 彼女に気付かれぬように忍び足で背後まで迫っていた体の限界が、彼女の精神的な打撃を合図に真横にピタリと寄り添ってしまっただけだ。

 早く帰りたいわ・・・

 一足毎に脇の下を冷や汗が伝っていく。

 初夏の太陽光を一手に集められて発熱できそうな漆黒のツイードコートから覗くバーバリーチェックのウールスカートが、黒のタイツとローヒールパンプスを履いた足に絡み付いてくるようだ。季節感を完全に無視した恰好なのにも関わらず、彼女は寒気に襲われていた。

 億劫そうな動作でやっとこバスに乗り込んだ彼女は、一番後ろの窓際の座席を陣取ると、深い息をついた。

 欠伸をするような調子で動き出したバスの振動に身を委ねながら時々顔を顰める。

 そのまま信号を二つほど過ぎた頃、お預けが解除された犬のように素早い動作で膝に置いたバッグを探ったかと思うと、先程コンビニで購入した缶チューハイを取り出して震える指でプルタブを起こした。

 よく冷えたチューハイは、彼女の食道を新幹線さながらに通過すると火照った胃になだれ込んでいく。

 混乱を極めた脳に一刻も早く麻痺成分の混入されたひんやりとした血液を回して落ち着かせなければ。一気に呷った彼女は、空き缶を足下に置くと次の缶を取り出す。

 彼女が二本目のプルタブを起こすと、隣に座っていた引っ詰め髪の女が眉間に皺を寄せて前の席に移動した。眺めの前髪をセンター分けにし、ヘナで着色された髪色をした未婚の五十代くらい。厄介な年頃の女ねと彼女は一瞥する。でもま、あたしからしたら神経質な子どもみたいなもんね。と悠々と缶チューハイに口をつける。

 彼女は、目を引く恰好をしていることに加えて真っ昼間からの公共の乗り物内での飲酒。常識的な色の薄着に身を包んだ乗客の中では悪目立ちしてしまうのは当然だった。

 運転手もバックミラー越しに彼女を睥睨していたが、彼女は知ったこっちゃないと厚顔無恥を改めない。

 二缶目が半分ほどになるとようやく、いくらか冷静を取り戻せたような気がした。

 窓の外を、午後の光が散りばめられた平凡な街並が白飛びしながら後ろに流れていく。

 世の中は、相変わらず平和なのね・・・

 乾いてひび割れた唇に冷たい缶の縁を押しつけた彼女は目を細めた。

 つい数時間前までは在り来りだった見飽きた街の景色が、今は希望に満ち溢れた美しい世界のように彼女の目には映っていた。新しい自分に心躍らせながらパーマをかけている時間のように可能性に満ちた世界。

 あたしは・・・その世界から切り離されようとしているらしい。

 自分の体が透けていくような恐怖の波に飲まれそうになった彼女は振り切るようにチューハイの残りを呷る。

 その時、鞄の中に入れたスマホが、雑な音で天国と地獄を奏で始めた。メールだ。

「お疲れさま。診察終わった?」

 同棲している彼氏からだ。どうやら店は暇らしい。

「いま帰りです」痙攣が続く指でなんとか文面を打つ。

「時間かかったね。検査とかしたの?」

「いろいろと」

「わかった。帰ったら聞かせて」

 アルコールが回り始めた五臓六腑が急激に重くなる。頼りのチューハイは二本で終わりだ。やっぱり三本買えば良かったかと後悔が滲む。体の震えが止まらない。暑いのに寒い。

 コートをかき寄せて縮こまった彼女は、終点までキツく目を閉じたままだった。


 

 若い頃から美容師一本で生きてきた彼女。勤めていた都内の美容室が閉店してしまい、当時後輩だった彼氏と共同経営という形で六本木に店を立ち上げたのが四十代だった。当時はなにもなかった六本木で、なんとか店を軌道に乗せるために奮闘して数十年。芸能人や財界人御用達として注目を浴びることになり、彼女が喜寿を過ぎたあたりから、彼女が手がけた髪型がヒットして高齢カリスマ美容師としてテレビやメディアで突然引っ張りだこになったのだ。

 世の中、なにがバズるかはわかったもんじゃないと同居人と笑って肩を竦めながらも、一世一代のビッグウェーブを逃さず乗りこなし、店も姉妹店を出すほどに成長させた。

 そして迎えた八十の誕生日。百まで現役で頑張る気迫をアピールしてワインを流し込んだ。が、翌日、血の塊のようなおどろおどろしい血便が出た。

 最初は、疲れだと思った。

 連日の激務で積み重なった疲労が原因で体調が良くないのだと。いくら食べても頬が痩けて貧血気味なのも、腹痛が続き排便が細くなり便秘薬を常飲せざる負えなかったのも。2、3日休めば元気になると楽観していた。

 更に元々、疲れで尿にタンパクが出やすい質である上、膀胱炎も何度か患い、切れ痔と疣痔を持っていたので血便はしょっちゅうだったのだ。

 その度に大騒ぎする彼氏に連行されて医者にかかったことは数知れず、結局は痔で納まっていた。なので、今回血便が続いた時にも悪化した痔のことを考え、そろそろお尻の手術をしなければいけないかなぁと過った程度。現実にはスケジュールが込み入っていてそれどころではなかったのだ。

 例の如く痺れを切らした同居人が総合病院で勝手に予約を取った。それを何度もキャンセルして、やっとかかったのが今日だった。

「どうして、もっと早く来なかったんですか?」

 検査後、開口一番に医者から投げつけられた言葉だった。三十代後半だろうか、ところどころ癖っ毛なのかあらぬ方向に跳ねて少しくたびれたマリモのような雰囲気がベテランの域を思わせる男性の医者は、仕事が忙しくてということが言い訳にならなさそうな気がした彼女がモゴモゴと答えに窮していると、容赦ない二言目を発した。

「いわゆるステージIVと呼ばれる段階です」

「それって、どういう・・・」と首を傾げる彼女を敢えて見ないようにしているのか、ひたすらCT写真を睨む医者は「もう、手の施しようが、ありません」と切って捨てた。

 切り捨てられる髪の毛はきっとこんな気持ちなんだわと彼女は悟った。脳内がフリーズしてなにも考えられない。目の前で繰り広げられている深刻な顔をした医者が写真を指しながら説明している様子が急にぐんと遠ざかってテレビを視聴しているような非現実な心地になった。気を引き締めて理解しようと努めはするが全く入ってこない。医師の丁寧な説明を必死に聞いている振りをしながら、彼女はまったく違うことを考察し始めていた。

 医師の頭頂で立った何本かの剛毛がエアコンの風になびいている。そのうちの何本かは白髪でかつキューティクルが痛んでいるのが見て取れた。この人も多忙なのだと知れる。毛量が多いようだからツーブロックにでもすれば落ち着いて白髪も目立たなくなるのにと、残念そうな眼差しで未だこちらを向かない医師を眺めた。

 早く、終わらないかしら・・・


「おっきい切れ痔だって」

 猫っ毛につきものの薄毛の悩みに苦しみ、透けて見える頭皮をカバーできる髪型を常に考案し続けている今年六十になった同居人は、猫が嫌な匂いを嗅いだ時のように微妙な表情を作ると、少なくなった若さが吐き尽くされてしまうんじゃないかと心配してしまうほど長い長い溜め息をついた。

「心配をかけちゃったけど、でも、そういうことだから。大丈夫よ。手術をしたほうがいいみたい。まぁしといたほうがいいわよね。そのあとも通院しなきゃいけないみたい。この忙しいのに、ほんと参っちまうわね」当分、仕事はお休みするしかないわーと彼女が早口に捲し立てて苦笑いを浮かべるのを彼は一言も発せずに見守っていた。

「とにかく、今週末には手術だから。あら!今週末って確か関西で美容師講演会があるじゃない!」と、スケジュール帳を取り出してわざとらしいことを縷陳し始めた。

「ねぇ、悪いんだけど、あたしの代わりに行って来てくれないかしら? 講演する内容はもう資料も揃っているから読み込むだけだし、あなたのオリジナルを織り込んだっていい。手術って言っても入院は三日くらいだし、あたしは一人でも大丈夫だから、せっかくだから向こうで温泉に浸かってゆっくりと羽根でも伸ばしてきたら? あなたも働き過ぎなんだし、店を任せられる若手も大勢育っているんだから数日くらい大丈夫よ」せかせかと彼に予定と提案をしていく彼女。それを見つめる寡黙な彼。同居人はメールのほうがおしゃべりなのだ。

 この同居人は付和雷同型というわけではないのだが、あまり彼女に反論はしない。それは彼女が狷介不屈だからではなく、公私共のパートナーとして長い時間をかけて編み込んだブレイズのように完成された信頼感がそうさせるからだった。猪突猛進型の彼女はどんな時にもどんなに歳を重ねても真っ直ぐで勢いがあり、彼はそんな彼女を愛していたのだが、未だに結婚という形にスタイリングできないでいる。原因は、彼女だった。

 彼女が結婚という一般的過ぎる固定された形を嫌っていたのだ。

「世の中のカップルが最終的に坊主とおかっぱにしなきゃいけなくなったとして、それに倣う必要ってある?」

 この独特の彼女の理論は、不仲だった両親に起因しているらしい。結婚とはお互いを縛るだけの不自由なもの。そう幼いながら認識してしまった彼女は結婚に関してはすこぶる否定的だった。

 だが、お互いに四十を超えた辺りから彼は懸念していた。

 このまま老後を迎えるにあたって、どちらかになにかがあった場合、このまま宙ぶらりんの状態でいくら事実婚だとしても籍が入っていなければ、法律が絡んだ諸々の手続きや権限の面で困る事態に陥るのではないか。そんなことが薄毛の悩みと交互に彼の頭に去来していた。彼女が半寿に近付く今、自分がどうにかしなければいけない。今回の彼女の診察結果を聞きながら、彼の胸には決意が漲ったのだった。

「わかった。行くよ」

 暫くして発せられた彼の言葉に、胸を撫で下ろした彼女は、明日から始まる放射線治療の副作用として抜けてくるだろう髪の毛の言い訳を思案し始めていた。

 どうしたってウィッグで誤摩化せないのが、美容師の悲しいところよね・・・

 どうせ短い余命なんだから、いっそのこと治療をせずにこのままうっちゃってしまおうかと投げ遣りになりもしたが、着実に癌細胞に浸食されていく己の体が発する痛みや苦しみが彼女の浅慮を揺るがしたのだ。放射線治療をしたところで、どうせ死ぬことに変わりないんだろうから、治療をやってみて続けるかどうかを決めるのも悪くないわ。ドラマや映画や漫画などで得た知識しかない闘病という未知の領域に足を踏み入れる覚悟が自分にあるのかどうかは定かではなかった。死というものが今いち立体的に感じられず、もしかしたら徐々に体が死んでいく苦しい過程の中で自然と立ち上がってくるものなのかもしれないわなどと朧げに想像できただけだ。

 翌日、彼は関西に旅立って行った。


 ショートヘアの看護師に点滴を打たれながら、彼女は朦朧とした意識を取り戻そうとしていた。

 想像以上に辛い放射線治療が、効いている実感の得られないままに続けられる。地獄のようだった。いや、地獄はもっと辛いのだ。苦しんだ後に落ちる地獄のことを想見すると気が滅入り、治療に向き合う気力が萎えた。

 もうやめようかしら・・・

 始めて三日目。彼女は決断しようとしていた。なんせ、今夜には事情を知らない相方が帰宅するのだ。まだ目立った抜け毛はないが、このままでは遅かれ早かれ気付かれてしまう。

 この三日間、治療の痛みに耐えながら、彼女の中に密かに芽生えた計画があった。

 このままなにも知らせずに、彼の前から消えてしまおう。

 思えば結婚に否定的だったのも、無意識のうちに巻いた布石だったのかもしれない。

 どこかで、彼に負担をかけたくないと思っていた。自分の如何なる事情でも彼を束縛したくない。そんな思いから、彼のプロポーズを断り続けたのだ。そんな押し問答を繰り返しているうちに、幼いばかりだった年下の彼もいい中年になってしまった。けれど、男は中年になっても相手が若ければ充分子作りが可能だ。かの豊臣秀吉は、五十代で孫と呼んでも差し支えないような十代の嫁を娶ったのだ。今の機を逃してしまったら、彼の心を永遠に縛り付けることになってしまうだろう。死んだ自分はそれでいいかもしれないが、残される彼の気持ちになってみれば、ひたすら寂しくしんどいだけ。想像するだに悲しく、憐憫の情に駆られてしまう。

 残された時間が僅かなあたしが彼にしてあげられることは、彼をあたしから解放してあげること。

 今夜、それを実行しなければ。

「久しぶりに、外食しないか」

 帰宅した彼を待ち受けて、早速別れ話を切り出そうと口を開いた彼女を遮るようにして珍しく彼が誘ってきた。

「君の大好物のパスタを食べに行こうよ」

 かつての彼女は、主食として食べるようになっても絶対に飽きないと豪語していたくらい、大のパスタ好きだった。だが、今の彼女の消化器官に、パスタはジャンク過ぎる。治療の甲斐もなく徐々に転移箇所が広がっていた。けれど、断る理由がどうしても見つけられない。彼に怪しまれるわけにはいかない。とにかく、おかしい素振りを見せたらダメだ。痛みが下腹部を中心にじんわりと広がり出した。彼女はそれを我慢して、大袈裟に喜んだ振りをして見せた。そして腹痛に耐えながら、いかにも機嫌が良さそうな風を装って化粧をし、服を選び始める。そんな彼女の様子を、まんじりともせず見つめる彼に彼女は気付けなかった。

 寄り添って歩く、夜の帳の降りた街。

 あと何度、彼とこの世でこうして歩くことができるのかしら?

 出かける直前に洗面所で慌てて服用した痛み止めは効いてきているようが、気分が悪かった。呼吸の乱れを誤摩化しながら必死に足を前に出す彼女の胸の内には、やるせなさが渦巻いていた。

 癌細胞は毎日生まれているらしい。だから、癌になるのも珍しいことではないし、食生活が激変した現代日本では心臓系、脳系に並んでトップ3の死因に入る。人はいつか死ぬ。必ずみんな死ぬのよ。だから怖くなんてないし、寂しくなんてない。それなのに、どうしてこんなにも目に映る景色の全てが、美しく愛おしく見えてしまうのかしら。鼻の奥が痛い。ダメ、この人に気付かれてはいけない。

 無言のまま俯いて歩いていた二人が顔を上げたのは同時で、困ったー困ったぁーという大声が聞こえたからだ。

 前方の路地で、車イスに乗った波平さんヘアの老人が挙動不審の熊みたいに行ったり来たりしている。

「どうしましたか?」先に声をかけたのは彼女だった。

 老人は、火が通り始めた卵の白味みたいな潤んだ目でぼんやりと彼女を見つめると、口を何度か開閉させた。どうやら、言うか言うまいか迷っているようだ。それを察した彼が素早く口を挟む。

「実は僕たち道に迷ってしまいまして。この辺は同じような道が多いので、わからなくなっちゃうんですよね」

 それを受けた彼女が続ける。

「ええ、そうなんです、私達困ってて、それで、もしご迷惑でなければ、ご一緒したいんですけど」

 眉間と額に皺を寄せていた老人の顔が、ぱっと明るくなった。今度は目尻に皺を寄せながら、おうおうと言う。

「ちなみに、どちらに行かれる予定でしたか?」と彼女が尋ねると、老人はいえに帰るんだと答えた。

「そうなんですね。お家はどちらに?」さくらなみきのところと帰ってきた。

「桜並木・・・あぁ、桜霊園の近くなんですね。奇遇だなぁ僕たちも、そちら方面に向かっていたんです」

「おお、そうなのか。そうなのか。キグウキグウ」と、彼の言葉に嬉しそうな老人。

 桜霊園の近くには飲食店はないが、まぁ人助けということでと、老人を誘導するような形で桜並木へと進路を変更した。今の季節は葉桜なので、暗く沈んではいるが、等間隔で設置された街灯が黄緑色の光を投げかけている。

 彼女は、二人から少し遅れて歩きながら額に滲む汗をこっそりと拭いていた。

 先程の路地からここまでは対した距離ではない。それなのに、動悸が激しく息切れがして苦しいのだ。二人の後ろ姿を目で追いかけるだけで精一杯という有様。あぁ、いよいよ自分の体は歩くことすらままならなくなっているのだと叫び出したくなる恐怖を飲み下して堪える。

 前方に霊園の門が見えてきた。

 桜の花をアールヌーヴォー調に象った白く美しい門扉が、夜の暗さをものともせずにそびえ立つ。まるで天国への扉のような厳かな雰囲気を発している。

 どうせなら、この霊園を予約しておけばよかったわ、と後悔が滲む。

 この桜並木は春には見事なソメイヨシノのアーチになる。

 入ってみたことはないが、きっと霊園の中にもソメイヨシノはあるのだろう。自分もそんな穏やかな霊園で眠る事ができたならどんなにか、と夢想すると同時に、死に対して無頓着過ぎた自分を呪った。

 両親を見送っても、知り合いの葬儀に参加しても、自分には関係ないと切り離していた愚かさ。自分は大丈夫だという傲慢さ。歳を考えれば充分自業自得だわ、と息も絶え絶えに溜め息をつく。

 故郷にある両親と同じ墓に、入ることになるのかしら。親戚の誰かに事情を話して頼んでおかなければいけない。誰にも知らせずに、ひっそりと荼毘に付してと遺言を残しておかないと。それから、今の住居の名義を彼に、口座は会社名義に書き換えて。やり残しがないように秘密裏に準備しないと。そんなことをおもんみていると、麻痺させていた腹痛がぶり返し始めた。痛み止めが効かなくなってる。明日受診した時には、もっと強いのをもらってこないと。

 前方の二人が止まった。

「ここでいいよ。ありがとう!ありがとう!」

 両手で口を覆いながらそう言った老人は、今度は、車イスの後ろにかけた袋にその手を突っ込んだ。かと思うと一本の角張った瓶を取り出した。

「ありがとう!ありがとう!うれしい!うれしいー!これはおれいだ!ほんとによくしてもらった!」老人は涙を流しそうな勢いで捲し立てながら、その瓶を彼に押し付けた。

「うけとっておくれ!人生を支え合う一本を!」

 戸惑った彼が、彼女の方を見る。平静を保つことで精一杯の彼女は事態を把握していないので反応に窮してしまい、数秒見つめ合う形になった。

「あれ?」最初に声を発したのは彼女だった。

 彼の真横に居たはずの老人の姿が見えなくなっていたのだ。遅れて彼も異変に気付いた。二人で周囲を見渡すが、住宅街に伸びる桜並木にも正面に見える霊園の周りにも人影はない。老人は消えていた。

「おかしいな・・・え、なんで?」彼が上げた手には先程の角張った瓶がしっかりと握られていた。

 二人は同時に霊園に視線を滑らせ、次いで強ばっているお互いの顔へと転じた。おじいちゃんが言ってた家って、まさか・・・いやいや、そんなはずないでしょ。だって、まだ夜になったばかり、こんな早い時間なんだよと視線での無言の会話がなされ、残された瓶へと目が向けられる。どうやら酒らしいその瓶には見覚えがあった。

「これってさ、確か」そこで彼の声が途切れた。いや、声だけではない。映像も途切れてしまった。

 痛みに耐え切れなくなった彼女が倒れたのだ。


ーマルガリータって、バーテンダーの腕が試される基本的なカクテルらしいっすよ

 蛍の光が散らばっているような薄暗いカウンターで、白く縁取られた可憐なカクテルグラスを前にした若い男が呟いている。ブリーチしたアッシュ系のアップバング。やんちゃだった頃の彼だ。目上の人への口の利き方すらもなってなかっただんとつに手の焼ける後輩だった彼。まさか後々、彼女の公私共のパートナーになるなんて当時は誰も予想できなかった。

ーへぇ、あたしたち美容師で言うところの癖っ毛のショートカットなんだ

 返答したのは彼女。ピンクに染めてスパイラルパーマをかけたボブの前髪だけをポンパドールに結ったまだ若い頃の彼女だ。二人は青山骨董通りのバーにいた。彼女の大先輩が、ずっと念願だった青山に初出店できたお祝いに駆けつけた帰りだったのだ。巧緻性やセンスを持て余しているのか、トラブルメーカーで落ち着きがなかった彼に少しでも学ぶことがあろうかと、同行させたのだが、無関心そうな表情を見る限りでは、大先輩を祝った以外の価値や意味は付随できそうになかった。

 そのまま帰るのはいいが、後から地味にフラストレーションが沸きそうな予感がした彼女が、ちょうど目についた店に誘ったのだ。彼は、その日の穴と刺だらけのパンキッシュな見た目に反して酒に詳しい一面を覗かせた。それが証拠に口数が少ない普段からは想像がつかないくらいに、カウンターに座ってからずっと話が途切れない。

ーテキーラとコアントローにライムっていうシンプルな材料だからこそっすね

ーその、コアントローってなんのやつ?

ーホワイトキュラソーって呼ばれてるオレンジのリキュールっす

ーなんでオレンジなのに、ホワイトなの?

ー無色透明だからっす

ー無色でホワイトってなんでよ?

ーキュラソーって、ブルーとかレッドとかもあるんすよ。それに合わせたんじゃないかなってオレは思うけど

ークリアキュラソーじゃダメだったんだ

ー多分、色で揃えようとした時に当て嵌められなかったんじゃないっすかね

 こんなに喋る子だったのかと、まずそこで感動し、次に、意外と物事を論理的に考えられるんだということに驚いた。いつもの眠たそうな雰囲気が成りを潜め、完全に別人だ。彼との会話を楽しんでいる自分がいた。

 初老のバーテンダーが気を使ってコアントローの瓶を二人の前に置いた。

ーカッコいい!ソフトモヒカンみたい!

ーソフトモヒカンってまた、中途半端で微妙なチョイスっすね

ーソフトモヒカンってちょいワルの感じがするでしょ? この瓶にピッタリじゃない

ーちょいワルってカッコ良いんすか? それにこのボトルデザインは、

ーうるさいなーそんな蘊蓄ばっか捏ねてるから、苦手なカットを克服できないんだよ!

 彼は次の日、ソフトモヒカンにしてきた。

 よく似合ってるじゃんと褒めた彼女に頬を染める姿がなんとも愛らしいと感じたのだ。あの時のリキュール。

「・・・コアントロー」

 呟いて目覚めると、見慣れた白い天井だった。腹痛はなくなっている。横に転じると、泣き出しそうな彼の顔とその後ろに担当医の渋い顔。バレちゃったなぁと彼女は観念した。

「もう、オレ限界だわ」

 二人っきりになり、お互い無言のまま枕元のサイドテーブルに置かれたコアントローを見つめていた時、彼が息を絞り出すような声で呻いた。

「うん。仕方ないよ。こういうことだからさ」

 彼は、笑顔を作ろう彼女に睨むような鋭い視線を突き刺すと病室を出て行った。想像してたより何倍も呆気無かったなぁと彼女は、ベッドの上に乗った自分の手に視線を落とした。手荒れと鋏だこが目立つ汚い手。美容師の手。唯一彼女が誇れるその手に水滴が落ちた。次々と落ちてきた。この手は彼と共に作ってきたのだ。

「・・・ごめんなさい」噛み締めた口を押さえた両手から微かな声と共に嗚咽がこぼれた。

 彼女はそのまま入院となってしまった。

 それから数日。

 遠くから油蝉の声が聞こえ始め、強い紫外線を遮るためにひかれた病室のカーテン越しに、本格的な夏が到来したことを彼女はベッドの中から認識した。

 彼は行方知れずになっているのだと、彼女の事情を彼から知らされて飛んできた店舗マネージャーが知らせてくれた。

 あの人、どこに行ったのかしら?

 日に日に現実との境界線が曖昧になっていく白濁した意識の中、彼女は彼との記憶をゆっくりと反芻していた。

 こうして病に犯されているとわかってくる。彼女の与り知らぬところで、自らの心と体で、死を受け入れるための準備が着々と進んでいるのを。あたしは、死ぬんだわ・・・

 恐怖や絶望に打ち拉がれる過程はとうに過ぎてしまった。生きている時には雁字搦めになっている焦りや心配ごとというのは終焉には必要がないものなのね。あんなに脳内を占領していた諸手続きに関する用事は、こうして身動きが取れない身となれば、知らぬ間に消滅してしまった。それなのに、痛みを耐えている以外の時間には、やたらこの世で生きている幸せが、ほんの小さなできごと、例えばカーテンの隙間から差込む朝の光や小鳥の囀り、談話室で控え目にかかっている「Aria」のピアノの旋律、看護師や掃除婦の優しさや気丈さを垣間見る時などに感じてしまい、涙を流してしまう矛盾が付き纏ってきた。

 自分が生きていた世界は、その世界で生きている命は、こんなにも美しく素晴らしいものだったのかと感動が止まらない。自然と、なにかにつけて、莞爾として笑いながら『ありがとう』と溢れ出すように口にするようになった。

 すっかり抜けて禿た頭だけが気がかりだった。焼け野原のようになった手触りを確かめながら、なくなっちゃったんだわと侘しさを覚える。鏡はとっくに排除した。痩せさらばえて骨と皮だけになっていく自分の顔を直視できる自信がなかったから。目にしてしまったら最後、きっと死と対峙することに怖じ気づいてしまうだろう。

 連日の猛暑日を更に上回る最高気温を記録しているとテレビが騒いでいたある日の午後。

 治療から部屋に戻った彼女の鼻腔を、南フランスの海岸を思わせるオレンジの爽やかな香りがくすぐった。見ると、枕元に保管していたコアントローのキャップが開いている。香りはそこから漂っているらしいのだ。

 誰が開けたのかしらと、うっとりとする香りに誘われた彼女がコアントローに近付くと、カーテン越しの窓際から男が現れた。浮浪者のように伸びっ放しになった髪と髭から、彼だと判別できるまで時間を要したが、間違いなく彼だったのだ。一体どうしたのかと彼女が問い掛けようとする前に、彼は一枚の紙を差し出してきた。

 それは、婚姻届けだった。

「君の口座、会社名義に書き換えた。ご両親の墓前で報告もして、一方的に了承をもらってきた」

 穴が空くほど用紙を見つめながら、痙攣するように震えているだけの彼女に、彼はなおも続けた。

「オレにも、残りの君の人生を、一緒に背負わせてくれよ」

 オレンジの香りが彼女の涙腺を刺激する。その真っ直ぐな眼差しが水中に沈んだ時、彼女の薬指にはプラチナ色の光が輝いていた。



 ※コアントロー

 ホワイトキュラソーの代表格。フランスロワール地方に住んでいた製菓職人のコアントロー兄弟が、1849年にフルーツの蒸留酒を作ったのが製造元となるコアントロー社の始まりと言われる。ハイチのピガラードという品種のビターオレンジとブラジルのベラというスイートオレンジで作られたキュラソーを、三倍辛い「トリプル・セック」と名打って売り出したのが始まりだ。強い甘味が主流だった当時に旋風を巻き起こしたコアントローはたちまち人気になった。独自のノウハウが生きた本品はオレンジの花の甘やかな香りやレモンやライムなどの柑橘系、各種スパイスの隠し味が生きた絶妙な味わいとなっている。

 主にカクテルの材料として使われることが多く、バーの酒棚に並べるべき基本アイテムである。テキーラとライムを使い、グラスの縁につけた塩と共に味わう「マルガリータ」や、ホワイトラムとレモンジュースを合わせた「XYZ」、ウォッカとクランベリージュース、ライムジュースを一緒にシェークする「コスモポリタン」。ジンとレモンジュースの「ホワイト・レディ」やブランデーとホワイトラム、レモンジュースとシェークした「ビトウィーン・ザ・シーツ」ジン、ウォッカ、テキーラ、ホワイトラムにレモンとガムシロップを加え、コーラで割った「ロングアイランドアイスティー」など、一度は耳にしたことがある有名なカクテルに使われている。また、ビターチョコレートとの愛称が良く、製菓材料としても優秀な逸品だ。

 香水瓶をモチーフにデザインされたボトルや、女性への贈り物として喜ばれたオレンジを思わせるエキゾチックなボトルの色、そのオレンジを使ったシンプルで甘さ控え目な無色透明な酒には、社会進出をし始めた当時のフランス女性達へのエールが込められていたのかもしれない。

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